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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第1章 絵本をひらいてみた
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第十一話 蛾(2)

 佐島月子が売春しているといううわさが立ったのは、ちょうどもみじの緋の葉がひらひらと舞う秋されの頃だった。

 誰が言い出したのかは定かではない。けれど、気がつけばそんな軽々しい仄聞(そくぶん)が広範に及ぶようになっていた。その当時は社会の裏も表も知らぬ中学生。薄々と性を自覚する春愁富む年頃。だからなのか、同級生の売春と言うショッキングなうわさが過剰なまでに伝播した。もっとも、片田舎の村里で売春が横行しているとは思えないし、中学生が春をひさいでいるなんて常識的にみても考えづらい。

 でも。

 きっとそんなことはどうでもよくて、ようは変化のない日常に刺激が欲しかっただけなのだろう。朝起きて、学校に行って、勉強して帰宅。夕食、就寝……すばらしきかな安逸の日々、うねることも曲がることもない生活の軌道……。そんな安楽とも言える緊張感のない暮らし、倦みつかれた性情がうわさを肥え太らせていったのだろう……。 

「一つ、発見がある」 

 あいつの声。

 緑葉千尋。

 公立石倉高等学校二年、身長百六十九センチ、体重五十八キロ、やせぎすだが割りと筋肉質。家族構成は実母、実父、実妹の計四名。千九百九十四年七月十七日生まれ。十六歳。男。血液型は几帳面とされるA型だが、性格は大雑把。交友関係は狭く、部活動にも属していない。いかにも平均といったステータスだが、ところがどっこい、こいつは普通じゃない。

 奴はまじめ腐って人差し指を立てた。得意顔だ。機嫌がいい。「聞きたいか」

「発見? おまえのことだ、どうせろくなもんじゃないんだろ」と切り捨てるが、気にならないこともない。それに普段は感情を表に出さない奴が、珍しく破顔しているゆえも気になる。

「ろくでもないかどうかはおまえが決めたらいいさ」

「……やけに挑発的な物言いだぜ――緑葉。顔に書いてあるぜ。何か強烈でいて新鮮な――いいぃことがあったってよぉー。いいことってのはおまえの発見とイコールってことだろ。男の喜ぶいいことってのはあれだからな、男女関係に限定されるからなぁ。オレには分かるんだぜ、おまえのいいことって奴の正体がよぉー」

 すると奴は笑った。楽しそうに笑った。自然な笑み。わたしにはできない笑顔。「いや、これは千里眼のおまえにも分からないんじゃないかな」

「カカカ、おまえの余裕そうな表情は見ていてイライラするな」

「蛾々島は昼飯にパンばっかり食べてるから、カルシウムが足りてないんだよ。それと人間力」

「オレは魔王だからな、人間の基準でオレを判断するもんじゃねーよ」

 奴はふっと笑った。

 わたしも鼻で笑う。

 その一瞬がひどく、かけがいのないもののように思えた。

 胸の中に温かな風が吹いてくる。閉塞感を吹き飛ばしてくれる、清新な涼風。それはぽっかりと開いた心の穴を埋めてくれるようで、絶対的に足りない何かを補ってくれるようで……落ち着く。わたしは彼の隣にいると、心の律動が徐々に安定していって、やがて静かな調べを奏でるのだ。凪、無風、名状しがたい安らぎ……。

 道端の黄菖蒲(きしょうぶ)が楚々と咲いている。

 わたしたちはしばらくの間、無言で田舎道を歩いていった。

 心地よい。

 ひどく心地よい。

 ずっと味わっていたい。

 永遠に噛み締めていたい。

 あぁ、人はこの感情をなんと呼ぶのだろう。このキリキリと蝕んでいくような苦しみを、渇きにも似たうずきを……けれど、不快ではない。この感情を形容しうる言葉が見つからない。

 時々殺したくなる。

 狂おしいほどに、彼を殺したくなるときがある。

 今がそのときなのかもしれない。平和。大いに満たされている。でも、心のどこかで破壊したいとも望んでいる。破滅への我執。わたしは彼を壊したい。猛烈に壊したいと思っている。でも、彼のいない生活を想定してみると、目の前が真っ暗になった。わたしには彼が必要なんだ、といった結論に行き着く。

 あぁ、人はこの感情をなんと呼ぶのだろう。

 今なら自信を持って言える。

 この感情は――。

 悪意、であると。

「おまえさ、これからも佐島と仲良くしろよ」

「……は?」

 不意をつかれたわたしは素っ頓狂な声を上げた。佐島? なんでこのタイミングで彼女の名前が出る?

 混乱をよそに、緑葉千尋はその解をわたしに与える。

「昼休みに佐島と話してるところを見たんだ。おれは委員会の集まりで視聴覚室に行っていた。一方のおまえは佐島と購買部に行ってたんだろ。仲良く話しながらさ」

 ……見ていたのか。

 合点がいく。どうやら目撃されていたらしい。それも都合のいい箇所だけ。わたしと佐島月子とがじゃれあっているシーンだけ。

 奴はきっと知らないのだろう。佐島月子が過去、売春疑惑がかかっていて、一時周囲からいないものとして扱われていたことを。それらを蛾々島杏奈が皮肉と嘲笑を持って露払いしたことを。そして、その後始末に藤宮詠太郎(ふじみやよみたろう)が一枚噛んでいたことを。

 宿業。

 さしずめ、宿業。

 醜い黒歴史。

「視界の端に見えただけだったから、何を話してたのかは分からかった。でも、話してたってことは確かだ。会話は親しい奴同士がやる行為だからな」彼は遠い目をしていた。雛の巣立ちを祝する親鳥のような顔。「今から失礼なこと言うぞ。おれさ、おまえに友達なんていないと思ってた。でも、そうじゃないらしい。それを見て、ちょっと安心したんだ」

 緑葉千尋は前々からわたしに友達がいないことを憂慮していた。そういう緑葉も友達が多いほうではないが、わたしほど皆無ではない。蛾々島杏奈の対人関係は緑葉千尋を除いて壊滅している。それもこれも、このキャラクターのせいなのだろうけど。

 だから、奴には蛾々島杏奈の友達探しなる気概を持っていた。折を見ては、「友達作れよ」とか、「女の子らしく振舞え」とか言う。大きなお世話だ、と思うが、それが一般的なものの考えかた。わたしの思考は常軌から逸しているのだから。

 しかし。

 器の狭いわたしは、これ以上誰かと意思疎通なんてできそうにない。彼一人で手一杯なんだ。ほかの奴と親しくするなんて、多分無理。 わたしの神経はそこまで複雑にできていない。一人の人間の思惟を予想するだけでもきついのに、二人にも三人にもなれば、必ずパンクする。ショート。わたしは彼の気持ちしか受信できないし、彼にしかわたしの気持ちを送信できない。

 同時に、満足している。この関係、距離に満ち足りたものを覚えている。彼以外の夾雑物はいらないのだ。

 でも。

 もしかしたら。

 彼はこの関係に満足していないのかもしれない。二人だけの閉じた世界が嫌なのかもしれない。開拓と発展。それらを願っているのかもしれない。わたしは開拓も発展も望んでいないのに。

 そんなことを考えると、体が鉄火のように熱くなった。燃え滾っている。何が燃えているのか。……心? バカ言え、それではまるで、わたしが緑場との関係だけを希求しているみたいじゃないか。一人自分の殻に閉じこもって、緑場の厚意に甘えているだけみたいじゃないか。

 それではまるで。

 緑場のことが好きみたいじゃないか。

「緑場」

「ん」

 わたしは半身を引いて蹴りの体勢をとった。

 奴はとっさに体をひねって、わたしの蹴りをかわした。地面に手をつく。そしてやれやれと首をふった。「相変わらず手荒いなぁ、おまえは。暴力はさらなる暴力しか生まないんだぞ。負の連鎖なんだぞ」と奴の顔には蹴りを回避したことの満足感があった。他人におもねらない清廉があった。

「なら、おまえのところで断ち切れ」わたしはきっと酷薄なものを表情に浮かべている。「やっぱりイライラする。おまえの言葉は聞いてるだけでイライラする」

「……イライライライラっておまえよぉ、そのうち血管が破裂するんじゃないか? 顔は割りと綺麗なんだからさ、怒った顔するともったいないよ」

 奴はぽんぽんと土を払って、わたしを見た。

 その距離約一メートル。

 クリアに澄んだ薄暮。野鳥の鳴き声。電線によって区切られた空。火照る頬。

 雨が降り出した。沛然(はいぜん)たる通り雨。たちまち夕空を暗雲が覆い、寒冷な雨が地上に降り注いだ。

「おまえと帰ると、たいてい雨が降るんだ」彼は苦笑しながらカバンから折り畳み傘を取り出した。「使えよ。おれの家はすぐそこだから」

「あっ……でも、おまえ……」

「この傘がおまえに使って欲しいって言ってるんだ」

 緑葉は無理矢理わたしに傘を握らせて、雨でぬかるんだ畔を走り去っていった。

 わたしは暫時呆然の態だった。先刻の感情の動きがよく分からなかったからなのだろうか。幸か不幸か、曖昧模糊としたそれは緑場との別れで立ち消えてしまった。

 冷たい雨が空っぽのからだを満たしていく。

 わたしは舌打ちをして、傘を広げた。



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