一話 ほんの数秒。けれどそれですべてが変わった。
「みーこちゃんはとっても優しい、良いお姉ちゃんね。お母さん、みーこちゃんがいてくれるおかげで、安心して働きに行けるわ」
勉強も運動もお手伝いも。
何をしても双子の弟妹にかなわない美和子にとって、母がくれたその言葉はかけがえのない誇りとなった。
◆×◆×◆×◆
二時限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、先生が廊下へ出ていくと教室内は騒がしくなった。
昨日のドラマ、最近人気のマンガやゲーム、コンサートツアー中の歌手のゴシップなど、さまざまな話題がとびかう教室で、美和子はひとり静かに前の授業の教科書を片づけ、ルーズリーフをバインダーにとじる。
次の授業は移動教室だ。
にぎやかにお喋りをしながら用意をするクラスメイト達より早く準備を終えた美和子は、教科書とバインダーと筆箱を持って廊下へ出た。
(冬の校舎って、どうしてこんなに寒いんだろう。
廊下でのコート着用を許可してもらいたいくらい、さむい…)
考えてもしかたのないことを考えながら、足早に廊下を歩いていく途中。
突然、ざあっと血の気が引くような冷たい視線に射抜かれるのを感じて、美和子は思わず足を止めた。
まただ。
一週間前から数えて、三度目。
誰かが私を睨んでる。
制服のなかで身をすくめ、どうすればいいのかわからず、ただ混乱しておびえながら前へ進む。
振り向いて視線の主を確認することなど、とてもではないが美和子にはできなかった。
優秀で目立つ双子の弟妹と違い、いるかいないかさえわからないほど空気な姉の美和子は誰からも気にとめられず、口ゲンカをしたことすらないのだ。
こんなふうに強い視線で睨んでくる人を、真っ向から見据える度胸などひとかけらもないし、相手に心当たりもない。
そうして、おそろしい視線を向けてくる人が早くいなくなってくれることを願いながら歩いていた美和子は、いきなり後ろから肩をぽんと叩かれて、「ひぁっ」とちいさく悲鳴をあげた。
「俺だよ、みーこ。何でそんな驚いてんだ?」
一つ年下の双子の片割れ、弟の隼人だ。
声をかけても気づかないようだったから、そばにきて肩をたたいたのだというのを聞いて、美和子は思わずへたりこみそうになりながら安堵した。
「なんでもないの」と答えながら、おそるおそる振り向く。
先まであれほど振り向くのが怖かった廊下には、何も変わらない日常の風景しかなかった。
美和子のクラスメイトが数人と、見知らぬ生徒が数人と、落ち着かない姉の様子を察して心配そうな隼人がいるだけ。
「ちょっと落ち着け。何かあったのか?」
恐ろしい視線で美和子を睨む人など、どこにもいない。
こわばっていた体からすこし力が抜け、美和子はようやくいつもどおりの穏やかな笑顔で弟に答えた。
「だいじょうぶ、ちょっとびっくりしただけ。それより、隼人はどうしたの?」
三度向けられたおそろしい視線のことについて、相談しようかどうしようか迷ったが、相手を確認していないから、ただの気のせいという可能性もある。
全部ただの気のせいで、被害妄想と自意識が過剰なだけだった、という結末ではあまりにも恥ずかしいし、授業と授業の間の休憩は十分と短い。
声をかけてきたということは、何か用事があるのだろうから、姉としては弟の話を優先して聞いておかなければ。
そう考えてはっきりと答えを返さなかった美和子に、隼人はむっとした表情をしたが、今は時間が限られていることと、放課後の予定を思い出して追求するのをやめた。
「今日の買い物。俺が一緒に行くから、放課後は図書室で待ってろよ。用事済ませてからになるから、ちょっと遅くなるかもしれねぇけど。まあ、本でも見ててくれ」
「うん。ありがとう、隼人」
「気にすんなよ。みーこの分だけの買い物じゃねぇんだし」
万事控えめで物静かな姉を、いつからか「姉ちゃん」ではなく「みーこ」としか呼んでくれなくなった弟は、同年代の男の子達より不思議なほど素直に家族を気遣う。
共働きの両親を助けて家事をする美和子の、食料品の買い出しに同行して荷物持ちをするのも、双子の妹の雪乃と交代でいつもやってくれていた。
「ユキは今日、部活で遅くなるってさ」
「そうなの。最近は暗くなるの早いから、気をつけて帰ってくるよう言っておいてね」
「べつに平気だろ。あいつを襲う奴がいたら、むしろ同情する」
「そんなこと言わないの」
「みーこは心配しすぎなんだよ。いつも近所まで同じ部のやつと一緒に帰ってくるし、何も起こりゃしねぇって」
「それはそうかもしれないけど、ゆきちゃんはかわいいんだから、心配してもいいでしょう」
「姉バカ……」
「お姉ちゃんにむかって、バカなんて言わないの」
弟の軽口をたしなめながら、美和子はのんびりと微笑む。
おそろしい視線におびえた後だけに、弟との何気ない会話は心をなごませてくれた。
(誰かに睨まれるなんて、きっと気のせい。
怖がらなくてもだいじょうぶ。
何も起きはしないから)
心の中で自分にそう言い聞かせている美和子に、何があったのか放課後聞き出そうと決めた隼人は軽く手をあげた。
「じゃあ俺、教室戻る。また放課後な」
うん、と頷いて手を振りかえし、歩きだしてしばらく後。
階段を降りようと足を浮かせたところで、美和子はとんと背中を押された。
何の前触れもなかった。
ただ、あ、と思った瞬間にはもう。
バランスを崩した体が前のめりに倒れていて。
内臓を引き絞るような浮遊感の後、あちこちをぶつけながら階段を転がり落ち、途中どこかでガンッと頭を強打する。
ほんの数秒のことだった。
息ができなくなるほどの激痛の中、走馬灯がはしるのを見る間もなく、美和子の意識は闇に落ちた。