十話 大地の腕。司祭と侯爵。生きている奇跡。
アイジスの戦いは日暮れ前に終わった。
教会の前から動かないレダを落とせないでいるうちに、ヴァルスタン王国の軍が大挙して現れ、瞬く間に街の中の兵士たちを一掃してしまったのだ。
生き残った人々は呆然とした。
それだけの力があったのなら、なぜもっと早く来てくれなかったのかと、兵士達に叫ぶものもいた。
味方の兵士のはずが、その声に答えるものなどおらず、どこからか伝えられる言葉は「伝令が遅れた」「隣国の動きが急だった」との言い訳じみたものばかり。
それは絶望に泣き崩れる人々をなだめるものではとうていなく、彼らの眼差しはただひとり、自分達を守って戦い続けてくれた少女のもとへ向かった。
レダは戦いが終わると、教会の前で黄金の剣を抱いて倒れた。
剣の放つ光によって、そのもとには誰もたどり着けず、疲れきって深い眠りについた彼女には、誰の声も届かず。
ぴくりとも動かない少女に、人々は彼女が死んでしまったのではないかと案じた。
至高神エルゼインに選ばれ、黄金の剣を与えられて人々を守るために戦った少女は、その戦いを終えて天に召されてしまったのではないかと。
けれど、ただひとり。
「れだ、ねむってる」
そう信じて疑わないメメリーは、剣の光にはじかれないぎりぎりのところにちょこんと座って、瞼を閉じたレダの顔をじっと見ていた。
無垢な子どもの真っ直ぐな言葉は、何の根拠もなかったが、不思議と人々の心にやすらぎを与えた。
◆×◆×◆×◆
打ち壊された聖堂の扉を片づけ、その前に積み上げたイスや棚を戻しているクリフトン司祭のもとへ、ヴァルスタン軍を率いてきた将軍が側近とともに現れたのは日暮れ間近の頃だった。
「クリフトン司祭、お久しぶりです」
「おや、ウェルズ侯爵どのではありませんか。お久しぶりです。もしやあなたが……?」
問われてうなずいたのは、クリフトン司祭よりすこしだけ若い壮年の男性。
一筋の乱れもなくきっちりと黒の軍服をまとったウェルズ侯爵は、司祭に招かれて聖堂へ入った。
常に美しく保たれているはずの聖堂にあったすべてのガラスが割れ、イスや棚が慌ただしく動かされているのを見て、侯爵にはこの教会に敵兵が攻め込んできた時の、追いつめられた人々の混乱ぶりをなまなましく感じ取った。
それゆえに表情はけわしく、声は常よりもさらに低いものとなった。
「駆けつけるのが遅くなり、司祭のいらっしゃる街にたいへんな被害をもたらしてしまったこと、心より遺憾に思っております」
クリフトン司祭は深く息をついた。
貴族は普通、そんなことは言わない。
ヴァルスタン王国ではエルゼイン聖教が罪人の裁きを司るため、政治と宗教に密接なつながりがあり、貴族は政教分離を行っている他国より聖職者に対してとても慎重に接する。
クリフトン司祭とウェルズ侯爵のように、下位の聖職者と高位の貴族が親しい間柄になるのは稀なことだ。
貴族達は自身もエルゼイン聖教の教徒であるため、また聖職者が罪の裁きを司るために彼らをあなどりはしないが、さりとてかしずきもしない。
最高位の教皇ともなれば国王さえひざまずくが、下位の聖職者にそれほどの力はない。
ゆえに侯爵がそう言うのは彼個人の謙虚で真面目な性格と、クリフトン司祭との長年の付き合いのためのもので、司祭に何らかの力があるからではなかった。
「国の命に従うのがあなたのお役目です。これはあなた個人に責のあることではありません」
司祭はそう言うにとどめ、沈黙した彼らの視線は自然と、表で倒れ伏したままのレダへ流れた。
黄金の剣を抱いて眠るあの少女を、またただの孤児院の子どもに戻すことは不可能なのだと、二人とも理解していた。
彼女はあまりにも強すぎる力を示し、今も不思議な現象を起こし続けている。
黄金の剣を抱いて剥き出しの大地に横たわるその身の下に、ゆっくりと草花が芽吹き、みずみずしい緑が自然ではありえない速度で急成長しているのだ。
世界がレダを守るべく、大地の腕を伸ばしているかのように。
それは黄金の剣が主たるレダの身を癒そうと放出している力の余波が、地中で眠っていた草花の種の成長を促進させた為に起きたことだった。
しかしそんなことなど知らぬ人々には、神の起こす奇跡のように見えた。
レダはきっと、世界に愛された娘なのだと思えた。
そんな彼女をこのまま放置することなど、できるはずがない。
けれど、司祭は無為にレダを軍に引き渡すには、情が深すぎた。
返り血にぬれて微笑んだ少女に怖れを感じたのは確かだったが、同時に、自分達の力では守りきれず殺されるはずだった人々の命を救ってくれた彼女に、深く感謝していた。
レダがいなければ、聖堂にいたすべてのものが殺されていたかもしれないのだ。
「ウェルズ侯爵どの。どうか、数日の猶予をいただきたく…」
頭を垂れるクリフトン司祭に、けわしい表情のまま侯爵は沈黙した。
放置するわけにはいかないが、さりとて長年の付き合いのあるこの聖職者の願いを無下に断ることもできない。
自分は間に合わなかったのだ、という忸怩たる思いもある。
彼はしばらく考えて、答えた。
「私の側近を二人、彼女の護衛として置いていきます。しかるべき時に、彼女を私の元へ連れて来るように」
クリフトン司祭には“監視役を置く”ということだとすぐわかったが、同時に“猶予を与える”ということだともわかった。
どこからともなく降臨した黄金の剣を手に、数多の敵兵を屠った少女が何者なのかわからない中、そんな判断ができるものはすくないだろう。
天の配剤とも思える、彼が将であるということに心から感謝して、クリフトン司祭は顔をあげることができなかった。
己の力のみで成せることなど、この世にはほんのひとかけらも存在しない。
ただ幸運な巡り合いにすがるばかりだと思い、頭を垂れたまま言った。
「心より感謝いたします…、ウェルズ侯爵どの」
◆×◆×◆×◆
一晩、レダは外に倒れたまま眠り続けた。
その周りで、忙しく敵兵や隣人達の骸を火葬場に運んだ人々が、毛布にくるまって眠った。
初夏とはいえ北の大地の夜は冷えこんだが、打ち壊された家の木材を燃やして暖をとる人々には、レダのそばを離れて建物の中へ入る気などかけらもなかった。
彼らは七つの月の下、草花の懐に抱かれて眠るレダのそばで、襲撃の一日の終わりを静かに迎えた。
時折、悪夢にうなされて恐怖の中で目を覚ました人がいても、剣が放つあわい光に包まれて眠るレダの顔を見ると、ほぅと深い安堵の息をつき、また眠りへと戻った。
翌日の早朝。
戦い続けて疲れきったレダの代わりに、久しぶりに美和子が目を覚ますと。
腕には黄金の剣が静かに輝き、己が身の下にはいつの間にかみずみずしい緑の草が生えて可憐な花が咲き、その周りには毛布に包まって疲れきった様子で眠る人々がいた。
「れだ」
彼女が起きた事に気づき、真っ先に声をあげたのはメメリーだった。
美和子は黄金の剣を緑の褥に置いたまま、満面の笑みで自分に向かって両手をのばす妹のもとへ、ふらふらと歩いていった。
「れだ」
その名を、幼い声が繰り返し呼んだ。
そこにいることを確かめるように。
そこにあってくれることを祈るように。
血に汚れた手を伸ばして、メメリーを抱きしめた。
そうして、ちいさなこの体が生きて鼓動していることが、どれほど貴重な奇跡なのだろうと声もなく泣きながら思った。




