二話 逃げて。きっともう、だいじょうぶ。逃げて。
「お願いします。わたしにできることは何でもします。いっしょうけんめい働きますから、どうか、どうかお願いします」
お母さんを探しに行きたいんです。
そう言って拝み倒し、懇願に懇願をかさねてレダはようやく隊商に加わる許しを得た。
孤児は手癖が悪く、下手に同情すると厄介の種になるとしか思われていない世界で、レダに邪な視線を投げることもなく隊商に加えてくれた初老の商人は、「お前さんと同じくらいの孫娘がいるものでな」と困った様子で言って、しぶしぶと出発まで荷運びを手伝うよう言った。
レダは言われるまま荷運びを手伝い、食事の準備を手伝い、隊商の人々の細々としたおつかいに走り回った。
これでやっと逃げ出せる。
グランベルクの手の届かないところへ行ける。
どんなに体が疲れても、そう思うだけで心が軽くなった。
レダは時折、グランベルクに持たされた黄金の剣のことを思い出していたが、美和子は気づかないふりをして、無事にアイジスを抜け出せるよう祈った。
「偉大なるエルゼインさま。どうか、どうか無事に街を出られますように。彼の知らないところへ、行けますように……」
食事を終えて荷馬車に馬をつなぎ、街を出る隊商の中でひとり。
どきどきと心臓を激しく鼓動させながら、美和子だった時は聞いたこともない名の神に、ひたすら祈り続けた。
そしてしばらく後、荷物と一緒に荷馬車の上でがたごとと揺られているうちに、疲れきった体を抱えてうとうととまどろみ、やがて眠りに落ちた。
穏やかな午後。
誰の声もなく、ただ荷馬車の車輪が廻る音が、ほそい体に響いている。
(ああ、やっと……)
どれくらい眠ったのだろう。
ずいぶん長く眠っていたような気がするのに、誰にも起こされなかったことをすこし不思議に思いながら、レダは目を覚ました。
そしてその青い目に、見慣れた孤児院の大部屋を映して、呆然とした。
「どうして……?」
逃げ出したいと思いすぎて、夢を見ていたのだろうか。
慌てていつも締めている腰帯をほどき、こつこつとためてきた銅貨があるかどうか調べた。
銅貨は一枚もなかった。
すこしずつ貯めていた食べ物の袋もなかった。
逃げ出すために用意していたものは、初めからそんなものなどなかったかのように、消えていた。
「あぁ……」
ベッドの上でたえきれず泣きながら、理解する。
わたしは逃げることに、失敗したのだ。
◆×◆×◆×◆
孤児院へ入って二年目。
レダはまた、逃げるためのお金を貯めた。
一度失敗したくらいでは諦められないほど、グランベルクと相対した時の恐怖は根深かった。
幸い、いまだ七歳程度と幼かったが、美和子として十七年生きてきた人格が主に体を動かして応対していたため、「この子はしっかりしているから大丈夫」と、孤児院の外へおつかいに出されることが増えていた。
レダはそのおつかいに、積極的に応じた。
外へのおつかいに行くと、よくおこづかいがもらえたので、前よりもお金が早く貯まった。
そうしてお金を貯めると、レダは二度目の逃走を試みた。
今度は乗合馬車にひっそりと乗り込み、馬車の片隅で眠らないようじっと我慢していた。
うとうとと眠りかけ、はっと気づくと自分の体を血がにじむほどつねる。
それでしばらくは問題なく起きていられる。
そしてまたうとうとと眠りかけると、自分の体をつねる。
(眠っちゃだめ。眠っちゃだめ。ねむっちゃだめ……)
何度も何度も何度も。
自分に言い聞かせ、こちらを見ている人がいないかどうか周りを警戒し、馬車が止まるのをじっと待った。
昼前にアイジスを出た馬車は、夕暮れ時に隣街へ着いた。
乗合馬車から降りたレダは、よろよろと歩きながら、ここが見慣れた街ではないことに信じられない思いでいた。
わたしは本当に、隣街へ来られたのだろうか。
彼の知らないところに、逃れられたのだろうか。
大人達が足早に通り過ぎていく間を、おぼつかない足取りで歩き続け、日が暮れると人気のない裏路地をさまよって、もう誰も住んでいなさそうな廃墟の片隅で丸くなった。
眠ることが怖かった。
けれどもう、眠らないでいることはできなかった。
一日馬車に揺られ続けた体は疲れきっていて、眠ってはだめだと繰り返し続けた心もくたくただった。
(きっともう、だいじょうぶ。
彼はわたしを監視させ続けるのに、飽きたの。
良い服を着たきれいなひとだったから、離れているうちに、もっと違うものへ興味を移したのかな。
だから大丈夫。きっと、だいじょうぶ。
これからどうすべきか、何のあてもないけれど……)
おそろしい人から逃れられたという安堵と、これからどう生きていけばよいのかわからないという、未来に対する途方もない不安の中で、レダは気を失うように眠りへ落ちた。