二話 狂王子の首狩りと戯れと。ひとつの命令。
「邪魔だ」
ふらりと倒れるその目の前を、声とともに鈍く白銀にきらめく剣が薙いでいった。
「外れたか」
黒いコートをはおったその少年は、目深にかぶったフードの奥で淡々と言う。
ふらふらと後ろへ倒れこんだ少女は、呆然とその人を見あげながら、頭の中に二つの記憶があることに混乱してつぶやいた。
「ここは、どこ」
黒髪黒目の日本人、「美和子」として生きてきて、学校の階段から転落したところで終わる記憶と。
金髪に青い目をした女性から、「レダ」と呼ばれて育てられてきた記憶がある。
どちらの記憶が正しいのかはわからなかったが、生きてきた年数が美和子の方が多いせいか、思考の主軸となるのは美和子の記憶だった。
「わたしは、どうして」
ふらふらと地面に崩れ落ちながら、美和子は自分の手がひどくちいさく、やせ細っているのに気づく。
「どうしてこんなに、ちいさいの……?」
それに、肌が引き裂かれそうに寒く、お腹が空いていて、体が泥のように重いのはなぜなのか。
わけのわからないまま、混乱する頭はショートしたかのようにぷつりと思考を止めた。
少女の細い体が、冷たい裏路地の石畳にくたりと沈む。
剣を片手にそれを見おろしていた少年が、ぽつりと言った。
「まさか、お前は…」
彼は剣を鞘へおさめると、意識を失った少女を拾い、その場から立ち去った。
◆×◆×◆×◆
家族とはぐれて道に迷い、ぐずぐずと泣く幼い美和子を見つけた雪乃は、姉の手を引きながら言った。
「もうだいじょうぶだよ。みーこちゃんは、わたしがおうちへつれてかえってあげるからね」
だからもう、泣かなくていいのだと。
妹が笑顔でそう言うのに、美和子はこっくりと頷いて、またほろりと涙を流した。
食事や洗濯や掃除。
生きていくために必要ではあるけれど、誰にでもできることしかできない姉だった。
それでも双子は姉を慕って守り、美和子は優秀な弟妹を見守って寄り添ってきた。
それだけだった。
それなのに、なぜ。
「目が覚めたか?」
重い瞼をゆっくりと開いた少女は、うつろな目に自分を見おろす少年をぼんやりと映した。
獅子のたてがみを思わせる乱雑にはねた漆黒の髪に、奈落の底のように暗い紅の目をした端正な顔立ちの少年。
どこの誰とも知れないが、何度も見たから顔を覚えた。
暗い裏路地で彼に剣を向けられたあの時から、どれくらい経ったのだろう。
もう何日が過ぎたのかわからず、昼夜の感覚もおぼろげだった。
ただぐずぐずと体調を崩し、高熱にうなされながら美和子の記憶とレダの記憶を繰り返し夢に見て。
何度「家へ帰りたい」と願っても、目覚めるとここにいる。
窓は天井近くにごく小さくひとつあり、扉には常に鍵がかけられている、石造りの狭い部屋。
暖炉で火が焚かれて暖かく、見知らぬ女の人が世話をしてくれているから不自由はない。
そして食事は、初対面で「邪魔だ」と言って自分を殺しかけた、この少年が食べさせてくれる。
「食事を持ってきた」
何が起きているのかわからなかったし、彼のそばにいるのが怖かった。
けれど生きているからにはお腹が空くし、まともに動けないほど衰弱したこの体では、逃げてもすぐに力尽きてしまうだろう。
そしてここでは、彼が持ってくるもの以外で、食べ物が与えられることはない。
まだうまく動かない体にせいいっぱいの力を込めて、少女はベッドの上で体を起こした。
目の前に座った少年の、常にかたわらにある使いこまれた剣を、つとめて見ないよう視線をさまよわせながら、うながされて口を開く。
彼はそのおびえた様子にはまるで無頓着に、持ってきた食事を木製のスプーンですこしずつ少女に与えた。
野菜と肉がとろとろになるまで煮込まれたスープ、それにひたして柔らかくしたパン、蜜漬けの果実。
ゆっくりと口を動かして食べる少女に、様子を見ながら食事をとらせると、少年が訊いた。
「言葉はわかるか?」
レダの記憶のおかげで、日本語ではないこの世界の言葉は理解できた。
こくりと頷くと、「名は?」と問われ、そういえばまだ名乗っていなかったと思い出す。
自分を殺しかけた少年が、なぜこんなふうに手厚く世話をしてくれるのか。
理由など見当もつかなかったが、礼儀正しい娘であれとしつけられた美和子は、今の体の名を諦めとともに名乗った。
「レダ」
転生、あるいは生まれ変わりと呼ばれる現象が起きたのだろうと、最近になってようやく理解していた。
今の美和子は金の髪に青い目をした少女、レダ。
ここはレダの生まれ育った世界であり、美和子がいた世界とは異なるところのようだった。
レダはまだ四、五歳くらいの少女で、この世界についての知識があまりなかったため、何がどう違っているのか、詳しくはわからなかったが。
とりあえず月が七つあるというのが、美和子がここを「異世界だ」と判断した理由だ。
他にレダの記憶にあるのは、娘によく似た母に連れられて、あちこちをさまよい歩いていたことだけだった。
その母の名も知らない。
彼女はいつも「おい」とか「おまえ」とか、「そこの女」としか呼ばれない、流れ者の女性だった。
それでもレダには優しい母だった。
食べ物が手に入るとまずレダに与え、夜はいつも、穏やかな声で子守唄を歌ってくれた。
「レダか。花の名をとったのだな」
少年が言うのに、母の声が耳元によみがえった。
――― レダ。わたしのかわいいお花さん。
それが口癖だった。
もうこの世界のどこにもいない、母の口癖。
レダの最後の記憶は、空腹を我慢できなくなり、冷たくなって動かなくなった母の腕から這い出て、裏路地をさまよっていたこと。
そこへ唐突にあらわれた少年に、「邪魔だ」と言われて剣を向けられたこと。
目の前の人がいつまた腰の剣を抜くのか。
いつまたあの寒い裏路地に捨てられるのか。
わたしはどうして、ここにいるのか。
何もわからず、考えれば考えるほど不安をつのらせていく少女に、少年が言った。
「俺の名はグランベルク・ウォーシャーフ。お前と同じ、二度目の世界を生きるものだ」
思いがけない言葉に、レダは青い目をしばたいた。
◆×◆×◆×◆
地下から空のトレイを持って戻ってきた少年を、乳兄弟である侍従のマクシムはむっつりとした顔で迎えた。
「殿下。いつまであの子どもをここに置かれるおつもりですか」
「ようやく俺に慣れてきたところだ。もうしばらくはここに置く。不満か、マクシム」
空のトレイを受け取り、青年は言葉だけ侍従らしく応じた。
「殿下のなさることに、不満などございません」
「ならばあの剣と指輪を持ってこい」
返された命令に、思わず眉をひそめる。
「あれを……? いったい何に使われるおつもりですか」
生まれた時からそばについて世話をしてきた少年は、常と変らぬ無表情で答えた。
「お前が知る必要はない」
影で“狂王子”とあだ名される少年の悪趣味な奇行、黒いコートで姿を隠し、夜な夜な城下へ降りて人々の首を狩るという悪癖が止まったのは、彼が地下室に閉じ込めている子どもを拾った日だった。
マクシムは王子が殺した人々に対しては、何の感情もなかった。
王国は王家の所有物であり、そこに生きる者は王族の手の内にある。
ゆえに王族が所有物たる彼らに何をしようと、それは自由なのだ。
ただ、周囲に広く知られるべきことではないと理解していたので、自分の仕える狂王子の奇行を隠して回る役目をこなしていた。
それゆえに、隠さねばならない奇行が止まったことは良かったと思った。
面倒な仕事が減って、多少楽になる。
けれどどこの馬の骨とも知れない子どもを、王子の母方の祖父が所有する邸に、いつまでも置き続けるのは不愉快だった。
飽きるまでのオモチャだとはいえ、自分が仕える王子がその子の食事の世話をすることが不愉快だった。
殿下はいつまでこんな無意味な戯れを続けられるおつもりか。
辟易してきたところでの下命だった。
狂王子が偶然手に入れた、失われた技術によって造りだされた稀なる剣と、その対の指輪。
古代の秘宝たるそれを、いったい何に使うつもりなのか。
王子は今明かすつもりはないようだが、時が過ぎれば一番の側近であるマクシムにはわかるだろう。
うやうやしく頭を垂れて応じた。
「はい、殿下」