第十三話 兄(7)
人は一人では生きていけない。
人は二人では生きていける。
でもさ、二人で生きていけるとしても、二人っきりではこの世界、生きていけないと思うんだよ。
あの日――。
ぼくと君が乗り越えた行路の先には、もう道は続いていなかった。
◆◆◆
際涯のない田畑の地平を見ると、秋めく松籟のように胸がざわめいた。
ざわざわ。
得体の知れぬ焦燥が忍び寄ってくる。それは世界から切り離されるような感覚に似ていた。
ぼくは電柱に体を預け、ぼんやりと薄暮の空を眺めていた。
太陽が沈んでいく。
もうじき、月が空に浮かび上がる。
人生は螺旋階段のようなものだ、と人は言う。
日常。同じ景色。ぐるぐると回っている。
そうじゃない。
見える景色は変わらない、ように感じる。ただ、少しずつではあるが、上昇している。
徐々に、徐々に。
螺旋階段は文字通り螺旋を描く。円。高みへと続く螺旋。幾許の星霜を経てなお、無限……のように見える有限。確実に終わりがある。渦。人の織り成す渦。
人生も同じだ、と人は言う。
知らぬ間に高いところへ行っている。普遍の日常。ありきたりな毎日。人は思う。疑問を持つ。自分は変わっているのか。何かが変わっているのか。
そう思うのも無理はないんだろうね。
気がつけば、人は成長している。変わらないと思っていたものは、無意識のうちに変質していくのだ。
階段を上がっていけば、やがて見えてくるのだろう。疲れたら階段の上に腰掛けて休んでもいいだろう。
欲していた答え。
望んでいた願い。
いずれ、近づく。手に入れることができる。
でも……この愛だけは、このときめきだけは……ダメなんだよ。いけないことなんだよ。分かるだろ、静絵。そんな感情、家族に対して持っちゃいけないんだ。家族は家族。ぼくはおまえの兄で、おまえはぼくの妹じゃないか。なんで愛を罪だと、思わなくちゃならないのさ。
と。
隻影。華奢な一個の人間――。
「よぉ、緑場」
そいつははかなげに、剛毅に、笑ってみせた。透き影を作る頬、弧の形を描く唇、どこか幸薄げな笑顔……。
「そんなとこにうずくまっても車は止まってくれねェーぞ」
「言っておくが、ヒッチハイクじゃないからな」
「でもよぉー、こんなど田舎じゃぁ、止まってくれるのはせいぜいトラクターってのが関の山だぜ」
蛾々島杏奈はころころと笑った。
あぁ。
邪悪だ。
彼女の笑みはひどく邪悪だ。世に対する恨みであるとか、あくなき憎悪であるとか、そういった不の感情が鬱勃している。純然たる悪意。それは触れてはいけない美醜の極地。屈折した優美と突出した醜悪とが混ざり合った、この世にあらざるもの……。
手元には。
手元には――傘がある。
「……律儀な奴だな」
「は? 何がだよ」
「それ」ぼくは傘を指差した。「返しに来てくれたんじゃないのか」
すると蛾々島は困ったような嬉しがるような、そんな奇妙な笑みを浮かべた。「いや、その……まぁ、そんなところだよ、バカ」
「バカって言った奴がバカなんだぞ」
「んだよ、魔族に対する宣戦布告かコラ。人類対魔族の全面戦争かコラ」
「傘返してくれたら和平条約結んでやるよ」
「はっ、謹んで受け取りやがれ愚昧なる人間がっ! おかげで雨に濡れることなく家に帰れたぞクソヤロウ」
「またそんな汚い言葉使ってさ。誠意は伝わったけど、もう少しお上品に言ったらどうなんだ」
「おまえはオレのお守りかよ。そういうときは自由奔放でよろしゅうございますね、だろ」
といいながらも、蛾々島は楽しそうだ。
ぼくは立ち上がって突き出された傘をもっともらしく拝受する。
受け取る際、互いが互いを窺うように、彼女はぼくに上目遣いを向けて、ぼくは気恥ずかしげに頬をかいた。
目が合うと、二人して腹を抱えて笑った。その様子がおかしかった。赤らんだ蛾々島の面貌がかわいらしいものに見えた。
「なぁ、緑場……」
「なにさ」
「オレの買い物に付き合えよ。今日は肉じゃがだ。オレの得意料理のよぉー」
「……分かったよ。どうせ反対しても無駄なんだろ。無駄を省くためにここは“イエス”といっておく。おれは無駄って言葉が死ぬほど嫌いなんだ」
「その考えには同感だけどよぉー、それは失礼ってもんだぜ……拒否権はないけどな。おまえに拒否権はないんだけどな」
「だろうと思った」
「すっかり主従精神が板についてきたな、緑場ぁ……さ、主人の散歩だぜ……ついてこいよ、おれの後ろをよぉ……こう頭を垂れて、従順によぉー」
「だから、なんでそうなるんだ」
「ほら、さっさとついて来い。日が暮れる……夜がくるぞ……もうすぐにな」
蛾々島はぼくなんぞ意に介さず、踵を返している。スーパーに向かう気なのだ。土ぼこりの立つ畑道。背中はついてくるようぼくに促している……。
「……やれやれだな」
蛾々島との買い物が終わると、太陽はすっかり西の空に没していた。
気付いたことがある。自分が思う以上に時がたつのが早いということ。そして、蛾々島が意外に家庭的な人間であったこと――だ。
食材を選別する蛾々島の手の動き……長年ああいうことをやってきた手つきだ。値段と味とを考慮している。蛾々島家の食事は奴によってまかなわれているのか? だとしたら、蛾々島杏奈に対する認識は大きく変わってくる。……奴は家庭的な女なのか?
おそらく、七時を回っている。
これからどうすればいいのか悩んでいた。このまま家に帰るか、だれかの家に泊めてもらうのか……。ぼくは半分妹を無視するような形で家から飛び出してしまっている。返答をしていない。静絵の想いに対して、「はい」のか「いいえ」なのか、答えていない。 でも、彼女を拒絶してしまえば大変なことが起こりそうな気がした。
元々静絵は情緒不安定な性格で、今の枯淡な生活がかろうじて心の均衡を保っている状態なのだ。それがぐらりと揺れてしまえば、崩れてしまえば、いったいどうなってしまうのか。想像が易いだけに、想像したくない。きっと彼女は壊れてしまうだろう。
しかしだからといって受け入れる、と言う選択肢はありえない。ぼくは彼女を一度もそういう風に見たこともなければ、女として意識したこともない。確かに静絵は割と綺麗な顔立ちだけど……ほら、あれだろ。妹だろ。恋愛対象としてみるわけないだろ。むしろ、守るべき存在。庇護し温かく見守ってやるのが兄の務めと言うものではないのか?
我ながら無意味な葛藤をしていると、ぶるぶるとポケットがバイブレーションした。ポケットがふるえるわけないから、しまいこんだ携帯が誰かからの着信を知らせているのだろう。
二つ折りの携帯をあけてみると、青白い画面にはただ一言、静絵と表示されてある。
背筋に嫌な汗が流れた。
一瞬、切ってしまおうか、といった思考が働いた。
けれど。
「……もしもし」
『……千尋?』
画面の向こうからか細い声が聞こえてくる。彼女の声色からは安堵という感情が読み取れた。それと喜び。女の喜悦。にじみでている。
ぼくの携帯には小数なれど何人かのメールアドレスなんかが記録されている。しかし静絵のそれはおそらく家族のものしか登録されていない。彼女と外界とを接続する術はなく、また外界に属する友人もいない。連絡する相手は家族だけ。一般的な学生が静絵の現状を見れば、ひどく悲しいものに映るに違いない。
『いきなりどっかに行くなんて、ずいぶんひどいじゃないか。どこに行ってたんだ。わたしを放置して、どこに行ってたんだ』
「……気分転換に外の空気を吸いに出たんだ。それで、それで……偶然友達と会って、それで……」
『それって――女?』
「…………」
『とにかく、帰ってくるんだ。逢いたい。わたしは千尋に逢いたい……。千尋はイジワルだ。わたしに寂しい想いをさせるなんて、怒りを通り越して呆れているぞ、わたしは』
と不満げにいいつつも、静絵の口調は妙に柔らかい。刺々しさといったものはすっかり消えている。
そして……静絵の言い分はまるでぼくの彼女みたいだった。あたかも睦まじい恋人のように接してくる。そこに違和感を覚えた。もしかしたら静絵の頭の中では、ぼくという存在が別の何かに置換されているのかもしれない。
置換。
兄。
緑葉千尋という存在。