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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第1章 絵本をひらいてみた
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第十二話 蛾(3)

 帰宅すると玄関にきらびやかなハイヒールが一足あった。

 嫌な予感がした。

 彼から借りた傘を適当に傘立てにいれ、乱暴に靴を脱ぎ捨てた。吐き気にも似た焦燥感だ。吐き出したくなる。まるで呪いだ。わたしの人生を束縛する重荷、罪の十字架……。それは血を紐帯(ちゅうたい)とする忌むべきつながりでもあった。

 断ち切ってしまいたいけど、断ち切れない。

 切り離してしまいたいけど、切り離せない。

 もどかしい。

「あら、お帰りなさい。杏奈」

 そいつは化粧をぬりたくった醜悪な面でわたしに挨拶してきやがったのさ。

 丸型テーブルには三十代後半の女と齢傾いた伯父がいた。二人は兄妹の関係のはずだが、歳は十五も離れている。兄妹の仲は悪い。もちろん、わたしもこの女が嫌いだ。殺人が罪に問われなくなるっていう法が施行されたら、この女を真っ先に殺すだろう。

 わたしはかっと女を睨みつけた。おまえは不要だ、ここにいるべき人間じゃないと、呪詛の思念を込めて。

「もう、それが実の母親に向ける目かしら。まるで蛇みたいよ」

 カラカラと笑う。

 その笑い声は金属を摺り合わせたようで拒否反応が出る。でも、妖艶。女の声や姿態は見るものを引き付けるほど艶やかで、隠れもない色香が漂っている。

 騙されない。

 それは熟れすぎた果実が放つただれた色艶だ。退廃と堕落を意味する危うい美しさだ。触れたものに破滅をもたらす。一皮向けば中にどんな獣がいるか、知れたものではない。

「なんのようだよ、この白粉臭い売女(ばいた)がっ。おまえに居場所なんてないんだよ!」

「そんな汚い言葉、どこで覚えたのかしら。やはり、それなりのところに通学させないと、性根まで腐ってしまうものなのね」

「腐ってんのはおまえだっ! おまえのせいでどれだけ人生を無為に過ごしたか……おまえにはその償いをする義務があるっ! おまえはオレと伯父さんのATMであればいいんだよっ。二度とこの家に来るなっ!」

 女は平然と受け流している。それで? そんな表情。まるで物みたいにわたしを見る。あぁ、あいつにとって私は単なる所有物に過ぎないのか……。

 家族。

 産み、産まれるから端を発する血縁集団。両親やきょうだいと愛を育み、基本的なことを学ぶための機構。

 ある種、木のようなものだと解釈している。幹が父親で、根が母親、そして枝や葉に当たるのが子供。栄養の供給がなければ木は枯れる。幹や根が腐敗すれば、枝や葉も道連れになる。反面、枝葉が腐敗しても幹や根に直接的なダメージは出ない。家族とは得てしてそんなものではないのか?

 根っこが腐るから枝や葉が腐る。 

 そういうことじゃないのか?

「杏奈も少しは口を慎まんか! いくらこんな親でも親は親だろう? そんなことを口にするのは……悲しすぎる」

「伯父さんもこいつの肩を持つのかよ!」 

「そういうわけではない。ただわしは嫌なのだ。こんな骨肉相食むの惨を演じるのは……人倫にもとる。わしとて妹と姪が争う光景なんぞ、見たくもない」

「だったら……!」

「だから話し合いの機会を設けたのだ!」

 伯父は烈火のごとく怒った。いつもは温厚な伯父が手を振り上げてテーブルを打ち叩いた。

 わたしの母親はその様子を冷ややかに見ている。

 伯父は悲哀の表情で呟いた。「こうなったのは少なからずわしにも責任がある。妹を正しい道に導けなかった責任……姪に過酷な人生を歩ませた責任……わしはここで清算したい。これはけじめだ」

「……分かったよ」わたしはへなへなとくず折れた。そんなことを言われては折れないわけにはいかないじゃないか。わたしは仕方なくテーブルのそばによった。

 鼎談(ていだん)

 元凶は――父と母との不和にあった。元より愛情など露ほどもない。打算と営利のみで契られた婚姻だった。

 そんな中生まれたのがわたし――蛾々島杏奈だった。

 母は幼少期の頃からわたしに英才教育を施した。過剰な教育、過剰なしつけ、過剰な指導……わたしの生活は徹底的に母親に管理されていた。友達なんていない。そばにいるのたいてい母親か家庭教師。

 それは一種の代替行為だった。母は自分ではなし得なかったことを娘を通じてなしたかったのだろう。自分の理想を子に押し付けたのだ。でも、子供の脳みそは真っ白だから、疑うことなく飲み込む。気がつけば母親に言いなりのお人形ができる。

 人形が自我を持ったのは十三歳の誕生日だった。その辺りから自らの環境が閉鎖的で不可解なものだと気付いた。箱の中から箱の外は覗けない。気付くのにかなりの時間を費やした。

 そして。

 爆発。

 わたしは胸襟にくすぶる違和感や、何者かに操られているような居心地の悪さを暴露した。

 後から振り返ってみても、それが分岐点だった。

 わたしは脱出した。母の財布からくすねたカードと現金を持って逃走。縁者を頼ってはるばるこの石倉市へと流れ着いた。都道府県を一つまたぐ程度だったので、そう大規模なものでもなかったが、生まれてこの方一度も電車等を使ったことがないからすごく苦労した。苦難の旅だった。

 初めは一週間ほど逗留して母親の考えを改めさせよう、といった考えだった。けれど、伯父との素朴な生活に愛着を感じ始めて、母親からの連絡は全て無視した。伯父も母の鼻につく性格が嫌いだった。

 目くるめく開放感。わたしは自由を知った。愛情を知った。人間の生き方を知った。

 一ヶ月ほど学校や両親を放り出した。母親からの連絡は絶えていた。わたしの家出が原因で離婚したらしかった。わたしは完全に冷え切った父と母を想起した。当たり前だった。そう長く続くはずがない。子は(かすがい)。夫婦をつなぐものは愛ではなく子――。

 心のどこかで、これでやり直せる、と力む自分がいた。伯父との生活は充実していたが、やはり寂しさがあった。それは本来母親が埋めてくれるはずの空洞。そのときのわたしはバカだったから、母親に対して道徳とか倫理とかそういった架空のものを本気で信じきっていたのだ。

 親権は母にあったが、わたしは伯父や他の親類の勧めでこのままの生活を持続することになった。母は子を扶養できる状態ではなかった。なんというか、錯乱していた。正常ではなかった。人格崩壊。

 わたしは半年も通っていない有名女子高を中退し、地方の高校――石倉南中学校へと転学。父は他に女を作り、母の消息は途絶えた……。

 わたしがオレになったのも、きっとこの頃。幸いと言うか、伯父の家には古ぼけたパソコンがあった。それがわたしの第二の人格を形成したのだ。わたしも母同様、微妙に人格が崩壊していたので、虚構世界の一部を持って、その空白を補填しようと――。

「なんだおまえがここにいるんだよ」わたしは悠然といる母をねめつけた。「トチ狂ってお友達にでもなりにきたのか?」

「私はあなたの母になろうと思ったのよ」と母はトチ狂ったことを宣いやがった。「やり直しましょう、杏奈」

「ほざけっ! 都合がよすぎるんだよおまえは! オレに散々なことしやがったくせにいけしゃあしゃあと……」

「でも、寂しかったのでしょう?」  

 と。

 母は。

「私がいなくて寂しかったでしょう?」

「……てめぇ」

「あなたは心のどこかで母の存在を恋焦がれていたのじゃありませんか? あなたの隣にはいつも私がいました。あなたから見れば私は煩わしい存在だったのでしょう。けれど……けれど、けれど、けれど、私の持つ、すばらしき子供、と言う理想がいつしか、あたかもあなた自身の目標として認識されたのではないですか? 母に気に入られる子供になろうと、そう思っていたのではないですか?」

「虚妄だっ! おまえの言っていることは虚妄! そんなわけないっ。オレはおまえのおもちゃじゃないっ!」

「あなたは……いつ“オレ”になったのかしら。少し前までは“わたし”だったでしょう? 私を排したその日――あなたは私という存在から開放――素朴な田舎暮らし――でもそれは、これまでの人生を否定するような生き方――失う前の回帰――だからあなたは、補填したのでしょう? 人格を取り繕った。空虚な自分に耐え切れなかった」 

「オレは……ずっと前からオレだったさ! それよりもっ! オレはっ! 何でおまえがここにいるんだってことをっ! 聞いてるんだ!」

「私はねあなたと一緒に暮らしたいと思っているわ。過去のことは水に流して、親子水入らず、でね」

 ……わたしは呆れて、これまで無言を保っていた伯父を見た。伯父は渋面を作って瞑目していた。

 女はふわふわとわたあめみたいな笑みを浮かべている。

 なんだよ。

 イカレてる。

 わたしはおまえの束縛が嫌だったから、全てを捨て去ろうと決起したのだ。そしておまえは、行方も知れず、伯父に娘の扶育を丸投げして、わたしをほったらかしにしていたんだろ。だったらそのまま、おまえは社会の隅で泥やら霞やらを食って、かろうじて生き延びていればよかったのだ。それなのに……一緒に暮らしましょう、なんて羞恥心と言うものがないのか。

「実はね杏奈、私、近々結婚するの。それであなたを引き取ろうと思う。今日来たのもあなたや伯父さんに打診するためよ」

「はっ、結婚! オレがいたときは何の色も艶もねぇーおばさんだったのによぉー、オレがいなくなってから急に色気づきやがってっ。これはオレって言う足枷がなくなったから、本来の下種な本能が開花したってことなんじゃないのか? おまえの本質はやはり、俗気多い毒婦だってことだろっ! そんなクズ女に引っかかる男はろくでもない奴って相場は決まってんだ。オレはそんなクズ夫婦の下でくだらねぇ家族ごっこなんざしたかぁねぇーんだよっ!」

 まるで咆哮だ、と思った。たまぎるような叫び。母親に対する嫌悪感が莫大に膨れ上がって、どうしようもなかった。

 それにまがいなりにもこの女は、結婚と言う幸せを掴もうとしている。こんな母でもそれなりに愛する男がいるということなのか。腹立たしい。私はなおさらこいつのことが嫌いになった。

「ま、落ち着け。……落ち着け。お前の言い分はもっともだが、少し頭を冷やしなさい」

「伯父さん!」

「今まで連絡を取っていなかった母親が急に来て動転したのだろう。どこかに行っていなさい。こいつとはわしが決着をつけてやろう」

 これまで静観を堅持していた伯父は颯と母を見据えた。節くれだって手がテーブルに添えられ、厳しい顔つきになる。一方の母は相変わらず白痴に笑っている。

 逡巡する。伯父のことは信頼している。けど、これでは責任放棄みたいで嫌だ。

 と。

 伯父の背中を見る。

 まるで(いわお)のように壮健な背中。白髪はすっかり薄くなり、畑仕事で鍛えた筋肉はげっそりと削げ落ちている。けれど、その背中のなんと頼もしいことか。

「分かったよ……買い物にでも行ってくる。夕飯は肉じゃがにするよ」

「うむ」

「あぁ、言っとくが、食材は二人分しか買わないからな」と捨て台詞をはいて、振り返ることもなく居間から中座した。

 開けた扉の先には晴れ渡った夕空があった。

 視線を傘立てに転じる。

 ……返しにいこうかな。

 彼の顔が見たいと思った。傘を返却するついでに、彼の顔を見よう。それでとりとめもないことを話して、お礼を言うのだ。日頃彼にはひどいことをしているから、詫びもかねて、さ。彼ならからかい混じりに許してくれるだろうし、わたしの淀んだ陰鬱をも晴らしてくれるだろうから。

 わたしは彼の傘を持って、柄にもなくルンルンと歩を進めていった。

 


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