三話 現実か悪夢か。穏やかな生活。兄妹たち。
目が覚めると、見慣れた孤児院の天井があった。
当然のように、腰帯に銅貨は一枚もなかった。
これが現実なのか悪夢なのか、わからなかった。
「もう、いや……。こんなの、いや……」
レダはぼろぼろと泣いた。
他の子ども達がそれに気づき、孤児の中で最年長の少年を呼んできた。
「レダ、どうしたんだ?」
薄い茶色の髪に緑の目、頬にそばかす。
きつい眼つきをしていたが、面倒見の良いみんなの兄的な存在であるロイドは、ベッドで泣き続けるレダを見て心配そうに声をかけた。
「昨日、街で迷子になったんだって? 助祭さまたちが心配して、探してくれてたんだぞ。見つかって良かったけど、何か怖いことでもあったのか?」
疲れきったレダは何も言わず、何も言えず、ただ泣き続けた。
ロイドはしばらくそんなレダに付き添ってくれていたが、彼とてひまなわけではない。
「もうしばらく、街には出るなよ。それと、今日は調子が悪いみたいだって、助祭さまに言っておくから」
ゆっくり休めよ。
軽い食事を持ってきてレダのそばに置くと、そう言って自分の仕事へ戻った。
レダは涙が枯れるまで泣いてから、冷えきったその食事をぼそぼそと口の中に押し込み、疲れ果ててぐったりと横になった。
◆×◆×◆×◆
孤児院に入って三年目。
レダは街へ出されなくなり、一枚の銅貨を貯めることもできなくなった。
大人達がレダにおこづかいではなく、すぐに食べられるものを与えるようになり、街へのおつかいも頼まなくなったからだ。
一枚ずつこつこつと貯めたお金を使って逃げても、悪夢のように孤児院へ連れ戻されるのに疲れたレダは、すこし休むことにした。
グランベルクは自分が命令するまでここを離れるなと言ったけれど、あれ以来、彼からは何の連絡もない。
それを考えると、焦る必要はなかったのかもしれないと思った。
乗合馬車で隣街まで行ったはいいけれど、それ以降どうすればいいのか何もわかっていなかったから、今度はそれを考えながら機会を待とう。
美和子はそう考えて落ち着いた。
レダは心の奥底で瞼を閉じたまま、何も言わなかった。
「三番目の月がのぼり、あなたは生まれた」
ささやくような声で歌いながら、ぞうきんで孤児院の床を拭く。
「空を見たいとひとみをひらき、鳥とともに歌おうとくちびるをひらく」
この世界の事を学ぶにつれて、美和子の記憶はだんだんと輪郭を失いつつあったが、レダの母の唯一の思い出であるためか、この子守唄だけは決して記憶から薄らぐことがなかった。
そして美和子が歌う時、レダはうっすらと瞼を開き、じっとそれを聞いていた。
「今はおやすみ、いとしい子」
この日は心の奥底でうずくまる少女の他にも、その歌を聴く人がいた。
レダが床を拭く場所からすこし離れたところに、ちいさな女の子がぼんやりと立っている。
ふとそれに気づき、レダは手を拭いてその女の子のところへ行った。
昨日来たばかりの、笑わない、泣かない、しゃべらない、傷だらけの女の子だ。
レダは彼女について助祭達が、食事をとろうとしないがどうしたものだろうか、と心配そうに話すのを聞いていた。
「こんにちは。わたし、レダっていうの」
銀の髪に青い目。
もうすこし肉付きが良ければ愛らしく思えるだろう顔立ちをしていたが、ひどくやせ細っていて目ばかりぎょろぎょろと大きく見え、無口なこととあいまって不気味な印象のある女の子。
レダは二、三歩離れたところでしゃがんで、その青い目と視線を合わせ、にっこりと笑った。
「わたしたち、目の色が同じ」
髪の色はちがうけど、姉妹みたい。
そうして微笑んだまま、「あなたのお名前は?」と訊くと、長い、ながい沈黙の後、女の子がぽつりと答えた。
「めめりー」
「そう。メメリーというの。かわいい名前だね」
メメリーは何も言わなかった。
ただそのお腹が、くるくるきゅーと、鳴いた。
「お腹が空いてるのね」とうなずいて、レダは立ちあがり、手を差し出した。
「一緒に台所へ行って、何か食べてもいい物があるかどうか、訊いてみよう」
メメリーはしばらく動かなかったが、辛抱強く待つレダに、やがておずおずと手を伸ばし、細い指でレダの手に触れた。
かるく、ごく軽くその指を握って、レダはメメリーを台所へ連れて行った。
そしてちいさなパンとチーズのかけら、一杯のミルクをもらい、メメリーに食べさせた。
メメリーは今までどうして食べなかったのか、不思議に思うほどがつがつと食べた。
レダはむさぼるように食べ物を口につめこむのをはらはらと見守り、服の下にまだ手当てされていない傷があるのに気づくと、修道士のところへ連れて行って手当てを頼んだ。
それからはどこへ行くにも、メメリーはぴたりとレダについて来るようになった。
美和子が長年双子の弟妹を見守る姉だったせいか、無言で自分を追ってくるメメリーを、彼女は息をするように当たり前に世話した。
そして一日とたたず、メメリーが食事をとらなかったのは、どうやって食べたら良いのかわからなかったからだと気づいた。
「こうやってすくうの。こぼさないよう気をつけて、口の中へ入れるんだよ」
野菜のスープをすくいながらスプーンの使い方を教え、かたいパンはスープにひたして食べるのだと教えるレダを、向かいに座ったメメリーはじっと見あげ、いっしょうけんめい真似をして食べるようになった。
おそらくは誰かに虐待されていたのだろうが、これまでどんなふうに育てられてきたのか、しばらくしてだいぶレダに慣れてきたメメリーが、ある時ぽつりと言った。
「めめりー、れだ、すき。ここ、すき。
ごはん、たべるの、へたでも、おこられない。だれも、ぶたない」
ここは厳しい世界だと、改めて思い知った瞬間だった。
幼い子どもには、とくに厳しい世界だ。
レダは泣くように微笑んで、答えた。
「だいじょうぶだよ、メメリー。もう誰も怒ったり、ぶったりなんてしないから。安心して、ゆっくり食べていいんだよ」
メメリーはこっくりとうなずいて、ちいさな手でレダの指を握った。