第一話 兄(1)
今止まらずにいつ止まる。
【兄】
1.兄弟のうち、年長の男性。
2.二人称。男子が手紙などで親しい先輩・同輩を敬っていう語。
3.誰かのために戦える人。
◆◆◆
未来とは不確定で明るくて希望があって楽しくて幸せで……といった意見が世間的に一般的であるが、ぼくの場合、それはきっと淀み、腐りきった未来なのではないか、と思う。
異常で異質で異端で、気持ち悪い過去、現在、未来……。
ぼくの人生は概してそんなもので、だからこそ、これまでにあった数少ない幸福って奴を探さなきゃいけないと思うんだ。
こんなぼくにもわりかし普通な日々があったってことの証左になるかもしれないからさ。
春。
石倉市。
夕刻
降りけむる霧雨。
ぼくはマイスイートルームで物思いにふけっていた。というより、胸裏にわだかまるもやもやとしたものを持て余していた、といったほうが適切かもしれない。つらつらと紙の上にペンを走らせる。ぼくの頭はおぼろげながらに数式を演算していくけど、途中で別の何かにすりかわっていく。数式の代わりに形成される目、鼻、口……曖昧模糊としたそれは人の形をしていた。
妹。
同じ母の腹から生まれた同胞、隣人。でもそんなに姿形は似てないし、仲もよくない。むしろ絶縁状態にあるといっても過言ではなかった。
ぼくはペンを放り出した。やってられないよ、と敷きっぱなしの布団に倒れこむ。気恥ずかしさのようなものを感じ、何度も寝返りを打った。でも離れない。妹の像はぼくの頭から一片たりとも離れない。
鬱々とした気持ちで外の景色を眺めた。糠雨。細かい雫が窓ガラスにへばりつく。
この感情はなんなのか。
自問する。胸に手を置いて、自問する。この感情はなんなのか。この感情はなんなのか。
この感情はなんなのか。
答えは出ない。
と。
携帯電話が鳴る。
途切れる思考、思念。
ぼくは机の上に放置していた携帯を手に取った。バイブレーションしている。誰かから電話が来たみたいだ。「もしもし」
『オレだよ、オレ』
「……オレオレ詐欺は間に合ってるよ」
『いや、違うっつーの。勝手にオレを犯罪者に仕立て上げんじゃねぇよ、緑葉よぉ』
緑葉千尋。
それがぼくの名前だ。
「それで、おれに何か用か」
『いやさ……』
「なんだ、煮え切らない奴だな」ぼくは窓の縁に腰を下ろした。「すぱっとすっぱ抜くのが蛾々島の性分じゃないか。らしくないぞ」
『そういうおまえはオレの何を知ってるんだよ』
「うーん、多分何も知らない。おれたち会ってからまだ一、二ヶ月くらいだろ。そんな短い期間じゃ分からないよ、何も」
『オレは知ってるぞ、おまえのこと。何でも知ってる』
「変なこというな」
ぼくは蛾々島が笑っているような気持ちがした。
雨がしとしとと立ち込めている。
「笑ってるのか、蛾々島?」
『もしかして怒ってんのか、緑葉?』
「おまえが変なこというからだろ」
『はは、オレはおまえのむっとした顔が見たいだけなんだよ』
「電話越しなのに見えるのかよ」
『言ったろ』と蛾々島はやや声のトーンを下げた。『オレはお前のこと、何でも知ってるってよぉ』
「千里眼でも持ってんのか、おまえ?」
『オレはどちらかっていうと、邪気眼のほうに分類されるだろうけどな』
「邪気眼……?」
『オーケー、おまえはまだネット社会に汚染されていないピュアな奴だと判明した。だからなのか、オレはおまえのすねたような純真な表情が好きなんだよ。泣きはらした女の顔みたいでそそるんだ』
「視力だけでなく趣味も悪くなったな」
付言すれば、蛾々島は右目に眼帯をはめている。
『でもおまえよりはるかに頭は良いぜ』
「学年一位に比べられたら、大半は頭の悪い連中に区分されるだろ」
まったくもって気に食わないことだけど、この電話の相手は勉強だけは結構できる。メチャクチャできる。勉強している形跡がないのに、順位が一桁より落ちたことがない、と前にいっていた。蛾々島はまがうことなく優等生だった。
しかしながら、その中身はとても優等生とはいえない。
『不満なのか? オレみたいな落伍者が勉強できて』
「不安なだけさ。こんな奴が二年後に社会に出ると思ったらな」
『カカカ、そんときゃおまえがオレを養ってくれよ。まさに奇貨おくべし、だな。オレは運動もできるし勉強もできる。顔もいい。だが、人付き合いだけはどうしてもできないんだ』
奴は頭のイカレた文句を口にした。
ぼくは窓の外にある電柱に目を向けた。糸のような雨が畦や泥濘に降り敷く中、灯りに虫が群がっている。ぼくの住んでいるところは僻陬の港町だ。田畑と海、それと森。自然豊かといえば聞こえはいいが、交通の便は悪く、移動には不都合な片田舎だった。それでも、ぼくはこの町が嫌いじゃない。
どうやら電灯に集まっているのは蛾のようだった。体を雨に貫かれても光を求めている。なんだ、蛾も人間と変わらないじゃないか、と思った。人間も障害や壁を乗り越えて、燦然と輝く光を追い求める。その光に己が身を焼き焦がされることがあっても。イカロスは天高くは飛べないのだ。
「それで、おれに何か用か」
ぼくは話を振り出しに戻した。
『ったく、こちとら楽しく話してるってのによぉ、話の腰を折るんじゃねぇよ、緑葉』
「おれはおまえに話の筋を通せっていってんだ。脱線しまくりじゃないか、おまえの話は。間違いなく車両事故だろ、これは」
『車両事故に付き合うおまえもおまえだな』
「減らず口言うなよ」
『そうかよ、じゃぁな』
「って、おい! 蛾々島!」
電話が切れた。
ぼくはまじまじと携帯電話を見る。
……なんなんだ、あいつ。
結局何のために電話したんだよ。
なんだかバカらしくなって、再度布団に倒れこんだ。このまま寝てしまおうか。まだ七時過ぎだけど、それはそれで良いような気がした。
体が睡眠を欲している。疲れた。蛾々島との通話でかなりの体力を使った感があった。
そんな時。
そんな時、僕の意識は急速に現実に呼び戻される。
「……おい」
一瞬、息が詰まりそうになった。鼓動を速める心臓。
部屋の外から声が聞こえる。
ぼくはこの声に聞き覚えがあった。幾度となく耳にしてきた、彼女の声だ。
「これから夕ご飯だから、早く来てよ」
声は寂々として冷たく、ナイフのように鋭く尖っていた。熱も情緒も感じさせない声だった。ただ事務的、機械的だった。
階段を駆け下りる音。
生ぬるい熱気が冷や汗に濡れた体を包み込む。
陰々滅々とした雨に呼応してか、ぼくはどうしようもなく気分が沈んでいくのを感じた。
階下に着くと、食欲をそそる芳しい香りがした。
母は炊飯ジャーから四人分のご飯をよそっているところだった。せっせと楽しそうな表情。いつもの光景だ。
テーブルではすでに父が新聞を広げていた。目をせわしなく動かして記事を流し読んでいる。いつもの光景だ。
妹は不機嫌そうに頬杖をついていた。ぼくの姿を視認すると眉をひそめて嫌そうに舌打ちする。いつもの光景だ。
「ほらほら、千尋も席に着く」と母はぼくに着席するよう催促した。テーブルに視線を投じてみれば、漬け物がやたらとある。「あのねぇ、お隣さんから漬け物をたくさんもらってねぇ、ありがたいことよねぇ、千尋もお隣さんと会ったらお礼、いっといてちょうだい」
母の言葉はほとんど耳に届かなかった。どうしたらいいんだろうか、とそんなことが脳内で繰り返される。
ぼくは躊躇を覚えつつも、座る。妹の隣に、座る。
また舌打ちが聞こえる。
少し苛っとしたが、ぼくは大人、ぼくは大人と胸底で呪文のように唱える。ここは紳士としての対応を……。
「いただきます」
水面下の不穏を抱えつつも緑葉家の夕食が始まる――。
今晩の献立は焼き魚、冷奴、ご飯に漬け物とごくありふれたものだった。庶民の食事。ぼくは黙々と食事を摂る。この苛々をやけ食いという形で発散したかったのかもしれない。蛾々島の電話のこともある。ぼくの人間関係は少なからず崩壊していたり、破綻したりしていた。
豆腐にしょうゆをかけ、かきこむように口の中に入れた。
と。
妹はちらちらとこちらのほうを見ている。その視線を辿ってみると、さっきぼくが使ったばかりのしょうゆに注がれているのが分かった。
ぼくはしょうゆを妹に差し出してやった。
妹は少し驚いたようだが、ふいにひったくるようにしてしょうゆを取った。感謝の言葉もない。感謝の言葉が欲しいわけじゃない。でも、一言くらい何か言うのが人としての礼儀なんじゃないのかな。
「静絵」きっとぼくの声は過当の怒気が込められていたに違いない。「おまえ、おれに喧嘩売ってるのか?」
妹は――静絵は――無視。あたかもそこにぼくが存在しないかのような態度を取っている。あぁ、とぼくは怫然と沸いてくる憤怒をとめることができなくなった。「静絵」ぼくは静絵の腕を掴んだ。なぜこうも邪険に扱うのか、剣呑とした態度をとるのか詰問したかった。これまでのことを振り返ってみても、妹の言動はとびっきりにイカレていた。中学校に上がった時からぼくを露骨に無視したり、遠ざけたりしていた。
ない交ぜになる感情。
「触るな、バカ兄貴」
ぼくの怒りはたちまち沈静化した。立ち消えていく憤激。ぼくはへなへなと手を離した。
母は心配そうにぼくたちを見ている。
父は新聞の一面を熟読している。
「ご馳走様」
妹は面倒くさそうに席を立ち上がっている。
ぼくは去り行く妹の後姿を眼で追っている。