第十四話 兄(8)
『……そう、まずは玄関の扉を開けて……お母さんはいないよ。町内会の集まり。八時まで帰ってこない。お父さんは今日、夜遅くまで残業なんだよ。だから、二人っきり……玄関の扉を開けると、右手に階段がある。それを上って……一歩、また一歩……少しずつわたしと千尋との距離が近くなっていく……早く逢いたいな。早く着て。早く上ってきて……小さな廊下。わたしの部屋と千尋の部屋。奥にわたしの部屋がある。無愛想な扉。ドアノブをにぎって。そして、ひねるんだ。ひねってみるとほら……わたしがいるよ』
静絵は椅子に座って蠱惑的にほほえんでいた。
背後の出窓から、はかなげな斜陽が漏れ出ている。
携帯電話から囁かれる妖しげな声に導かれて、ぼくは妹の部屋に入室した。ぼくは道中静絵の声を聞きながら、帰宅の途についたのだった。気が変になりそうになる。なにせ、静絵はまるでぼくの恋人のように振舞うんだから。認識の相違。
「おかえり」
携帯電話から聞こえる声と眼前との声が一致する。静絵の声はこれまでとは打って変わってかすかに甘い響きがあった。
「寂しかったよ。おまえがわたしを置いて、どっかに行っちゃったから。女に恥をかかせるな。……異性の告白を前にして逃亡はないだろう、逃亡は……それで、どうなんだ? 好きなのか? わたしのこと。どれくらい好きなんだ? わたしのためなら地球が滅びてもいいくらいか? わたし以外のものを全て失っても、それでいいと思えるくらいわたしのことが好きか? わたしは……好きだ。千尋のことが好き。大好き。千尋にわたしを受け入れてもらいたいって思ってる……千尋の全てが欲しい。わたしに千尋の全てを投げ打って欲しい。わたしも千尋に全てを委ねたい。それくらい……好き。こう、千尋のことを想うだけで胸が苦しいんだ」
静絵は胸に手を当てて神妙な顔つきをしていた。匂い立つような美しさ。妖艶。赤いワンピースをはいている。すごく様になっていて、こうしてみると結構美人だった。裾から伸びる上腿はすらりと伸びていて、セミロングの黒髪は綺麗に夕焼けに映えていた。
普通の女の子と変わらない。
けれど。
この違和感はなんだ。
ぼくは無言のまま突っ立っていた。意味が分からなかった。現実感を欠いている。目の前の現象が信じられない。
静絵は――妹は――ぼくへの慕情を切々と訴えている。可憐に伏せられた眉も、小さくすぼめられた唇も、どこか愁いを帯びた両の目も、芬々たる香気を放っているんだ……。
幼い頃の静絵は意地っ張りのバカだった。ぼくを見る目はどこか反抗的で、好奇心にあふれている。まるで血気盛んな少年のよう。しかしいじめを境に欝っぽい目になって、いつも顔を打ち伏せるようになった。中学校の頃は毎度ぼくの教室に駆け込んできた。そしてぼくが高校に進学すると同時に、ぼくを無視しだした。ねめつけるような眼差し。
乖離している。
そう思った。今までの静絵とは大きく乖離している。
静絵の眼差しはあだっぽく濡れていて、舌をちろちろと出し入れしていた。
「千尋……聞いているのか、千尋。よそ見をするな。悲しい。わたしを見ろ。わたしだけを見ろ……」
静絵に腕を掴まれた。
目が合う。
「あ、あ……」
ぼくはふやけたような声を出して、静絵を直視していた。静絵に触れられた箇所が熱を放っている。
「千尋……」
静絵がゆっくりと肉薄してくる。
ぼくは。
ぼくは――。
「静絵」
ぼくは静絵の肩をつかんだ。
「う……うん……」
静絵は頬を赤く染めて小さく震えている。
決断を――迫られているのではないか、と思った。
過ちを正す機会。
偽りを矯める機会。
何が正で何が誤なのか。
何が誤で何が正なのか。
何が真に何が偽なのか。
何が偽で何が真なのか。
人は悲しい生き物なのかもしれない。隣にいるものが何を考えているのかすら分からず、自分が何を思っているのかもまた、分からない。自家撞着に悩み、この世の矛盾に苦しみ、生と死の狭間とに揺れ動く。
死はすなわち――ゼロであるという見解。人は死んでゼロになる。では、生とははたしてなんなのだろうか。
プラスなのだろうか。
マイナスなのだろうか。
人の生涯は常に微妙なマイナスであって、死んで初めてゼロに戻る――ということではないのか? 生きることはつらい。だから、生きながらえるのはマイナスを受容し続けるということではないのか? 人は往々にして苦役や苦難に耐え忍んでいる。他者と共有できない苦しみ。降り注いでくる苦難、痛苦……親しいものの気持ちすら理解できない。離れている。どうしたって近づけない。触れ合う距離にあるのに、相手の意中が、真意が、計りがたい。むしろ、疑わしいものにすら見える。
人は碌々と困窮、困苦を受け入れる。仕方がないと諦めて……放棄。見て見ぬふりをして等閑に付すのだ。
すぐそばにある不幸。苦しみは永遠になくならない。人の宿業。生まれながらにして断末魔の十字架を背負っている。不幸からは逃げられない。人生の幸福や不幸、プラスとマイナスの形は上下にうねる波ではなく、ただただ不の直線でしかないのではないのか? そうとしか思えない。絶対的な何かによって定められている。
そして。
もう一つ、定められている。人間は決してなくならない受難、そして――使命のようなものを帯びているのだ。使命。ぼくの場合は何だろうね。平凡に生きること? あるいは――大切な人を守ること? ……大切な人。それはいったい誰なのか。おまえはそれに心当たりがあるか? ぼくはいままで、誰のために生きてきたんだ?
分かるわけないさ。
悲しい生き物だよ。
人は。
ぼくは。
「静絵はさ、おれのことが本当に好きなのか?」
静絵は目に見えて真っ赤になった。困ったように目を逸らす。新鮮な反応だ。ぼくはこれまで、妹にそんな表情をされたことがない。
「……好きに決まってるっ。わたしは好きなんだ。おまえが、千尋が、好きなんだ。あぁ、この感情がおかしいってことは分かってる。わたしは狂ってるんだ。でも……おまえがいない世界なんて、考えられない。ずっとそばにいて欲しいんだ。隣にいて欲しい、抱きしめて欲しい、愛して欲しい……それで、おまえは、おまえは……わたしのことを、どう思ってるのか、気に、なる……教えて欲しいんだ。千尋の胸のうちを……臆病だから。わたし、臆病なんだ。おまえの感情が分からない、何を考えているのかも分からない。びょーきなのかな。分からないんだ、相手が何を思っているのか。だから、だからっ! 言葉にしてくれないとっ、分からないんだよ……。千尋。おまえがいないと、だっ、ダメなんだ。ダメになる。心と体が使い物にならなくなるんだ。自分の腕が自分のものとは思えない、自分の足が自分のものとは思えない、自分の感情が自分のものとは思えない……欠落している。通常の思考回路が断絶してるんだ。人格が壊れてるんだよ。それでさ、千尋。直して欲しいんだ、おまえに。おまえだけなんだ。おまえだけがわたしを救ってくれる。籠の中の鳥はもういやなんだよ。普通の人間にしてくれよ、わたしをっ! 千尋を愛してもいい人間にしてくれよ、千尋っ! 頼むよ……お願いだから……わたしを……」
静絵はぼくの胸に手を押し当てた。もう片方の手は不安げにワンピースの袖を摘んでいる。
ぼくは。
君は。
静絵は今にも消えてしまうそうな表情をしている。思いつめた顔。専一にぼくだけ見ている。
記憶がフラッシュバックする。
手ひどくいじめられていた静絵、悲しそうに笑う静絵、鬱々と沈み込む静絵……。
静絵が静絵であるために。
君は。
ぼくのことが必要かい?