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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第1章 絵本をひらいてみた
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第十五話 兄(9)

「いただきます」

 眼前には一膳の箸と一組の皿。各々に焼き魚が三尾、大根おろしとともに盛られている。それと一(さや)のさやいんげん、一椀の味噌汁……質素な我が家の夕食。

 三人が食卓を囲んでいた。ぼく、父、母の三人だ。

「千尋、学校のほうはどうなの」母さんが聞いてくる。

「普通だよ、普通」とぼくは受け流すが、さて、普通とはなんだろう、と思った。普通。みんなが好んで口に出す言葉。それだけで大まかな意思疎通が図れる。けれど、「普通」の乱用はコミュニケーションを薄っぺらいものにしてしまうような気がした。

「勉強はちゃんとできてるの? 友達は? 仲良くしてる?」

「勉強はやってるし、友達も……それなりにいるよ」

「そう。頑張りなさい」

 母は会話を切った。    

 飯を咀嚼する音だけが寂と響く。空洞の箱の中に物を落としたかのような、そんな密やかな静かさ。凪。

 緑葉家は欠陥を抱えている。いびつともいえる家族の不備ともいえるし、長年の心労がたたったのか、父と母からは骨の髄までしみこむような暗然たる弊があった。

「勉強は大切だ。勉強するだけで評価される時期は学生のときにしかない」

 魚の身に箸を突き刺し、歯ですり潰す。

「人の価値は勉学等の能力だけでは決まらない。それはアホの考えだ。されど、社会は人の価値を能力のみで判断する。人格はほぼ考慮されない。能力だ。薄い人間関係を紐帯するものは能力であるし、厚い人間関係を紐帯するものは人格だ。千尋。おまえは学問を磨き、人格を練りなさい」

 父は厳格な顔立ちをわずかに、柔和にたわめた。そのしわは社会の荒波にもまれてできたもので、そのえくぼは人を愛することを知っているからできたものだった。

 胸底で父さんの至言が反芻される。ある種の真理ではないか、と不肖ながら思索を走らせた。人をつなぎとめるものは能力であるし、損益でもある。愛情とは本来、架空のものだ。愛という概念があるほうが、社会と言うものをより円滑に進めることができる。愛がなければきっと、社会は秩序を失う。愛とは一種の規律でもあった。

 そんな中、無償の愛というものがあるらしい。キリスト教における究極的な相互愛だ。蛾々島がいっていた。『無償の愛。そんなものがあるなら、みんな金に糸目をつけず買いあさるに決まってんだろ』。そして奴はぬるま湯みたいな世の中を俯瞰して、冷たく笑うんだ。

「ご馳走様」

 夕餉の膳を流し場に移す途中、「これ、届けてくれないかしら」と母がテーブルを指差していった。その先には手付かずの食膳があった。「こぼさないよう気をつけるのよ」

「分かった」ぼくは二つ返事で頷いた。飯の品々を盆に乗せる。あぁ、それと、と付け加えるように、「母さん、いつもご飯作ってくれてありがとう」といった。

「え?」とは母は面食らったような顔をした。

「行ってくる」

「あ……行ってらっしゃい」

 どこかずれたような会話をしながらも、ぼくは居間をあとにした。

 



 階段を一歩ずつ上っていくたびに、なぜぼくは「ぼく」から「おれ」になったのだろう、と考量してみた。

 まず考察すべきは「ぼく」が「おれ」になったきっかけだろう。時期は……中学校に入学したころかな。あれ以来、「ぼく」は「おれ」になった。「おれ」という自称を手に入れた。 

 おそらく家族とのつながりが関与している。父母ではない。父母はぼくに対して不干渉を貫いていた。なにもぼくが気に食わないから、という悲しい理由からではない。きっと娘の看病にいっぱいいっぱいだったからだと思う。結果、ぼくは放牧された牛のようにのびのびと育ったんじゃないかな。それでも、心のどこかで実妹の影があった。ぼくは妹が大好きだった。あぁ、なんといえばいいのかな。

 無償の愛……?

 ともかく、折を見てぼくはぼくなりに妹のことを大切にしよう、とは思っていた。しかしながら、とことん無視されたわけだけど。

 総括すると、一人称の変遷はきっと妹という存在が根幹にある。強い人間になろう、とでも思ったのだろうか。「ぼく」は「おれ」という一人称に、強く、荒々しいイメージを幻視していたのか? 

 階段を上り終えると、二つ部屋がある。ぼくは奥のほうに向かった。

 ノックする。

「入るよ」

 返事はない。

 仕方なくドアを開けた。

 薄暗い部屋の中に、彼女がいた。

「電気、つけろよ。目が悪くなるぞ」といって、ライトをオフからオンにした。とたんに明るくなる室内。

 静絵はベットに座っている。

 物憂げに窓の外を見ていた。

 四角い枠の内から夜気が立ち込めている。

「心配してくれるんだ」静絵は妖艶に笑ってみせた。雪のように白い肌が心をぞわぞわと波立たせる。

「嘘だよ」ぼくは盆を机の上に置いた。「さっきの言葉、全部嘘さ。これから本当のことを言う。用件は二つある。一つ。“飯を食え”」

 静絵は皓々とした月明かりに照らされている。表情はあまり読めない。うつむいている。

「母さん、ちょっと嬉しそうだった。おまえが珍しく着込んでるから、外に出ることを期待してたみたいなんだよ。親の期待に応えるのは子の役目だろ。たまには外出しろよ。おまえ、結構綺麗なのにもったいないぞ。……嘘じゃない。おれが本当に思ったことだからな」

「…………」

「用件二だ。“無駄な心配をかけるな”。母さんにも、おれにも」

 静絵は陰々滅々としている。おぼろげな蜃気楼のようだ。実体がない。感情や情緒といった熱が死滅している。

 と。

 静絵は。

 よちよちとまるで幼児のようなつたなさで歩き出した。見るからに危うかった。静絵はゆらゆらとからだを揺らしてぼくのところにきた。

 そして。

 静絵はぎゅーっとぼくの服の袖を握った。袖を伝って最終的にぼくの指をつかむ。本当に幼児のようだった。

「わたし、おまえに無駄な心配、かけてるのかな」とか細い声で言うんだ。「こんなんだから、わたし、ダメなのかな」

「……ダメじゃないよ。大丈夫。静絵は大丈夫だよ」

 ぼくは彼女の頭をなでてあげた。静絵は泣き笑いみたいな表情を浮かべた。その様子は親鳥にあやされる雛鳥を連想させるが、どこか名状しがたい歪みが内在している。

 静絵はぼくの胸にすがりついた。これまでぼくにぶつけていた意固地さは消え、ただもう……ぼくに。

 ぼくに。

「大好きだよ、千尋」 

 肌と肌とをこすり付けて、静絵は空っぽの笑みを浮かべる。

「おれも大好きだよ」

 決めたんだ。

 彼女とともに歩む。そう決めたんだ。どうしようもない。今まで信じてきた価値観や常識なんかでは、とても静絵には太刀打ちできない。取り払わなければならない。そうしなければ、静絵は助からないだろう。静絵は踏み込んでしまったのだ。深淵を、目くるめく深淵を……。

「わたしのこと、大切にしてね」

「当たり前だよ」

「おまえがいないとわたし、ダメなんだ」

「分かってる」

「なるべく迷惑かけないようにするから」

「遠慮なんかしなくていい」

「世界で一番好き」

「ぼくも」

「幸せに、なろうね」

「うん」

 思う。

 人は誰にも使命を帯びている。大なり小なりそういった因縁があるのだ。そうとしか思えない。そうでなければ、整合がつかない。静絵の崩壊の説明がつかない。それを食い止めるために、ぼくは――緑葉千尋は誕生したのではないのか?

 社会は嘘にまみれている。

 社会には嘘しかない。

 信じられるものは己だけ。あるいは……無償の愛。損得勘定に左右されない、絶対的な愛情なのではないのか? 静絵はそれを――禁忌という境界を越えてでも、体現しようと我が身を奮い立たせているのではないのか? 

 だとしたら。

 ぼくは。

 愛を。

 禁じられた愛を。

 受け入れるしか。

 


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