一話 孤児院の暮らし。銅貨一枚。また一枚。
寒さにかじかむ手に、はぁっと白い息を吹きかけて指をこすり合わせてから、少女は足元に置いた水桶のひもを掴んだ。
ちいさな体では一つ持つのがせいいっぱいで、その一つすら裏庭の井戸から台所まで運ぶのは大変だった。
けれどまだあと三回、これを繰り返さなければならない。
朝食を作るために使うお湯を沸かすのが、レダの一日の始まりに与えられた仕事だった。
◆×◆×◆×◆
(あいつのいうとおりにするのは、いや。
にげよう、みわこ)
北を支配するヴァルスタン王国の、最南端に位置する交易の街アイジス。
レダは王国の国教であるエルゼイン聖教が各地に設立している教会付属の、ちいさな孤児院に入れられた。
美和子は常に緊張を強いられるグランベルクのそばから離れられたことに安堵したが、それだけで満足しないレダは心の奥底に沈んだまま言った。
(いつもどってきて、またあたしたちをころそうとするか、わからない。
あいつのしらないところへ、にげよう)
「お前はそばに置く」と宣言したグランベルクが、そう簡単に逃がしてくれるだろうか。
美和子は監視役か何かがいて、逃げ出した方が危険なことになるのではないかと考え、レダの言葉にすぐには賛成できなかった。
けれど遅かれ早かれグランベルクが戻って来た時、自分達はまた恐ろしい目にあわされるだろう。
そう考えると、逃げることを完全に否定することもできなかった。
(まずは様子を見よう、レダ。
わたしはこの世界に不慣れで、あなたにはお母さんと一緒に流れ歩いていたおぼろげな記憶しかない。
今のままでは逃げ出しても生きていけないかもしれない。
それでは何の意味もないでしょう?)
レダは不満げにうなり、美和子に背を向けた。
体の主導権を奪おうとしないことから、全面的に賛成することはできないものの、美和子の言葉に従うという様子だった。
美和子は物静かな少女として孤児院でひっそり暮らしながら、周囲の様子を見たり、大人達の会話を聞いたりして、すこしずつこの世界のことを学んだ。
現在地である北のヴァルスタン王国をはじめとして、巨大な大陸であるこの地には大小いくつもの国が興っては滅び、戦乱や一時の平穏を繰り返している。
大国でも上層部の政治闘争や内乱などで平穏は長く続かず、人々の暮らしは総じて貧しく、厳しい。
しかも緑深い野山は魔獣や幻獣、神獣の縄張りで、人が踏み込めない土地も多い。
そして幻獣や神獣はめったに姿を現さないが、魔獣はごく普通に街の近隣にも生息している。
このため街は分厚い石壁で囲われているが、時折森へ入った猟師が襲われたり、街の近くの牧草地に連れていった家畜が食われたりする被害が出ていた。
街から街へと可能な限り安全に移動するには、乗合馬車を利用するか、あちこちを渡り歩いて商いをしている隊商に便乗させてもらうしかないようだ。
途中で盗賊に襲われる可能性もあるが、ともかく乗合馬車にはある程度の決まった金額を払えば誰でも乗れるし、隊商はその中で働くことで乗合馬車より多少割安に便乗させてもらえる。
けれどそのどちらにしても、相応の金を支払わなければならない。
加えて国境を渡ったり警備の厳しい主要都市に入るには旅券が要るが、孤児のレダには戸籍がないために旅券を得ることができない。
このため、北のヴァルスタン王国の最南端に位置する現在地アイジスから、南の国へ移動することはできず、関所破りをするのでなければ北の街へ行くしかない。
グランベルクがどの国の人間なのかはわからなかったが、レダはヴァルスタン王国にとどまるしか選択肢がなかった。
関所破りなど、幼い少女のできることではない。
けれど、この街から離れることだけなら、かろうじてできるかもしれない。
幸か不幸か、アイジスの北にあるのは、旅券がなくても入れるちいさな街だ。
ともかくまず第一に、お金が要る。
乗合馬車に乗せてもらうにも、隊商に便乗させてもらうのにもお金が要るから。
いくらかの時間をかけてそれを理解した美和子は、ちいさなレダの体で自分にやれることを探し、ひたすらに働いた。
子どもであっても立って歩けるものは労働力と数えられる世界だったので、やることは山のようにあった。
早朝、井戸から桶で水をくみ、台所へ持って行って湯をわかす。
教会で暮らす大人達が家畜の世話や畑の手入れを終えて戻ってくると、朝食を作るのを手伝い、かたいパンや薄いスープ、ふかしたイモなどの粗末な食事をとって、片づけを手伝う。
その頃になると太陽が昇り、教会の鐘が鳴る。
お祈りの時間だ。
大人も孤児も、教会で暮らす全員が聖堂に集まり、アイジスの教会の長であるクリフトン司祭が聖典を読むのを聞いて、偉大なる至高神エルゼインへ祈りを捧げる。
祈りが終わると全員で聖歌をうたい、解散。
レダは他の子どもたちと一緒に教会の掃除と、家畜小屋の掃除をして、昼食の準備の手伝いに行く。
そうしている間に教会がとても貧しく、孤児たちに毎日の食事をさせるだけでせいいっぱいなのだと気づいた。
どれだけ働いても、教会でお金を稼ぐことはできない。
うすうす気づいてはいたものの、落胆した美和子に、心の奥底からレダがささやいた。
(もってるひとのところから、ないしょでもらおう)
美和子は首を横に振って、答えた。
(それは泥棒というの。やってはいけないことなの)
(なぜいけないの? たくさんもってるひとのところからなら、すこしくらいもらったって、きっとかまわないよ)
子どもに善悪を説くことはむずかしい。
美和子はしばらく考えてから、答えた。
(たくさんあるからいいでしょって言われて、髪の毛を引っこ抜かれたら、痛いでしょう?
自分が嫌なことは、人にもしちゃいけないの)
レダは「ふぅん」と面倒くさそうにつぶやいて、また瞼を閉じた。
美和子の言いたいことを理解した様子はなかった。
他にどうすればいいのかもわからず、美和子はただ働いた。
そしてほんの時折、「これでおやつを買っておいで」ともらえる、ごく少額のおこづかいを貯めた。
銅貨が一枚もらえた。
今日、もう一枚もらえた。
まさかお金がもらえるとは思っていなかったので、一枚もらえるごとに大喜びし、腰帯の中に縫い込んで隠し、常にそれを身につけて持ち歩いた。
そうしている間に時が過ぎ、一年がすぎるとようやく隊商に加えてもらえるくらいの額が貯まった。
知識はまったくといっていいほどなく、孤児院を出た後のあてもない。
どこかで働かせてもらおうにも体が小さく、まともなところで働けるとは思えない。
けれどもう、美和子もレダも我慢できなかった。
いつ来るとも知れないグランベルクの影におびえながら暮らすのに疲れていたし、腹も立っていた。
その勢いに、背を押された。
かたいパンやチーズのかけら、木の実やドライフルーツ数十粒。
すこしずつ貯めた食べ物を詰めた、粗末な布の袋を手に取る。
そして、北の地に短い春が訪れたある日。
どこにグランベルクの監視が潜んでいるか知れないため、一年をともに暮らした人々に何も言えず、字が書けないために置き手紙をすることもできず。
ただ逃げ出すことに罪悪感を抱きながら、レダは孤児院を抜け出した。