第十話 蛾(1)
【蛾】
・鱗翅目の昆虫のうち、チョウ類を除いたものの総称。卵 ー幼虫 ー 蛹 ー 成虫という完全変態をおこなう。
・他者から忌み嫌われる存在。
◆◆◆
善と悪の境界を、清と濁の境界を、陰と陽の境界を、飛び回る。飛び回って、困惑する。善と悪も、清と濁も、陰と陽も、結局は人間のエゴの産物ではないのか、とそう思ったからだ。己の醜さを、弱さを、浅ましさを、もっともらしい論理で軽減したい、あるいはないものとして扱いたい……と。
醜悪だ。
吐き気を催す低劣。同時に、そんな愚にもつかない世界にわたしは生きているのか、と失望にも似た嘆きをもらす。色を失う世界、消失する自己……。
「あなたはね、なるの。お勉強もできて、 礼儀正しくて、きめ細やかな貴婦人に、なるの。そしてすばらしいお婿さんをもらって、わたしたちを喜ばせるのがあなたの最良の人生なの。分かった? 分かった、分かった、分かった?」
とち狂った母は、毎日のようにそんなことを言う。勉強しなさいだの、礼儀を覚えなさいだのなんだのとヒステリックに叫び立てる。
そんな母は、醜かった。世間の評判や名声にこだわるばかりの、俗物。自分の希望を娘に押し付け、それを強制する愚かさ。謙虚でありなさいという、謙虚でない姿勢……イライラする。矛盾してるじゃないか、と胸の内で悪態をつくわたし。そして、わたしを産み落としたものの正体が、虚妄に塗り固められた怪物であることを痛感するのだ。
「いい加減にしろよ、このクズ女が! なにお高くとまってんだっ。わたしはおまえのペットか、着せ替え人形か? 違う、圧倒的に違う! そうやって色々なものを強いて、扼して、わたしの人生をメチャクチャにするつもりなんだろ、そうだ、そうに決まってる――あぁ、クソったれ!」
母は口をあんぐりとあけ、しばし呆然とした風になった。
わたしは腹の底に溜まっていた思いを、その場の勢いに任せて洗いざらいぶちまけた。日頃被っていた化けの皮がはがれた瞬間だった。深窓の令嬢、聞き分けのよい娘は、一夜にして口汚いあばずれに豹変したのだ。
母は見る見るうちに血をのぼせて、わたしの頬を叩いた。
鈍い痛みがさらなる怒りを呼んだ。
わたしは母を組み敷き、その細い首を絞めようとした。母は必死に抵抗するが、無駄。圧倒的に無駄。わたしは積年の恨みを持って、母の生命に終止符を打とうとしたのだ。それも無意識、獣に帰一したような本能の赴くままに――。
世界とは。
世界とは元より、食うか食われるか、殺すか殺される、といった二元的なものでしかない。やれ平和、やれ隣人愛、反吐が出る。そんなもの、架空。空想上の産物。明けても暮れても人は咬みあい、騙しあい、媚びあい、貶めあい、裏切る。負の連鎖――明々白々な事実。終わらない戦い、小競り合い、紛争。
世界の史実において、戦争が本当になくなった期間はわずか三週間とすら言われている。右手で握手をして、左手で拳銃を握り締める、それが人間の姿。現実を否定するな。否定してなんになるのか。武器を捨てても、捨てた武器で殺されるだけだ。肯定しろ。肯定して、己が欲望を昇華させろ。
ふにゃふにゃした皮膚の感覚。その裏側で脈動する血、生命のともし火……それが漸次として、弱まっているのが分かった。
母は、向かっている。死へと、魂の終焉へと、向かいつつある。それを推し進めているのが、わたし。娘である、わたし……。でも、死ね。死んで、詫びろ。わたしの人生をメチャクチャにした罪を、己が命脈で償え――。
◆◆◆
深いまどろみの中、わたしは目覚めた。あの夢だ。またあの夢を見た。従順であることを捨てた日。庇護されることから決別した日。めまいがする。この感情はなんだ。胸にぽっかりと穴が開いたような気分。鑿や鏨で心臓の一部をくりぬかれたみたいだ。貫く。螺旋。激痛の糸車。紡がれる。打ち抜かれる。楔。釘。きりきりと痛む。乖離する体。わたしはこの感覚に見覚えがある。痛覚。いや、違うな。これは痛みとは違う。もっと感情的で理性を排した何か。生得。本能。たぎる悪意。あふれる悲しみ。そう、これは――。
と。
耳障りな音が聞こえてきた。快眠を妨げる魔魅。チャイム。
同時にペンやノートを片付ける音がして、号令がかかって、椅子を引く音がして、寂たる教室はたちまち騒がしくなった。
手枕を作ってまどろんでいたわたしは立ち上がるのも面倒で、そのまま授業を終えた。注意する人や注視する人も特にいず、中年の数学教師は何事もなく教室を後にする。
まだ淡い眠気があった。わたしは授業の大半は寝てすごしている。いわゆる、昼寝。授業時間はほとんど寝てる。起きない。いや、熟睡が死と同等の状態だと仮定すると、起きた時にまだ寝ていたいと思うのは、実は死ぬのが気持ちいいからかもしれない。死の安寧につかっていたいと、そういうことかもしれない。……その旨を彼に話したら一笑に付された記憶があった。「逆に言うならそれは、生きるのがつらいってことなのか?」とそして彼は心配そうに言う。
始まりのチャイムが鳴れば、いつものようにくだらない授業が延々と展開される。先生が公式を書いて、生真面目な生徒がカリカリと板書して……とそれだけで眠気が喚起される。自然と手枕を作ってしまうのもしょうがないことだと思うんだ。
わたしはぼんやりと窓の外を眺める。右手に深山幽谷、左手に砂浜と碧海。わたしの住み暮らす石倉市は山と海に囲まれた辺鄙な村落だ。海運は開かれてはいるものの、陸の交通事情は壊滅している。でも、わたしはこの村が嫌いじゃない。
妙に生徒の数が少ないと思ったら、どうやらすでに四時間目を乗り切っていたらしい。と言うことは四時間まるごと安眠をむさぼっていた計算になる。どうりで……とわたしは腹の辺りを押さえる。
わたしは椅子から立ち上がり、購買部へと向かった。弁当は諸事情あってないから、やむなく購買のパンで露命をつなぐこととなる。毎日菓子パンだから正直言って、飽きる。ま、冷凍食品や夕飯の余りなんかが詰め込まれた弁当よりはずっといいと思うけど。
春の影の降りる廊下に足を踏み入れた。みな奇異なものでも見たような視線をよこすが、わたしのほうはもう慣れた。モーゼの十戒のごとく、道ができる。
ぼんやりと歩を進めながら、「あいつもつれてくればよかったかな」と友達と仲良く連れ立つ生徒を見て思う。情けないとも感じ、弱い……というか気持ち悪い自分をも知覚する。
「蛾々島さん、ちょっといいかな」
購買部に寄った直後、珍しいことにわたしに声をかけてくる人間がいた。
「んだよ、コラ」数個の菓子パンを購買のババアから受け取って、代金を支払うまでの過程のことだ。「気安くオレの名前を口にすんじゃねーよ」
「相変わらず口が汚いのね」
佐島月子はどこか哀れむように言った。
一瞬顔と名前が一致しなかったのも、進学以来顔を会わせなかったからだろう。月子はさりげなくわたしを避けていた。明々白々。でも今になって接触してくるのはなんだか解せなかった……ってこの文脈だと女々しいやつみたいだ、わたし。
「口が汚いもは元からでね、んで、腹も黒いのさ」わたしは月子の横を一過した。それで会話を終わらせるつもりだった。
だが。
唇を引き結んだ月子は険しい顔をしながらもわたしの腕を掴んできた。一驚を喫したわたしは、しばし考えた後、月子のほうを振り向いた。
眼前には目を針のように細めた月子の可憐な顔とマネキンみたいに調和の取れた肢体があった。
「……このパンが欲しいのか?」
「ち、違います! わたしは人のものをたかるほどいやしん坊でも食いしん坊じゃありませんっ」
「でも」わたしは月子の両の目を覗き込んだ。夏の蒼海が内包されているかのような透明で涼やかな瞳。水晶を入れ込んだ眼球。きっと月子の目の窪みはこの綺麗な眼球をはめ込むために掘削されたのだろうし、月子の網膜は清冽な世界を見るために視神経に繋がれたのだろう。「結局おまえ、ベットの上では暴れん坊将軍なんだろ?」
「な」と月子は目に見えて赤くなった。
図星……なのかな。
「もしかして、おまえ……」
「ち、違うよ、わたしはそんなんじゃ……けど最初に求めたのはわたしからだったしなぁ……でも、途中から詠太郎のほうからわたしを組み敷いてきたんだよぉ。そ、そのあとは前後不覚だったから覚えてないに決まってるじゃない!」
「なに衆目の前で性生活を暴露してんだよ。みんな恥ずかしがって下向いてるじゃねぇか」
わたしはそそくさと離れていく周辺の生徒をあごで示してやった。すると月子はまた泣きそうな顔をした。ころころと表情が変わる。スロットマシーンみたいで面白い、とわたしはそんなことを考える。
「……また変なうわさが立ちそう」
「とっくに立ってるだろ」
「そうね……」
「亭主自慢はもういいのか?」
月子の顔がゆでだこのようになった。「黙って!」
「なんだよ……話がしたいといってオレを引き止めたかと思えば、今度は口を閉ざせ、かよ。オーダーを途中で取りやめるのは感心しねぇなぁ、こいつはよぉー」
「無理矢理詠太郎のことを引き出すのが悪いんでしょ? あなたのような口の達者な人をペテン師っていうのよ」
「寝技が達者なおまえはさしずめ、夜の女王だな」
「……殺すわよ」
「……オーケー、怒った顔はおまえには似合わないぜ。オレはおまえの笑った顔が見たい」
「言動には気をつけることね」
「で」わたしは全身をクールダウンさせた。女は常にクールでないといけない。クールじゃないやつは美しくない。だろ。「いい加減用件を言え。オレは気の長いほうじゃないんでね」
「緑葉君にこれ以上近づかないで」
と。
月子はぴしゃりと言った。
冷や水を打ったように静かになる。
閑寂。
ここだけ瞬間冷凍されたみたいだ。
「そのセリフ……もしかして修羅場? 三角関係のもつれ?」
「なんでわたしとあなたと緑場君とでトライアングルを描かなくちゃいけないのっ。わたしは詠太郎一筋よ」
「そのなんとかってやつも幸せ者だな。こんだけ言われて」
「そんなことはいいから返答は? もちろん返答はイエスしか認めないけど」
「オレの家系は先祖代々浄土真宗だからよぉ、新興宗教はお断りなんだよ」
「……イエス・キリストなんて私言ってないし、それにキリスト教は新興宗教でもなんでもない!」
「おいおい熱くなんなよ。ホットになるのはベットの上だけにしとけ」
「もう、セクハラ親父みたいなこと言うな! 話が進まないっ」
月子はすっかり疲れていた。叩けば響く、と言う言葉が脳裏によぎった。ひょっとしたら彼以上の感度かもしれない。……あぁ、いっておくがそっち方向のことじゃない。
「……それで蛾々島さんは緑場君のこと、どう思ってるの?」
「友達だろ」
「嘘」
「だから友達だって」
「絶対嘘」
「……いいか、空がなぜ青いのかと言うとな、地球の周りの空気が青い光を反射してるからなんだぜ」
「……好きなんじゃないの、緑場君のこと」
「…………」
「蛾々島さんが緑場君に付きまとってるから、緑場君迷惑してるよ。人も寄ってこないし、友達もできづらいし、彼女だってできやしない。そうでしょう?」
ひんやりとした空気が汗でべたつく肌を乾かしてくれる。
喉が渇く。
ひどく。
嫌な気分になった。
「蛾々島さんは自分が異常なんだって分からないの? おかしいって思わないの? それで緑場君が困ってるって思わないの?」
「……黙れよ」
「こんなこと私だって言いたくないけど……でも、緑場君は妹思いの優しい人なのに蛾々島さんのせいで被害をこうむってる。このままじゃ一人ぼっちだよ」
「……聞こえなかったのか?」
と。
わたしは。
月子の胸倉を。
「黙れって言う言葉が聞こえなかったのか? オレは黙れと言った。なら、黙るのが筋ってもんだろ。鳥みたいにぴいぴい鳴きやがって、ここに猟銃があったら撃ち殺してたところだぜ」
「く、苦しい。蛾々島さん……」
「気安く呼ぶな。オレはおまえと親しくなったつもりも友達になったつもりもない。毫もない。それともおまえ……まだ勘違いしてたのか? 言っとくけどよぉー、あれは善意とか慈愛とか、そういった高尚な、すばらしい感情から発露した行動なんかじゃない。……おまえさ、こういう経験ないか? とある公園だ。ガキ二人が一つしかないブランコを取り合っている。一人は貧弱そうなガキ、もう一人はいかにも強そうなガキ……結果は見えてるよな。でもよぉー、そういうの見てるとイライラしないか? レベルの低い争いしてるなって、そう思わないか? そういう時はさ、割り込むだろ。ブランコ。割り込んで独り占めしたいだろ。せっかく必死こいて争っていたのに、第三者がそれを掻っ攫う。漁夫の利。オレはそういう理不尽な結末が好きなんだよ……分かったか? 利害が共通していただけなんだ。おまえのはいわば生存競争で、オレのほうはと言うと単なる気まぐれ。整理してみると単純だな、きっちり証明された数式みたいによぉ。……いいだろ、もう。おまえはもう弱くないんだろ。友達もいっぱいいるし、いい男もいる。それで何が不満なんだ? それとも――意趣返しか? 笑わせるなよ、タコ。しょせん矮小なんだよおまえは。ほら、早く彼氏のところに言って慰めてもらえよ。傷跡舐めてもらえよ。それとオレとあいつの仲にくちばしを差し挟むんじゃねーぞ。あいつはオレの唯一の理解者なんだ。バカにしてんじゃねーよ。それくらいのことであいつがオレと飯食ったりするの止めるかよ……あいつは気の毒なくらいお人よしだからよぉ、オレみたいにカワイソウな奴見てるとついつい体が動いちまう性質なんだな。分かったならさっさと消えろ。反吐が出る。……そういえばおまえ、へこへこと頭下げながら逃げ帰るのが得意だったよな。あれは傑作だった。まさに世界の縮図。でもその勢力図はすでに塗り替えられたんだ。あとはおまえの好きにしたらいい。……分かるだろ?」