九話 王命。王宮という別世界。いつもそうだよ。
すべてが雪で白く染められる長い冬の間、レダは王都の修道院で暮らした。
グランベルクを含めて誰も彼女の元を訪れることはなく、他の修道女と親しくなることもなく、ただひたすらに聖典の暗記に集中する。
それでも時折、噂話を耳にした。
アイジス襲撃から悪化し続ける、南の隣国との関係。
東の国で起きた内戦と、戦火に追われて難民となった人々のヴァルスタン王国への流入、それにともなう国内の治安悪化。
西の国の不穏な動き。
そしてヴァルスタン王国の王家で起こっている、十八人の王子による王位争い。
第三王子は急病、第五王子は流行り病で逝去し、第八王子は落馬事故で大けがを負って脱落。
王子は現在十五人となり、彼らの後見人たる母方の祖父の貴族たちが暗躍する政争が継続中。
聞こえてくるのは気がめいるような、きなくさい話ばかりだった。
美和子は現実から逃避するように、よりいっそう聖典の暗記に没頭していき、レダは冬眠する獣のごとくその心の奥底で眠った。
そうして長い冬が過ぎ。
聖典がほぼ完全に美和子の記憶へ刻み込まれた、短い春の訪れる頃。
「レダ、ファリー司祭さまがお呼びです」
教育係の修道女、コーデリアのその声で、静かな生活は終わった。
◆×◆×◆×◆
夜の空に七つの月がのぼるこの世界で、数百日に一度だけ、すべての月が満ちる日がある。
ヴァルスタン王国では春の始まりでもあるその日を一年の初日とし、すべての人がその日に一つ歳をとるとされていた。
これは王族も貴族も含めて皆同じで、誕生日を個々に祝う習慣はない。
そしてなぜかレダは、輝かしいその新年の始まりに行われる祝賀行事の最高潮、王宮での晩餐へ招かれた。
晩餐の前に行われる聖典の朗読をせよという、王命を受けたのだ。
王族と高位貴族だけが列席を許される、特別な晩餐への招待。
修道院の長であるファリー司祭は、めったにない名誉なことだと言うが。
(むりです。絶対むりです……)
話を聞いた後、ファリー司祭の部屋から誰もいない大部屋へ戻った美和子は、ふらふらと自分のベッドに座って青ざめた顔で思った。
(そんなところに立たされたら気絶する。それか、緊張しすぎて舌噛んだりとか、何かとんでもない失敗をする……)
心の奥底で、小首をかしげてレダが訊いた。
(いや、っていったら、いかなくていいの?)
国王が絶対の権力を持つこの国で、その命令を拒むことなどできるわけがない。
絶望的な気分で美和子がそう答えると、レダはあっさりと言った。
(じゃあ、あたしがいく)
そうして、冬の間にじゅうぶんな休息をとったレダが、今にも倒れそうだった美和子と交代。
美和子は心底から安堵していそいそと入れ替わり、久しぶりに体の主導権をとったレダがのんびりと足や腕を動かすのに、不思議に思って訊ねた。
(レダは怖くないの? 大勢の人たちの前で、聖典を朗読しなきゃいけないんだよ。緊張して間違えたらどうしようとか、思わない?)
(まちがえたらころされるの?)
問い返すレダは、相変わらずシンプルだ。
美和子は戸惑いながら答えた。
(たぶん、殺されたりはしないと思うけど……)
(なら、まちがえても、わすれても、いいんじゃないの?
まちがえたら、いいなおせばいいし、わすれたなら、わすれましたっていえばいい。
あたしはおぼえてないから、みわこのいったの、まねするだけだけど)
殺されないなら別に怖がることはない、というレダに、美和子は感嘆のため息をついた。
美和子はそれほど度胸良く物事を考えられない。
元の世界でも、テストはいつも緊張していたし、緊張しすぎて失敗することもよくあった。
たとえば解答用紙に名前を書き忘れたとか、計算式はうまく解けたのに、肝心の答えを回答欄に書き忘れるとか。
「なんでこんなところで」と思うような失敗をするのだ。
そして、ささいな間違いだからこそ「次は失敗しないように」という思いが強くなり、余計に間違えることが怖くなって、テストそのものを「怖い」と思うようになっていた。
レダにはそういった気負いがまったくない。
無知ゆえの強さだったが、美和子にはそれがうらやましく、まぶしく思えた。
(みわこがいうとおりにしゃべるから、そのときになったらおしえて)
わたしもこんなふうに、自然体でいられたらいいのに。
思いながら、美和子は「うん」とうなずいた。
新年初日の朝。
レダは式典用に襟やすそへ美しい刺繍のほどこされた黒一色の衣装をまとい、付き添いのファリー司祭、修道女コーデリアとともに迎えの馬車に乗って王宮へ向かった。
呼ばれたのは日が暮れてから行われる晩餐だったが、国王の御前に出るというので、清めの儀式や衣装改めなどとともに、王宮付きの司祭達から検分を受けなければならないからだ。
そして確かに、「清めの儀式だ」と言われて凍えそうに冷たい泉の水につかるのにも、ふるえる体に王宮側で用意された衣装を着るのにも、不機嫌そうな司祭達から質問攻めにあうのにも、けっこうな時間がかかった。
心の奥底に沈んだ美和子は、王宮付きの聖職者達があまりにも冷やかでこちらを見下した態度をとるので、レダがいつ怒るかと心配でしかたがなかった。
けれどレダは、怒ることも不機嫌になることもなかった。
そうしてその時、美和子はようやく本当に理解した。
自分が生きていればそれでいい、自由であればもっといい、とシンプルに言いきるレダにとって、彼らの態度など本当に「どうでもいい」のだ。
王都までの道のりで多くの人が「『剣の聖女』さま」と畏怖の眼差しで見つめてきたことも、今王宮付きの聖職者達が「どこの馬の骨とも知れぬ思いあがった小娘が」と見下した視線を向けてくることも、レダにとっては無意味なのだ。
彼らの視線の意味をいちいち敏感に察して心まどわせる美和子とは対照的に、レダは誰のことも気にしない。
身近に命の危険がないようであれば、レダは周囲の状況にかまわない。
だから彼女は、王宮の聖堂につくなりファリー司祭やコーデリアと引き離されたことも、衣装改め以降、女性の聖職者の姿が見えなくなったことも。
まったく気にしない。
一方、臆病であるがゆえに注意深く、周囲の変化に敏感な美和子は、夕暮れ頃、王族と高位貴族だけが参加できるという晩餐の部屋へ通されるのに、ふと気づいた。
女性がいない。
レダをそこへ連れていく司祭が男性なら、すれ違う人々も鎧をまとった警護のものも、すべてが男性。
それは晩餐も同じで、レダが豪奢な部屋のかたすみで司祭とともに国王が現れるのを待つ間、現れた高位貴族達はすべて男性だった。
女性貴族も、妻を同伴しているものもいない。
美和子はそういえば、と考える。
孤児院にいた頃、聖堂の扉を叩いて「助けてください!」と必死に叫ぶ女性を、何人見たことだろう。
あれはもしかしたら、国に助けを求めることができず、宗教に保護してもらうしか窮地の女性が生きのびる術がなかったからではないだろうか?
美和子は石橋を叩いて渡るたぐいの慎重な性格だったので、自分一人の視線でとらえたことで一国のあり方を判断しようとは思わなかったが、それでもヴァルスタン王国に対する印象は「男尊女卑の国」となった。
しかし美和子が冷静に観察していられたのは、王子たちが来るまでのことだった。
「ふん? 誰かと思えば、いつかの野ねずみか。陛下の仰せとはいえ、よく王宮に上がれたものだな」
聞き覚えのあるその声の主は、第一王子アリステア・ロウファード。
レダはしばらく前に一度見たきりだったが、磨き抜かれた宝石のような美貌に冷たい笑みを浮かべ、弟王子と思しき青年達を取り巻きに連れた姿に、相変わらずだなと思った。
そして王子たちが次々と現れてそれぞれの席へ向かうのに、アリステア王子はなぜかレダの目の前に来ると、声のトーンを落として訊く。
「王宮付きの司祭たちを敵に回した気分はどうだ?」
レダが何を答える間もなく、そばにいた王宮付きの司祭の一人である男が、とがめる口調で「アリステア殿下」と呼んだ。
その声が含む警告に、美貌の王子は軽く肩をすくめ、いたずらっぽく笑って離れていく。
第一王子はレダのことが気に食わないらしい。
いや、レダが“仕える”グランベルクのことが気に入らないから、八つ当たりをしているのか。
どちらにしても迷惑なことだと思いながら、レダは無表情に立っている。
その心の奥底で、美和子はアリステア王子の言葉を理解して青ざめていた。
新年初日の聖典朗読は、王宮付きの司祭の役目だったのだ。
急に現れてその役目を奪ったレダを、当然、彼らは良く思っていない。
慣例行事のひとつである以上、担当者がいるのは当たり前だが、その役目を与えられたことに動揺していた美和子は言われるまで思いいたらなかった。
(レダ。ここは敵が多い……)
おびえた美和子がたまらず声をかけると、レダは気にするふうもなく答える。
(いつもそうだよ)
美和子は返す言葉もなく、薄氷の上に立つような緊張感にふるえながら、周囲の観察へ戻った。




