五話 恐怖の再来。滑稽な逃走。森の底で目覚める。
深夜。
優しく頬を撫でる手に、レダぼんやりと目を覚ました。
「久しいな、レダ。ここでの暮らしにはそろそろ慣れたか」
忘れたくとも忘れられないその声は、記憶にあるよりだいぶ低く。
薄闇の中で見あげたその顔は、少年というより青年のものだった。
――― グランベルク・ウォーシャーフ。
一目見た瞬間に全身を凍りつかせ、悲鳴をあげかけたレダの唇を軽く手でおおってふさぐ。
「まだ夜だ。兄妹たちを起こしてしまうぞ」
端正な顔立ちには磨きがかかり、体はがっしりと鍛えあげられてたくましい。
そんな彼が、レダを捕えたあの時から四年という歳月を経たグランベルクが、確かに今、目の前にいた。
どうすれば彼から逃れられるのか考えることもできず、レダは本能的にずりずりと後ろへ下がり、ベッドの柵に背がぶつかると、それにすがるようにして上半身を起こした。
彼は今もその腰に剣を帯びている。
四年前よりも大きく、使いこまれた実用的な剣を。
美和子はこわくてこわくて、たまらなかった。
レダはその心の奥底ではっきりと目覚め、身を起こした。
「そう警戒するな。今日はこの地から解放される時が近いと、教えに来ただけだ」
よほどここから逃れたかったようだからな。
二度の小旅行は楽しんだか?
酷薄に笑うその顔に、心底からこみあげる怒りで顔が青ざめるのを感じた。
やはり彼が阻んだのだ。
あの必死の逃走は悪夢などではなく、彼に阻まれて失敗した現実だったのだ。
理解すると、さすがに美和子も怖れてばかりはいられなくなった。
どれほどけんめいにあの逃走のためのお金を貯めたか。
どれほど必死に見つからないことを祈り、周りの人たちの様子をうかがい、身を隠したか。
どれほどおびえながら、苦しい眠りについたか。
(彼は知っていた。すべて知っていて、わたしが眠っている間にここへ連れ戻した)
「あなたはいったい、何がしたいの……?」
青ざめた顔でささやくように訊くレダに、グランベルクは答えなかった。
「その時が来れば、お前にはわかるだろう。すべてが終わったら、いいか、よく覚えておけ。こう言うんだ」
まるでこれから遊びに行くかのような顔をして、低い声が告げた。
「わたしは王国に生まれた二十二番目の御子に仕えるものとして、神託を授かった」
(二十二番目の御子? 神託?)
わけがわからず、いぶかしげな顔をする少女にかまわず、グランベルクは言葉を続けた。
「覚えておけ。この言葉を口にする時、お前はこの地から解き放たれる」
それきり記憶はふつりと途絶え、レダは意図せず眠りに沈んだ。
◆×◆×◆×◆
目が覚めると、いつも通りの朝だった。
「……」
ベッドの上でいつまでも呆然として動かないレダに気づき、メメリーがそばにきて名を呼んだ。
「れだ」
ほっそりとした少女の体がびくりと震え、その青い目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
突然のことに驚くメメリーの前で、レダは流れ落ちる涙をぬぐうこともなく、泣いているという自覚さえなく、押し殺した声で言った。
「いや……!」
そして薄い寝間着のままベッドから飛び降り、靴もはかずに転がるような勢いで部屋から出た。
逃げ出したかった。
もうどこでもいいから、何でもいいからここから逃げ出したかった。
(彼の言う「その時」をおとなしく待つなんて、絶対にいや!)
恐怖か怒りか、たまりにたまった鬱屈のせいか。
何かが切れて爆発したレダは教会を飛び出し、街からも飛び出した。
街は外敵から身を守るために頑丈な石壁で囲われ、門には番人が置かれていたが、レダは小柄な体で彼らの間を走り抜けた。
「おい、お前!」
背後で門番が叫んだが、レダは止まらなかった。
ひろい草原をただひたすらに走り続けて森に入り、しばらくして木の根につまずき、転んだ。
うっと息がつまり、それきり呼吸ができなくなるような苦しさに、起きあがることもできずもがいた。
息は数秒してようやく通るようになったが、やはり起きあがることはできず、レダは転がったまま荒い呼吸を繰り返した。
あちこちにすりむいたり切ったりした傷があり、全身が痛かった。
とくに布を巻いただけの足がひどく痛んだ。
(いたい。いたい。いたい……!!)
もどかしさに獣のごとく叫び、苦しさに泣きわめいた。
逃げたいのに思うように逃げられない己の無力さが滑稽だった。
ただ自分を痛めつけ、魔獣が棲むという森に入りこんだ愚かさが滑稽だった。
(わたしはなんてバカなんだろう。
なんて、無力なんだろう……)
大地に降り積もった枯れ葉を見て、涙とはなみず、泥と血で汚れた体でぼんやりと思った。
(そうだね。みわこは、ばかだよ)
いつの間に起きていたのか、心の奥底でレダがうなずいた。
(こんなもりのなかに、ぶきももたずにひとりではいって。
いきてかえれるとおもってるの?)
自分一人の体ではないのだと、いつもは覚えているはずのことをふと思い出した。
けれどもう、美和子には立ちあがる気力などひとかけらもなかった。
(ごめん、レダ。ごめんね……)
しょうがないなとため息をついて、レダは美和子の手を引き、疲れきったその心を奥底へ沈ませた。
そうして体の主導権をとると、傷の痛みをこらえてそばにあった木の根をぐっと掴み、枯れ葉の中から身を起こす。
(あたしはまだ、しぬきはないの)
その泣きぬれた青い目には、力強い光が宿っていた。