十二話 古神話の女神。王の目。奇妙な生活。
翌日の朝の礼拝後。
またレダに残るよう命じて人払いをした王は、“神剣イーリス”の名について話をした。
「至高神エルゼインの娘、月の七姉妹のひとりに、同じ名がある。
思慮深き長女と次女に従い、剣を帯びて無垢な妹たちを守るために戦う、三番目の勇ましき娘。
聖典には記されておらぬが、演劇でよくとりあげられる古神話の一編の主役として、貴族にはよく知られた名だ」
古神話は、至高神エルゼインの創世と世界の黎明期が詩情豊かにつづられたもので、神と人とが織りなすいくつもの物語によって作られている。
登場する神々が感情豊かで人に近いところにいるように語られている為、近代ではエルゼイン聖教の人々に「神の威厳をそこなう」と嫌われ、そのせいで大衆の間からはほとんど消えてしまった。
しかし古神話を題材にした演劇は貴族の間で人気が高く、エルゼイン聖教からうとまれながら、今も演じられているという。
記憶の始まりが裏路地で、育ったのは孤児院という境遇のレダには縁のない世界だ。
エルゼイン聖教とのひそかな対立については興味なく聞き流し、黄金の剣と名を同じくする月女神のことを聞いた。
「いーりすのはなしは、どんなの?」
「短気な女神が罪を犯し、父たる至高神から罰を与えられる話だ」
王は身もふたもなく簡潔に答えたが、気が向いたのか続けてすこし詳しく語った。
「イーリスに恋をした人間の男が、妹女神に手を出そうとする不届き者だと誤解され、怒ったイーリスに殺される。
後にそれが誤解だったと知ったイーリスは後悔するが、時は戻らぬ。
そして娘の過ちを知った父神、エルゼインから“一生恋を知らぬまま生きる”という罰を与えられ、ただひたすらに姉妹を守る守護者としての役目を負うことになった、という話だ」
レダはその話のどこがおもしろくて人気を得ているのか、さっぱりわからず「ふぅん?」と首をかしげた。
王はそんなレダの様子に、かすかに目を細めながらつぶやくように言った。
「物語の中では短気で愚かな娘として描かれているが、イーリスは娘たちやか弱き者の守護神として古くから慕われている。
勇ましく剣をとり、不埒な男どもを斬り伏せる女役者の姿に、あれも目を輝かせて見入っておった……」
そこにはいない誰かを見る目で語る王に、レダは何も言わなかった。
ふいに彼がずっと遠くへ行ってしまったような気がして、何も、言うことができなかったのだ。
王はたぶん、「あれ」と愛おしげに思い出すその人を亡くしているのだろう。
その喪失という傷が緑の目から生気を奪い、レダに底知れない闇をのぞき込んだかのような悪寒を与える。
まるで、生きながら死んでいるかのようだ。
彼が身にまとう乾いた死の匂いをかいだ気がして、レダは肌がぞわりとあわだつのを感じた。
そして長い沈黙の後。
無言のレダを置いてふらりと立ち上がった王は、そのまま聖堂を出ていった。
◆×◆×◆×◆
奇妙な生活は、いつ終わるとも知れず続いた。
朝夕の礼拝後に王と話し、昼間は客室でコーデリアの指導を受ける。
王はレダが理解できているかどうかにかまわず、様々なことを語った。
「今のヴァルスタン王国は、狭い小屋でただひたすらに肥え太らされた家畜だ。
たくわえた肉で皮膚はたるみ、日の光を浴びぬためにいくつもの病をわずらい、鍛錬のたりぬ足では立つのがようよう。
狩りに出るどころか、駆け回って遊ぶことすら難しかろう」
(どういう意味だろう?
物資はあるけど汚職がひどい。騎士団か軍の鍛錬がたらなくて、攻めるどころか自国の防衛もむずかしい…?)
心の奥底で美和子が必死に考えているが、他人のことに興味を持たないレダは右から左へ聞き流す。
「隙あらばその肉を喰らおうと狙っておった東のカルナドは、内乱でそれどころではなくなったようだが。
内乱が起きた時期が、グランベルクが国の様子を学びたいと各地を回った時期と重なっておるのは偶然か、必然か」
毎日王の話を聞いているうち、美和子はとりとめもなく語っているような彼が、実は二種類の話しかしていないことに気がついた。
グランベルクに関わることか、だいぶ前に亡くなったと思しき“あれ”のことだ。
「あれは花が好きでな。薬効のある花に詳しく、庭を造ることを考えるのが好きだった。
ゆえに我は玉座につくと、聖堂の周りをあれが描いた絵図の通りに造らせた。完成までに時がかかりすぎ、結局はあれの目に映らぬまま、無意味に咲き誇るだけの庭園となったが」
王が愛おしげに語るその人は、花が好きで古神話の劇が好き。
絵を描くのはとてもうまいが、歌をうたうのは苦手。
伴奏する教育係にため息をつかれては肩を落としてうなだれるので、王がよくなぐさめていたという。
レダはいつも変わらず「ふぅん」と聞き流した。
けれど美和子は、話を聞いているうちに、だんだんと違和感を覚えるようになった。
王に愛されたその人は、幼いころから王のそばにいて、親しく話をしている。
当時は王子だっただろう彼と、演劇を観ることもあったようだ。
彼女はいったい、誰だったのだろう?
なぜ亡くなったのだろう?
王は不思議とその名だけを口にせず、ただ“あれ”が描いた絵で作られた薬草図鑑を今も手元に置いているのだと、虚ろな目でつぶやくように語った。




