八話 手を引かれて。修道院。朗読、復唱、暗記。
ばさりとフードを取り、獅子のたてがみのような黒髪に紅の目をした青年は、御者台で立ちあがって答えた。
「我が名はグランベルク・ウォーシャーフ。国王が二十二番目の子である」
自分を見あげる青い目にかすかな殺気が混じったのを感じて、まだまだ未熟だなとうすく笑む。
その笑みが気に障ったのか、レダは深く息をついて殺気を押し込めた。
グランベルクは満足げにそれを見おろして、訊く。
「そなたの名は?」
「あいじすの、れだともうします」
貴族ではないものは通常、姓を持たず、出身地とともに名乗る。
幼い見かけながらしっかりとした受け答えをする少女にうなずくと、グランベルクは馬車の前でつまらなさそうな顔をしたアリステア王子へ言った。
「兄上、今回の賭けは私の勝ちのようです。よろしいですか?」
第一王子は軽く首を横に振った。
「つまらんな。お前の言うことやすることは、いつもつまらん」
不機嫌に言い捨てて、馬車へ戻る。
彼の取り巻きのような青年達も、それに従った。
グランベルクはひとり御者台を降り、どこからともなく現れた二人の騎士と侍従を連れてレダの手を取る。
「大聖堂へ行くところだったのだろう。私もともに行こう」
レダは一瞬にして全身が総毛立つほど嫌だったが、心の中で必死に「落ち着いて!」となだめる美和子に意識を向けることで、かろうじてグランベルクの手を振り払いたい衝動を抑えた。
(うたって、みわこ)
いったい何を言い出すのかと驚く美和子に、レダは声には出さず、真剣に頼んだ。
(うたって)
いつになく必死なレダに、美和子は驚きを飲み込んだ。
おずおずと、誰にも聞こえない声で、レダのためだけに歌う。
(三番目の月がのぼり、あなたは生まれた)
他の何よりも、レダは美和子の歌を聴くと心が落ち着くのを感じた。
(空を見たいとひとみをひらき、鳥とともに歌おうとくちびるをひらく)
レダはその声だけに耳を澄ませながら、グランベルクに手を引かれて大聖堂へと歩いて行く。
(今はおやすみ、いとしい子…)
彼らが離れると、背後で本物の御者が馬に鞭を入れ、馬車を出した。
そうして第一王子がその場から離れ、第十三王子が『剣の聖女』を連れて大聖堂へ入ると、青年と少女の後ろ姿に視線を向けながら人々はようやく立ちあがり、王都の広場はまた常の姿へ戻った。
◆×◆×◆×◆
そのままグランベルクの元へ連れて行かれるのだろう、という美和子の予想は外れた。
何を考えているのかまるでわからない黒髪の王子は、大聖堂で祈りを捧げたレダを大司教の元へ連れてゆくと、“神剣”イーリスを聖教本山の預かりとした。
そしてレダ自身は再び黄金の剣と引き離され、大聖堂のそばにある修道院の女司祭、ファリーの手にゆだねられた。
レダにも美和子にも知りようのなかったことだが、それはエルゼイン聖教の聖職者が神ならぬ一個人に仕えるという前例が無いがために、また“神剣”イーリスの真偽が不明なためにとられた処置だった。
グランベルクが去ると、堂々たる態度で第一王子の試しに応えた黄金の髪の少女は、物静かでどこか頼りなげな顔になって、修道院の規律に従った。
そしてエルゼイン聖教の上層部が「この娘と剣をどうすべきか?」という議論を延々と続けている間、特別に教育を受けさせられた。
早朝、日が昇る前に起きて聖堂で行われる礼拝の席につき、それが終わると修道院の清掃。
太陽が完全にのぼった頃にようやく朝食をとると、長い勉強の時間の始まり。
枯れ枝のようにやせ細った教育係の修道女、コーデリアが聖典を朗読するのを復唱し、暗記していくという勉強だ。
「よろしくお願いします、コーデリアさま」
初日。
丁寧にあいさつをしたレダに、女性にしては低い声でコーデリアはぴしゃりと答えた。
「わたくしは一介の修道女です。名に“さま”などと付けられる必要はありません。ただコーデリアとお呼びください」
とりつく島もない、ごく冷やかな口調で言われたそれが、二人の関係を定めた。
コーデリアは教育係であり、レダはその教えを受ける者。
同じ修道女という立場にあるため、お互いに過剰な敬語はつかわない。
そして、親しい雑談も交わさない。
識字率の低いこの国で、紙や本は貴重品であり、レダのように字を読むことのできないものは多い。
ゆえに修道女の中にも字が読めない者が多く、そうしたものには朗読、復唱、暗記で聖典を覚えさせるのが通例だった。
しかし、たいていは長い時間をかけて少しずつ覚えていくもので、このように専属の教育係をつけて一気に詰め込むような教え方はされない。
レダの場合は、「『剣の聖女』と人々に噂される修道女が聖典の暗唱もできないようでは、エルゼイン聖教の体面に関わる」と問題視した一部の上位聖職者達の指示による、特例だ。
彼女にそんな理由だと教える者は、誰もいなかったが。
覚えやすいようにという配慮か、あるいは他の理由があるのか知れないが、歌うような抑揚で教育係の修道女コーデリアは毎日聖典を朗読して聞かせる。
美和子はできれば文字を習いたかったが、「まずは聖典をすべて覚えてからです」という一言で却下され、自分の名のつづりも知らぬままひたすらにそれを復唱した。
改めて語られる聖典は、気が遠くなるほど長かった。
レダはこのいつ終わるとも知れない勉強に早々と飽き、コーデリアが聖典の朗読を始めると心の奥底でうんざしりた顔になった。
しかし体を任されている美和子は、むしろその時間が一日の中で一番好きだった。
無心に聖典を唱え、ただひたすらに繰り返し続けていると、他のことを考えずにすむので心が落ち着くのだ。
グランベルクがこれからレダをどうするつもりなのかということも。
エルゼイン聖教の上層部がどのような判断を下すのかということも。
特別に教育されるレダを遠巻きにする同年代の修道女たちからの、刺すように冷たい視線のことも。
聖典を唱えている間だけは、何も考えずにいられる。
そうして王子に手を引かれて現れた黄金の髪の少女は、長い勉強の時間を終えるとひとり静かに夕食をとり、指示されるまま修道院や部屋の掃除をして、日暮れとともに大部屋の片すみでまぶたを閉じた。




