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鼬の導きと猫の手招き

妖怪モノのオリジナル小説です。

暴力+残虐な描写を含んでおりますので、そういったモノが苦手な方は閲覧をおすすめしません。

・鼬の導きと猫の手招き



妖怪。

妖しく怪しいと書くモノ。

既存のどのような動物とも植物とも、人間とも異なる、異形の存在。


「お兄ちゃ~ん、起きるの~」


枝を駆け空を渡る、長鼻の人攫い。

怪力をもって鉄の棒を自在に振り回す、有角の人食い。

音もなく人の体に鎌の両手で傷を付ける、風の人型。

どれもこれも、人間の常識では語れず、故に相容れない化け物達だ。


「お兄ちゃん~?」


しかし、そんな未知で恐怖に溢れた存在でアルにもかかわらず、妖怪を恐れる人間は居ない。

そもそも人間は、妖怪を信じてなどいないからだ。

科学の発達や、文明社会の自然への浸食。物理的、または概念的な人間達の探求によって、常識を越えた存在というものは架空の世界へと押しやられていった。

妖怪の実在を訴えかける過去の書物や口伝も、現代の常識の前にはおとぎ話のカケラでしかない。

妖怪は実在しない。それが現代世界の常識なのだ。


「お兄~ぃちゃん!」


……そう、人間は、常識の中に生きる生物。

自らの常識の中でしか、世界を割り切れない存在。

だから、たとえそんな常識の外側に何か恐ろしいモノが潜んでいたとしても、人間は気付くはずが無い……。


「お兄ちゃんってば~! ずぶりゃっ!」

「ぐわあぁああっ!」


何か鋭利な冷たい物体が、何か柔らかく温かい物体の膜を突き破る音がして、僕は目を覚ました。


「お早うなのお兄ちゃん! あやかしの里滞在五日目のご来訪なの~! あ、でもお兄ちゃんは最初の三日間気絶してた訳だから実質的には二日目? うーん、舞切とお兄ちゃんのどちらかが語り部になるかで印象変化って感じなの」

「…………」

「お兄ちゃん、朝の挨拶くらいはしなきゃ駄目なの。幸せが逃げるの」

「……オハヨウゴゼエマス」

僕こと鳥山逢磨。

存在座標、布団の上に仰向け。

頭の乗った枕の左右に、鎌が突き刺さっていた。

ひんやりとした感触と、枕に直撃した際の衝撃の残滓が頬をじんわりと侵す。

「うん、改めてお早う、お兄ちゃん!」

凶器をくだした張本人はテンション高くそう言って、晴れ晴れとした笑顔を向けてくるのだった。

……お兄ちゃんお兄ちゃんうるさい。


「むむ? お兄ちゃん、汗かいてるみたいなの。嗅覚が刺激的なの。……私服のまま寝ちゃってたの?」

「……色々あったからな。昨日は」

目の前にいる見知らぬツインテールの幼女といい見知らぬ和室といい……どうやら悪夢はまだ続いているようだった。

「そういえばお兄ちゃん、お風呂にも入ってなかったの。体の方は一応、お兄ちゃんが気絶してた間、舞塗が手拭いで四肢とか顔とか毎晩拭いてあげてたみたいだったけど……」

「とりあえず、話を進めたければどいてくれないか? 僕の上から」

「あ、ごめんなさい……なの」

少女は枕に刺さっていた鎌……すなわち自分の両腕を引き抜くと、長い着物の袖に引っ込めた。直後その袖から、年相応の小さな手が指先だけちらりと出てくる。

……あんな巨大な刃の鎌を隠す隙間など、どう考えても着物には見当たらない。両手が鎌に変化したとでも思わない限りは。

それはこの幼き女が、異形である証拠なのだ。

布団から起き上がる。……なるほど、確かに彼女の言う通り、シャツの内側はかなり発汗が浸透していて、程度の高い不快感を演出している所だった。

「うわ、背中がびっしょりなの! お兄ちゃん、今日はかなり冷える朝だから着替えた方がいいの」

「ん……」

それもまた、こいつの言う通りらしい。

……ふいに、寒気が走った。それは背中を覆う汗が熱を放出した結果とは違う物だった。

多分、昨日舞塗と名乗った少女の悲痛な表情を見た時と、同じ種類の……。


「とりあえずお兄ちゃん、服脱ぐの~!」

「え……なっ!?」

嫌な予感……を感じた時には終わっていた。幼女の袖に指が引っ込んで再び鎌の刃が出てきたと見た時点でもう遅い。

僕の服は……特に細かい描写をする必要の無い地味なシャツとジーンズは……粉々に切り裂かれて布切れになっていた。……トランクスが守られただけでも暁光と言うべきな、それは恐るべき早技だった。

顔から火が出る。


「な、な、な」

「脱衣完了なの!」

「ふざけるな! 脱がすとかひんむくとかそんな甘いレベルじゃ断じてねえ! もっと恐ろしい妖怪の片鱗を味わったぞ!」


「わわっ! お兄ちゃんが半裸だよっ!」

突如部屋の入り口たる障子が開き、入室してきたポニーテールの幼女が短い悲鳴で口元を抑える。

「お、お兄ちゃん、舞切と……舞切とっ!? う、ううんいいの、お兄ちゃんがそう望むなら、お好きにくっついてくれればいいよ!」

「はあぁっ!?」

「ツブテさまのこととか人間界の幼女守護法とか関係ない! お兄ちゃんは自らの愛を貫いて注ぎ込めばいい!」

「黙れえぇ! 僕は何もしていない!」

「そんな格好までしてるのに!? ええい、こうなったらこの舞檻も、お兄ちゃんを心身共に素直な殿方にするために尽力させてもらうよ! うりゃあぁ!」

「や、やめろ! 腰にしがみつくな! おいツインテール! 僕の無実を証明しろ!」

「面白そうなの! 舞切も参加するの~!」

「くぉらあぁあああ!」


鎌の両腕を持つ妖女二人に、いかに男といえども人間がかなうはずがない。

正面にポニーテール、背後にツインテール、二匹の手が最後の布を掴む。

畜生、妖怪め……駄目だ、下着を脱がされる……!


「せ~のっ!」

「……逢磨くん?」


第三の入室者が来訪するのと、幼女が僕のトランクスを下ろしたのは、同時だった。入室者の視界に、身体の前面を許す僕。

……救いだったのは、僕の前に立つポニーテールの背丈、頭の位置が僕の股までであったこと。そしてポニーテールが音に反応してすぐに入室者の方へ向いてしまったこと。

見えていない。誰にも僕の大事な部分は見えていない。

急いで下着を履き直す。計ったかのように、二匹は同時に僕から離れた。


「ツ、ツブテさま……」

使用人の声は心なしか震えている。目の前の主が鋭い眼光で彼女らを射抜いているからだろう。

「大きな声と物音がしたから来てみたのですが……貴女達、何をしているのですか?」

天狗の少女……ツブテ。

昨日、嬉々として僕を誘拐し友好的な態度をとっていた時の表情は、そこにはない。一切の冗談を拒絶する、首を締め上げてくるような、重苦しい空気。

……僕が今下着一枚のみっともない姿でいることなど、この状況では微塵も笑いの要素にはならないようだった。

「舞切、貴女は逢磨くんの様子を見に行ってくる役割だったはずです。舞檻も、舞塗を離れに連れて行くはずなのに、何故ここに?」

「ま、舞檻はツブテさまと同じ理由だよ。舞塗の部屋に行こうと思ってたんだけど、うん、何か大声が聞こえたから気になって……!」

ポニーテールの方……舞檻というらしい……がそう言って、ツインテールの方、舞切に視線を移した。同時にツブテも容赦ない睨みを同じ方向に向ける。

……何だこの空気は。何故ツブテはこんなにも態度を硬化させているんだ?

「舞、切……?」

「えっと……えっと……舞切は何も粗相は……してないの。ちょっとお兄ちゃんの服を脱がそうと思って……」

「何故そんなことを?」

「あ、汗をかいてたからなの」

「では……逢磨くんは何故大声を出していたのです? ああ服も散らばっていますね。嫌がる彼に無理矢理脱衣を促したのですね?」

「ヒッ……! あ、う」

舞切は完全に萎縮していた。舞檻もかすかに肩を震わせて俯いている。

……大筋の話はツブテの推測通りだ。

しかしそれが、ここまで憤怒に精神を焦がして当事者を尋問するに値する事態なのか?

「貴女達は……逢磨くんに不快な思いをさせるなと、あれほど……」

「ツブ、テさま」

「………っ、……」

確かに僕は、妖怪である彼女らにまだ一抹の不安や恐怖を抱いている。いや、正直言えば存在を受け入れてすらいない……『昨日の一件』もある。

……だけど、僕は。

このままでは主にひどい目に遭わされるかも知れないこの使用人たちを見て、僕は……、

「………ぐ」

三度目の、大きな痛みが胸に走る。

くそ……何なんだこの感覚は。

何故僕は……妖怪なんかに、人間でない生き物に、痛みなんかを、


『……違うよ。鳥山くん。この子だって仲間なんだよ。


……痛みが分かる心があるのなら、人間だとか人間じゃないとか……そんなこと

は関係ないんだ』


「……………っ! ツ、ツブテ」

「え……? 逢磨くん?」

舞檻と舞切を射抜いていた鋭い目は、僕の声を聞いた途端に刃物の光を失ってしまう。

瞼が緩み、今度はツブテが緊張した面持ちで僕を見た。

「こいつらは……僕に何ら危害を加えてはいない。僕の反応が若干大げさになっただけだ。下らない誤解でこいつらを責めるな」

自分でも何を言っているのか分からなかった。何故かこの時、僕はすらすらと淀みなく言葉を吐き出したのだ。小さな妖怪を庇う言葉を。

「ん……と………」

ツブテは瞳をさまよわせる。やがて小さく、緊張を解くように呼吸をして僕に向き直った。

「逢磨くんがそう言うなら……、ごめんなさい。私も少しきつく言い過ぎたかも知れません。本当に……ごめんなさい」

思いの他素直に頭を下げた。

「……謝る対象は僕じゃないだろう」

「う……」

若干逡巡したように見えたが、下唇を噛みつつ使用人にもこうべを向ける。

「ごめんなさい、舞檻、舞切」

「い、いいよツブテさま。舞檻は気にしてないし」

「頭を上げてほしいの」

あたふたとまくし立てる幼女らに駆け寄られ、ツブテは再び顔を戻す。

「あ、そうだ、舞檻、まだ舞塗の所へ行ってなかったんだった。多分もう起きてるよね、ツブテさま、行ってきます!」

「舞切は……えっと、」

「逢磨くんに代わりの着物を持ってきて下さい」

「分かったの!」

二人の鎌少女、舞檻と舞切は、ぱたぱたと部屋から退出して行った。風と共に去る移動手段は時と場合によるらしい。


「……やれやれ、騒がしい使用人です」

辟易のため息をつく天狗。次にどのような言葉をかけるべきか考えていると、ツブテは僕のすぐ前まで歩いてきた。

「逢磨くん、本当に……大丈夫ですか? 気分は」

「……」

返答に困る。

正直、彼女とはあまり会話を交わしたい気分ではなかった。

黙っていては、文字通り話が進まないことは分かっていても。

しかし昨日とはまるで違う、この塩らしい態度は何なのだろう。……そこまで、僕のあの言葉は……。

……分からない。姿形はだいたい少女と変わらないというのに、人種ではなく種族の根本が違うというだけで、どう接したらいいのかが。

いや……分からないというのなら。

僕はそもそも、他人との関わりなど面倒なだけという人間だったか。

せめてこいつらが、完全に人とはかけ離れた姿をしていたら、僕はもっと躊躇わずに暴れて逃げ出せたのかも知れない。

胸の痛みの正体。

それは人間としてのつまらない同情と……相手は妖怪だという冷徹な精神とのせめぎ合いだったのだ……。



舞切の持ってきた和服に着替え(ご丁寧にツブテが着せてくれた。逆らうのは面倒なのでされるがままに徹した)、階下に降りる。

食堂は広々とした造りになっており、中央に置かれた漆塗りと思われる長いテーブルと、二十ほどの椅子によって食卓が構成されていた。

……というか、椅子とテーブルなのか。


「お兄ちゃん、似合ってるの~」

舞切はすでに席につき、膳に乗った皿の料理を威勢よく口に運んでいる所だった。……主人よりも先に、しかも同じ部屋で飯を食らっている点に不自然さを感じなくもなかったが、とりあえず沈黙し、膳の置いてある場所の席につく。

前方にも手付かずの食事が乗っていた。天狗は僕と向かい合っての食事をご所望らしい。

「え、えっと……」

ツブテは再び緊張した面持ちで、料理の内容を読み上げていった。

白米に魚に浅漬けに味噌汁。どのようにして材料の生産や調達を行っているのかはさておき、少なくともここに種族不明の動物肉は置かれていない。

「今日はツブテさまが朝食を作ったの。舞切と舞檻もちょ~っとだけ手伝ったの」

「どうぞ……召し上がって下さい」

「…………」


--ツブテさまもあねさま達も、悪気は一切ないのです。逢磨お兄ちゃんが人間の肉の料理に嫌悪感を示すことを知らなかっただけなのです。


--ツブテさまがお兄ちゃんを攫ったのは全くの私情によるものなのです。この里における人間に対する扱い云々とは、関係ないのですよ。


舞塗が僕に言った言葉が蘇る。

あいつの言い分が真実であれば、このあやかしの里なる不可思議な領域(集落なのか小国なのかすら今の僕は知らない)において、人間は単なる食料に過ぎないということになる。

そしてツブテの目的は違う。こいつは僕に好意を持っていて、側に置きたいが為に森をさまよっていた僕をこの里に連れ込んだ……ということ。

何故ツブテは、僕に好意を持ったのだろう。

恋心に理由なんかいらないというお決まりの言葉を僕は求めない。……恋愛なんて厄介なだけなのだ。

砕ければ心に突き刺さり、いつまでも疼き続ける。


「お、逢磨くん、食欲、無いんですか……?」

いつの間にか椅子に座っていたツブテがしどろもどろに切り出してきた。

「……」

警戒心は、まだ解けない。

だが、少なくともツブテや三匹の鎌少女らに故意の悪意が無いことぐらいは……認識してもいいのかも知れない。

「………いや、食べさせてもらう」

ほとんど適当と言っていい返事を返し、梯を手にとって料理を口にした。

…………………………………。

「ど、どうです? お味は」

「……悪く、ないな」

真摯な瞳を向けてくるツブテ。……ああ、こいつが作った料理だったか。

「正直、意外な気分だ。妖怪は料理の出来る種族なのか」

「む、逢磨くん、それは偏見ですよ?」

ツブテは頬を膨らませた。僕の返答で、初めて緊張が解けたということか。

「あはは、逢磨くんを唸らせる為にツブテさま、結構練習してたの~」

「確かに、料理が出来ない、あるいは料理をしない妖怪の方が浮き世には多いですけどね。ご飯や魚を食べるにしても生でしたり、炎や霞を食べて生きる者もいますから」

「垢を舐める妖怪だっているの。そういうのは舞切もちょっと……う~んって思ったりするけど」

「…………、この里にはどれくらい、人間を食べる妖怪が居るんだ?」

訊きたくもなかったが、訊かずにはいられない質問を……口にする。

二人が失言に気を使っているのは、充分に理解出来た。


ツブテと舞切は、予想通り沈黙する。先に言葉を紡ぎ出したのは、舞切だった。


「……舞切もあんまり把握出来てないけど、半数以上……だと思うの」

「そいつらは、生きた人間を襲うのか……?」

「あやかしの里において、妖怪が通常の状態の人間を襲う機会はありません。この里で生まれた妖怪達なら、人間を……その、加工された形でしか見たことが無いでしょう」

「少なくともこの里の妖怪達は、お腹が空いたら手当たり次第とはいかないの。

人間さんの数には限りがあるから。人間さんの調達は、それ専門の係が行う決まりになっているの」

加工だの調達だの、背筋を苛む言葉が続く。

結んだ口の裏で食いしばる歯の力は、恐怖と怒りのどちらによって生じたものなのか。

しかしどちらにしろ、ここで感情を解放することは災いでしかないと思う自分も居る。

今は黙して聴くべきか。妖怪を脳に刻むために。

「……私もまた、あやかしの里における食料調達係の一人です。といっても、里の周辺で倒れている人間を、とさ……いえ、しかるべき所へ持っていくだけの役割ですが」

「何を言いかけたのかは捨て置くが……。倒れている人間?」

「お兄ちゃんは里にきてから三日間、気を失っていたの。それはこの里に張られた結界の効果によるもの。普通はその間に人間さんは食料になるの」

「結界?」

また非現実な言葉が出てきたものだ。

「あやかしの里は結界によって、人間界と区切られているんです。結界の効果は二つ。一つはこの里を、外から見えないようにすること」

「……そして二つめが……人間を気絶させること、なのか?」

「そうです。うっかり里を覆う結界を通り抜けた人間は、そこで意識を失います。そうなれば最後、妖怪に見つからずに数日を経て意識を取り戻したところで、そこは結界の向こう側」

「もう一度結界をくぐったって、また気絶するだけなの。そうしたら今度こそツブテさまとかに見つかっちゃうと思う。っていうか、一度目の気絶を乗り切るだけでもほとんど不可能なの。結界は常に妖怪に見張られているから」

「見張られている……」


……一度結界の向こうへ渡れば、二度と人間の世界には戻れないと……いうことだろうか。

敷居をまたいだ人間は気を失い、そして捕らえられ糧となる。妖怪の餓えを満たすために。

結界の外の人間には里は見えない、気付かない。

常識の外側に位置する……世界。


「……ごめんなさい」

「ん……?」

「私の人間に関する知識が、あまりにも希薄過ぎでした。逢磨くんに不快な思いをさせてしまって……」

「……」

「やっぱり、気持ち悪いですよね?」

恐る恐るといった調子で、上目がちに会話を試みてくる。

妖怪もまた、人間を知らない。動物の肉を食べる消費者が家畜の気分に同調することがないのと同じく、思い浮かべるという発想すら生まれない。

ツブテは初めて、こうして生きた人間を前に思考を働かせているということか。

そしてそれは、僕も同じこと。

「確かに、いい気分の話ではないがな……。既に反応の仕方に困るレベルだ。怖いといえば怖いし……憤りを感じるかといえば、感じなくもない。こうしている間にも、僕と同じ人間がどこかで調理されているというんだからな……だが」

「だが……?」

ツブテは次の言葉を待っている。僕は頭の中で文章を選択肢から選出した後、舌に乗せた。

「だが、やはり何もかも、すぐには呑み込めないという印象の方が、今は強い」

複雑だ。

この不可解な里の構造。その一端を垣間見たところで、妖怪どもに対する僕の感情は有耶無耶になってきていた。

妖怪が人間を喰らうのは悪意からではなく、食材として必要だから。故に罪の感情は存在しないのだろう。

調達、料理、加工。

しかるべき所、か……。

唐突に、昨日の記憶が脳裏に浮上した。里からの脱出を試みた僕の前に現れた鬼。振り上げられる棍棒。


--『食料庫』から逃亡でもしやがったのか?


--目の前に人間が居るってんなら、

--殺したくなるってのが鬼の心理だ。


残虐さをありありとむき出しにしていた、妖怪。

そして、恐怖と憤りが頂点に達した僕にかけられた、少女の言葉。


--この屋敷に居る限り、お兄ちゃんが他の妖怪に食べられるなんて事態にはさせません。


--ツブテさまは、逢磨お兄ちゃんに恋をしているのですよ。だから、側にお兄ちゃんを置いておきたかったのです。


……全く、何てことだ。

罪を知らない妖怪。罪を自覚している妖怪。恋をする妖怪。

これではまるで、人間と同じじゃないか。


「ごちそうさまなの」

先に食事を平らげた舞切が膳を持って席を立つ。

「ツブテさま、後は何かご命令はあるの~?」

「特にはありません。休息に入って結構です。ただし私達の食器の片付けを忘れないで下さい」

「はいなの~。……う~ん、しばらく休憩なら、お兄ちゃんと遊んでいい? ツブテさま」

「そうですね………、では、」

ツブテは僕と舞切の顔を交互に見た後、思案するように腕を組み、ぽんと手を打った。

「舞檻を呼んできて下さい。貴方達にはこれから、一つの命令を与えましょう」

「それは何なの~?」

「舞檻を連れてきてから話します」

「了解なの!」

ビシッと敬礼をした瞬間、室内を襲う暴風と共に舞切は姿を消した。


「あいつらは……どういう基準で移動方法を調整しているんだ?」

着物にはかからなかったものの、料理がぶっ飛んでこぼれたのだが。

「……逢磨くん」

「……今度は何だ?」

落ちた魚を拾おうと僕は腰を上げようとし、

「逢磨くん!」

「ぐおっ!?」

再び、椅子に座らされた。

正面のツブテがテーブルを飛び越え、突如包容を繰り出してきたからだ。

膝の上に座り、鼻先が触れそうなほど顔を近づけてくる。

椅子ごと後ろに倒れないように踏ん張るだけで精いっぱいだった。


「繰り返す! 今度は何だ!」

「ふふっ。第三者が消えた所でシリアスモード、これにて終了です。逢磨くん辛かったでしょう、息苦しかったでしょうあの空気は! ええ私も分かりますよ、この世界が小説だったら読み飛ばしたくなるような描写がいくつ存在いていたことか!」

満天の星空を封印したような輝かしい瞳を向けてくる天狗の少女。

……つくづく分からん。

「……そんな描写が頻出していることを自覚しているなら、ちゃんと編集しろ。

プロットを書け」

「嫌ですねえ逢磨くん。この世界は小説じゃありません、まごうことなきのんふぃくしょん。一人の意志で人生が変えられますか?」

「どの口が言っている」

「ふええ、ほっへたひっはらないでくらひゃい~」

「僕は何もしていない。この世界が小説だったら誤解を招きそうなことを言うな」

というか、こんな不条理極まりない展開を見ている読者なる存在が実在したら、僕は今すぐ死んで物語から除隊している。妖怪だらけの物語だ、どうせ僕の役割はモブがせいぜいだろうしな。


「あぁあ逢磨くん……。昨日は復帰直後でしたから抱きつけませんでした。今朝は謝ってなかったから抱きつけませんでした。逢磨くん、この温もりが愛しいです」

「それは何のキャラだ」

「照れなくていいですよ逢磨くん、器用になれないのなら不純な恋でも構いません……私のおっぱいで良ければいくらでもお貸しします!」

「何でそうなる!」

背中にまわされた細い腕。加わる力。

押し付けられる胸は、もはや呼吸器系を圧迫する領域だ……というか、本当に……大……き……すぎる。

意識がもうろうとしてきたのも手伝い、妖怪の誑かしを受け入れそうになる。しかしツブテは最後に一際強く僕を抱きしめた後、あっさりと体を話した。


「さっき、初めて私を名前で呼んでくれた時……嬉しかったですよ」

「ん? ああ、使用人の無実をぎそ……いや証明した時か」

「逢磨くんは……私達が人喰いの妖怪だということを……受け入れて、くれるんですよね?」

「……ひとまずは、な」

人喰いはさておき、こいつらが人間ではないという事実……妖怪という種族については、意見を先延ばしにしたい気分だった。

ただ人間ではなくとも、少なくとも今まで僕が見てきた妖怪どもは、どこか人間くさい奇妙な雰囲気を醸し出している連中ではあるらしい。

理解し合えるかどうかは、二の次だ。

僕自身が妖怪に殺される確率が他の人間よりも低いということが知れれば、今はそれでいい。


僕だって殺されたくはない。

僕が自分自身を殺そうとした、愚かな人間だったとしても。


『痛みが分かる心があるのなら……人間だとか人間じゃないとか……そんなことは関係ないんだ』


……それにしても、まさかあんな所で『あの声』が回想されるとはな。

いつもは夢の中でしか聞かない、懐かしくも忌まわしい、声。

お前は今の僕を見たら、何を思うんだろうな……。




◆◆◆




この里から出るチャンスを見つけなければならない。

そう思いながら、表向きは両腕に抱きついてユウコウテキに接してくる幼女の相手をする。

「お兄ちゃん、鎌鼬って人間界では自然現象ってことになってるんだよね」

「ああ」

「一時的な真空が大気中に生じて、それに触るから体が切れるって……何かよく分からないの。くーそーかがくっぽいの」

「ああ」

「でもお兄ちゃん知ってる? 自然現象の鎌鼬って、外国ではぜーんぜん発生の記録がないんだって。舞檻たち、絶滅危惧種なのかな?」

「でも人間さんたちが妖怪の舞切たちを信じないで鎌鼬って名前は残したっていうのは面白いの。やっぱり言葉って大事なの。精霊さんが宿るの」

「ああ」

先ほど本人たちから聞いたが、舞檻と舞切は鎌鼬という妖怪らしい。変な名前の自然現象だと思ってたら、まさか妖怪の名前がモデルだったとはな。ふむ、勉強にならん。

長女舞檻、二女舞切、そして三女の舞塗で鎌鼬三姉妹と呼ばれているとか。三匹とも、ツブテの屋敷で使用人を勤めている。

「むー、お兄ちゃん、さっきから反応が薄いの~」

「ま、舞檻たちの話、つまらなかった?」

「……とりあえず、僕はお前たちの兄ではないとだけ突っ込んでおく」

話は聞いているが、妖怪に密着されながらというのは、やはり複雑な気持ちだ。

「でもでも、お兄ちゃんは少なくとも見た目は舞切たちより年上なの。年上の男の子はお兄ちゃんって呼ぶんだって寺子屋で習ったの」

「見た目の年齢はともかく、多分実年齢は舞檻たちの方が上だと思うけどね」

「そうなのか?」

「妖怪はだいたい、人間さんより寿命は長いの。お兄ちゃんの年齢って400代?」

「そんな人間はいない」

「そうだよね……ふ~ん、不老長寿の人間さんって、やっぱり少ないんだ」

「ふふっ、でもお兄ちゃんがずーっとこの里に居てくれるのなら、なんにも問題はいらないの~!」

鎌鼬姉妹は人間の僕には少々理解の及ばない台詞をのたまった後、再び馴れ馴れしく腕に頬ずりをしてくるのだった。

「歩きにくい……。だいたい、案内役が案内される側にひっついて併歩するのはどうかと思うんだが」

あわただしいのかゆったりとしていたのか判然としない朝食の後だった。ツブテは舞檻と舞切を呼び出し、何事かを指示していた。命令を受けたニ匹は嬉しそうな顔で僕を拘束(抱きついているつもりなのだろうが、力を入れても解けないのが恐ろしい)し、屋敷の外へと連れ出したのだ。

曰わく、

「逢磨くんにあやかしの里を案内してあげて下さい。本当は私が行きたいのですが、仕事と私用がありますので」

……ということらしい。

そういう訳で、幼女にがっちりと腕を固められつつ、木造の古風な家屋乱れる中をさまよっているという僕の現状がここにある。


「お兄ちゃんの腕、あったかいの~。どんどん寒い季節になってきてるから、こうやってくっついてた方が舞切たちも案内しやすいの!」

いや、お前らはさっきから何一つ案内していない。

「うんうん、えっと、今は霜月だよね、それにもうすぐ晦日だし。寒いのは舞檻たちには苦手だよ」

「お前ら……」

舞檻と舞切。

昨日里から逃げ出そうとした時、この妖怪少女らは尋常ではない空気を、その身から溢れ出させていたように思った。鈍い光を放つ刃物の腕。流血の斬撃に心踊らせる無邪気にして邪悪な笑顔。

そんな雰囲気を放っていた人ならざる異形が、僕に幼い顔と態度で話しかけている様は、怖気にはならずとも違和感を感じさせる。

妖怪とは何なのだろう。

……いや、奴らのことを知らなければならない義務なんて無いはずだ……何故なら、僕はまだこの里から逃げ出すことを諦めた訳じゃない。

僕は焦燥に駆られていた。人外への同情が生み出した胸の痛みとは違う、名状出来ない不快感。

理由なんて……分からないが、僕はこの里にこれ以上、いてはいけない気が、する……。


「お兄ちゃん……どうしたの?」

ツインテールの幼い少女が、心配そうにこちらを見ていた。

僕は答えず、彼女の顔から目を背ける。

「ま、舞切」

「う、うん……お、お兄ちゃん、ごめんなさいなの」

ニ匹の妖怪は何故か謝る仕草を見せると、僕の両腕から離れた。

……機嫌を損ねたと思われたのだろうか。そういえば今朝も、そんな風なことでツブテが怒りを露わにしていたな。

どうもあの天狗少女は、僕に不快感を与えることを極端に嫌っているような気がする。思えば態度も昨日と比べてよそよそしかった。……後からべったりと抱きついてきたのは若干意味不明だったが。

他者に仕える身というのは大変だな、と幼鎌鼬三姉妹にささやかな同情を送る。

ふと気になった。


「そういえば、舞塗はどうしているんだ? 姿が見えなかったが」

「………」

鎌鼬の表情筋が、一瞬引きつったように見えた。

何だ? その微妙な反応は。


「えっと……う………、舞塗はね、おるすばん……そう、お留守番してるよ!」

「う、うんそう、お留守番おるすばん……! 今ごろはツブテさまと楽しくお話してるところだと思うの!」

「…………」

よく分からんが、ニ匹はかなり慌てた様子でそんな台詞をまくし立てていた。

というかその返答、今朝から姿が無かったことについて説明できていないが……。

まあ、どうでもいい。所詮ふと気になっただけのことだ。詳しく知りたいと思った訳じゃない。

よく知りもしない妖怪がどこで何をしていようが、僕には関係のないことだ。

いつまでも、こんな妖怪の巣窟にいるつもりはないのだから。


「お兄ちゃん、舞塗のことは置いといて里を見て回ろうよ!」

「そうなの! いつまでもお兄ちゃんにくっついてる場合じゃないの!」

舞檻と舞切は今度は左右の手を掴み、しきりに引っ張ってきた。

「……、ああ」

僕は外へ出てからずっと、この姉妹の目を盗んで逃亡する方法を模索している。

常に腕に抱きつかれ、今度はこうして手を握られていては思案した策を試す術もないが……痛みは無いのに、さりげなく外そうとしても全く抜け出せない。

まさかとは思うが、意図的に拘束してないだろうな。

見たところ、ツブテやこの使用人どもは僕が里を脱出するなどとは夢にも思ってはいないはず、なのだが。


「うっ……!」

思わず、体が締まる。

通りの角や、家々の前。はては瓦屋根の上。

ソレらはそんな街道の各所で、談笑していたり古風な玩具で遊戯を楽しんでいた。

……その全てが、ああそうだ、妖怪だろう。

今の時刻は知らないが、少なくとももう早朝ではない。妖怪の里の住人達が、目を覚ましたという訳だ。


「あれ、……、人間の匂いがしないか?」

「本当だ……。それに、生気も感じるぞ」

「あっ、あそこだ! 鎌鼬と手をつないでいるぞ」

「あれは、天狗んトコの使用人……?」


あやかしの皆様がたは、物珍しそうな目つきをして僕だけを見ている。

人間と見分けのつかない姿をしているモノも居れば、髪や瞳の色が異質なモノ、体の一部が動物や植物と化しているモノ、正体不明な機関が体から生えているモノ、燃えているモノやずぶ濡れなモノ……千差万別だな。もっとよく見れば漫画やゲームでお目にかかる異世界種族も居たかも知れないが、下手に凝視して目が合うのは嫌だったので、顔はいちいち視界に入れないようにつとめる。


「人間ってあんな姿なんだ……いつもステーキでしか見たことないからなぁ」

「ワシらとさほど変わらんのぉ」

「オスかな? メスかな?」

「顔は割と可愛いかも」

……という声が聞こえてくれば、


「あの人間は格別ウマそうだな」

「嗚呼、心臓の串焼きが食べたくなってきちゃった」

「じゅるり……ハァハァ」

「鎌鼬がいなければ……」

……などという恐るべき台詞も耳に飛び込んでくる。


「お兄ちゃん人気者なの」

「良かったね」

「………………」

話しかけないでいただきたい。

今妖女どもに見捨てられたら遠慮容赦なく僕は解体されるように思ったので、さっきとは逆に僕はニ匹の手を握りかえす。……何を勘違いしたのか、嬉しそうな微笑みが返ってきた。……勘弁してくれ。


それからしばらくの間、鎌鼬らによる導きが続けられる。嬉々として手を引かれるがままに、里の施設やら広場やらを連れまわされた。


「ここは河童さんの診療所なの」

「河童ねぇ……」

「お医者さんは男の人だから、お兄ちゃんとは甘い話は無いだろうけどね」

「そんな物は最初から求めていない」


「で、この家は修理屋さん」

「何を修理しているんだか……」

「主に機械類だよ。この里にも最近、人間界の機械せーひんが浸透してきてるん

だ」「妖精さんが、壊れた機械を直してくれるの」

「妖精……、ん?」

「どうしたの~?」

「いや、何でもない」


「ぐっ、また大量の異形どもが……」

「ここは里の中央広場なの。ほぼ一日中あやかしさん達がくつろいでいるの」

「おい、こいつら目つきがおかしい、今舌なめずりした奴がいた。気分が悪い」

「それは大変なの! 診療所に行くの!」

「いらん。別の場所へ連れて行ってくれ」



「お兄ちゃん、大丈夫~?」

「……ああ」

周りを見渡す。

やはりどこへ行っても、この世のものとは思えないヒトガタはまばらながらに存在していた。

こんな具合では隙を見て逃げ出すことは難しいだろう……それどころか、この鎌鼬から離脱することが危険なように思えてくる。

全く、何をやっているのだか……僕は。

「舞檻、何かお腹すいたの」

「あ、舞切も? うーん、お昼にはまだ早いけど、何か食べに行こうか。ねぇお兄ちゃん?」

振り返るその顔には明らかに、『お兄ちゃんもお腹空いたよね?』と書いてあった。

……少しはお兄ちゃん呼称を自重しろ。


「勝手にしてくれ……だが人肉を出す店なら断固拒否だぞ」

「大丈夫なの! 和菓子をつまみに行くだけなの! おやつなの~!」

「そうと決まれば吉日だね! わ~い!」

『おやつ』を近未来に配置した途端、幼女達のテンションは最高潮に達した。冗談でなく千切らんばかりの速度で手を引っ張って走り出す。そういえば元々、言動の勢いが激しい奴らだったな……。

「す、少しはゆっくり走れ……! これは人間に許容できるスピードじゃない、だろ……う!」

「ゆっくり走るなんて器用なこと出来ないの~!」

「舞檻たちは子供だも~ん! きゃっははははは!」


お目当ての店と思しき場所に着いた時には、僕は心臓が破裂する寸前の状態に陥っていた。外観を解説する余裕すらなく、屈んで肩で息をする。

「うーん、閉まってるの」

しかも無駄骨だった。

「まあ、閉店なら閉店でいいけどね」

「……随分あっさり切り替えるんだな」

「うん。今はあんまり気にしてないけど、舞檻たち、ちょっとここには嫌な思い出があるからさ」

「でもお菓子が食べられないのは残念なの。困ったの、甘味処はここしかないのに」

「……甘味処?」

気になる単語にふと顔を上げると……見覚えのある看板。

「『ゆんゆん亭』……」

昨日の逃走の最中に目にした建物だった。

「そういえばこのお店、いつも開店日がばらばらだったの~」

「日曜日にやってる時もあれば何日も閉まってる時もあるしね~」

目標を失った幼女らは一転して手持ち無沙汰な様子となり、店の扉を叩いたり腕を組んだりして時間を潰し始める。終いには店先に座り込んでしまった。

「あ~あ、もう歩けないよ」

「疲れたの。お腹空いたの。眠たくもなってきたの~」

「お前ら……」

子供にも程がある。

不定期運営のこの甘味処は人気のある店のようで、鎌鼬以外にも側を通りかかり、扉を確認する妖怪は少なくなかった。ついでに僕にちらりと視線を向ける輩も。

……もういい。今日は諦めた。ああ色々なことを諦めたとも。ここに比べればまだ天狗の巣の方が安全だ、脱走計画は後で練ればいい。

何だか嫌な予感がしていた。このまま妖怪御用達の店の前に長時間留まるのはマズい。そう思い、愚痴を零す幼子どもを諭そうと口を開く。


「あぁ、てめえは!」

……開いた口は、何も吐き出すことは、無かった。

その代わりに、後頭部に暴力的な言葉が、直撃する。

その粗野な声に、僕は聞き覚えがあった。


「ん~? どったのオヌぽん……あっ、カマちゃん達じゃん!」

もう一つ同じ方向から、今度は弾んだ声。それを聞いた途端、ふいに鎌鼬姉妹の表情に喜色が渡来する。

「あっ、猫耳さん!」

「猫耳のお姉ちゃん!」

ニ匹の妖女は素早く立ち上がり、僕の後ろに存在しているだろう、声の主に駆け寄っていった。

「やっほ~カマちゃん達! お久しベリーベリーだにゃ~! 何してるの~?」

「甘味処が休みだったの。お腹が空いてたから来たんだけど……」

「え~、また休み~!?」

「儲けがくたびれだったから、舞檻たちも休んでたんだ~!」

…………。

好んで見たくも無かったが、僕は後ろを振り向く。


そこには、二人の異形が立っていた。


「やっぱりてめえか、人間」

片方は予想通り……昨日出逢った鬼の少女だった。嫌な記憶を思い起こさせる巨大な金棒も、しっかり肩に担いでいる。

そしてもう一人、その隣に立っているのは、

「あ~っ、ホントだマジ休みじゃん! うわ~チョーありえないんですけど。 こういうのビミョーに凹むんだよね~……あずあずも休みの日くらい連絡してくれればいいのに~……せっかく今日はイメチェンでメイド服作って来たんだから見せたかったにゃ~。今日のみぃの仕事、オワタ!」

…………。

不意に聞こえる電子音。

「あ、メールだ。ケータイケータイ……あった! フロムあずあず……今さらかよ! 今さら休みの連絡ですかよ! 改行無し全部ひらがな読み辛いって! いい加減メールに慣れてプリーズ! 絶対早朝から四苦八苦しつつ打ち続けてたね、苦労が滲み出てるもん文面に! みゃあそんなたどたどしさはあずあずっぽいけどね。ギザカワユス! それじゃあこっちは2秒でレスってやるぜ! 『モウ

コネエヨ! ウワアァアアン! にゃんちゃってね!』っと。 半角打てないのは勘弁。……ん?」

……………………。

誰かオッカムの剃刀を持ってこい。

えらく膨大なトークをマシンガンして、新たなる謎妖怪はようやく僕の存在に気がついた。

……いや、気付かず終いの方が良かったんだが……。


「ん? ん? ンジャメナ? 人間の匂い? キミ誰?」

「堕天狗の奴んとこの人間だよ。あの女しつこく言ってたろ? 近い内に人間を招くって」

舞檻と舞切よりも先に、鬼の少女が説明を紡いだ。

騒がしい少女は目を丸くしてまじまじと僕を覗き込んだ。瞳孔が開閉しているように見えるのは、恐らく気のせいではないだろう。


「あぁ~なるほど! なるほどなるほどなるなるにゃ~! キミがうるかりんの彼氏さんなんだ! ふ~んへ~え。初めましての冷やし中華だね! にゃはは、カッコいいのか可愛いのか判別が難しいねぇこれは」

上から下まで全身を眺め倒してくる妖怪。……印象の薄い顔で悪かったな。

黒と赤を基調としたセーラー服を着た少女だった。今まで和服姿の妖怪しか目に入って来なかっただけに、そこに立っているだけでエキセントリックな雰囲気を全身で表現しているように感じられる。

それよりも特徴的だったのは、耳とそして……尻尾。

色からして、三毛といった所か。

猫耳さん……ねぇ。

「みぃの名前は奥山未結音! 三度の飯より魚を愛する猫妖怪! よろしくねニューフレンズ!」

猫妖怪は高らかに友達宣言をのたまうと、片手をこちらに差し出してきた……爪は短いな。

スカートの上から出ている尻尾がせわしなく揺らめいている。先端が二股に分かれた奇妙な形の尾だった。

「……俗に言う、化け猫って奴か?」

そんな名前の妖怪なら、小学生の頃に本で見たことがある。

読んで字のごとく、猫が化けた妖怪。


「んん~? ファイナルアンサー? ドクンドクン……残念っ! 惜しいね人間さん、間違いだよ! 正解はぁ、猫又でした~!」

「同じじゃないか」

「チッチッチッ、学力が足りないねぇ、違う違うよ全然違う。 目目連と一目連くらい違うのだよ~化け猫と猫又は。ま、のっぺらぼうとぬっぺらぼうくらいは紛らわしいかも知れないけどね」

「何を言っている」

「分からないならいいけどね。みゃあとにかくみぃの種族名があやかし目猫又科だってことを覚えてくれればそれでいいよ。これ伏線だよ? テストに出るよ?」

「…………ハァ」

僕は目の前の猫又に対する思考を放棄した。あまりにも台詞に戯れ言が過ぎる。

いちいち反応していたら身が持たない。読み飛ばし……否、聞き流しを遂行しよう。

「っと、ついつい喋り過ぎちゃった。いくら気をつけても治らないんだよね~、

みぃの喋り癖。ふむ、それじゃあ趣向を変えて……とりゃあ!」

猫妖怪は言葉の銃を懐に戻すと、いきなり僕に抱きついてきた。

……妖怪の世界では日本でもハグが主流なのか?

「んん~、体は華奢だね」

「離せ」

「にゃふふ、照れなくてもいいんだよ~。……それにこういう風に抱き合ってい

れば、何かフラグが発生しない?」

「HA NA SE!!!」

これ以上モンスターカードを引かれたら確実に僕のライフは0だ。

肩を両手で突くと、案外あっさりと猫は離れた。

「みゅ~、冷たい人間さんだにゃ~。ショボン」

「おいコラ猫、さっきからあたしを無視して好き勝手してんじゃねえ。こいつはあたしの獲物だ」

低い声が飛んできて、再び僕は寒気に捕らわれる。

鬼が眼光を射出していた。

「昨日はよくも恥をかかせてくれたな……高くつくぜ、人間さんよぉ」

「……………」

いや、僕は何もしていなかったと思うんだが……と言える雰囲気ではない。

「あれれ? オヌぽんもう知り合いになってたんだ。にゃはは、隅に置けないねぇ」

猫は口を閉ざさなかった。

まずい……これはまずい。

鬼出現の瞬間から鳴り響いていた第六感の警報が、どんどんと音量を上げていく。

「うるせえ! てめえは黙ってろ! つうかあたしをオヌぽんって呼ぶんじゃね

え!」

「えぇ~いいじゃん。可愛いじゃんオヌぽん。萌え業界ではギャップが重要な要素の一つにゃんだからさ~」

「喧嘩売ってんのか! ったく、バイトだか何だか知らねえが、無理やりこのあたしをこんな所へ連れ出しやがって……せっかくの非番だったってのに……」

「にゃっははははは!」

猫耳は鬼に向け、笑顔をはじけさせる。実に空気を読まない笑い方だった。


「でも何だかんだ言ってオヌぽん付き合ってくれたよね、オヌぽんホントは素直だよね、みぃはちゃあんと分かってるよオヌぽん実は可愛い所あるんだってさ。オヌぽんもやっぱり女の子にゃんだな~。オヌぽん萌ええぇえええぇ!」

瞬間、地面が陥没した。

猫又……未結音は既に、そこから姿を消している。

削られた地面から二、三歩、軽快に飛び跳ねたのだった。


「殺すっ!」

鬼の雄叫び。

顔面が般若の形相を呈していたのは、皮肉と言えば皮肉だった。

一瞬で距離を詰め、金棒をかざす。

「にゃはは、ほらほらぁ、やっぱり素直ないい子だよオヌぽんは。偉い偉い」

「そうかありがとうよ好きに頭を撫でるがいいぜその腕ぶっ飛ばしてやるからよぉおおおぉおおおおお! オラアッ!」

空気を殺害する鬼の武器。

対する未結音は……駄目だ、やはり速すぎて目で追えん。

最低限の状況を記述するなら……少なくとも焦っている様子は見られない。何故なら先ほどから、笑い声だけがこだましているからだ。

「うおっと、つんのめった!」

「大人しく死にやがれえぇ!」

ふらついたその体を、容赦なく攻撃する鬼。惨劇の幕開けか。

残虐描写に備えて目を閉じかけた僕の耳に、けたたましい金属音が飛び込んできた。

金棒は、ニ匹の妖怪の一対の鎌によって、止められていた。

「猫耳さん、助太刀するの~!」

「戦が出来るなら空腹なんて関係ないよ!」

怒りの絶叫。

打撃音。金属音。打撃音。打撃音。金属音。打撃音。唸り声。打撃音。

その全ての効果音に、無邪気な笑いが被さっている。

「にゃっははははははは! たあぁあぁああのしいねえぇええ! ブッ殺し合うっていうのはさぁああ!!」

「きゃはははは! きゃははははは!」

「うらあぁあああぁあ!」

「まだまだなのまだまだなの~!」


「………………」

一人の人間が、ここで呆然としている。

周囲の背景に存在していた妖怪達は、いつの間にかいなくなっていた。

……この機会を逃す手は無い。

僕は今度こそ、即座に離脱を図る。

誰にも見つからずに出られるか、結界を通過した後はどうなるのか、そんな思考は瑣末だ。

あやかしの里を、今こそ!

「つ~かま~えたっ!」

………は?

腹を締め付けられる感触と共に、足が突然地面から浮いた。

僕の体が、意志に反して跳躍する……いや、僕を束縛した何者かが……。

回された腕の袖口。黒の布地に、赤いライン……。

「にゃはは、やっぱ気が会うねえ。みぃも同じこと思ってたトコだよ。……一緒に逃げよ?」

「…………っ!」

鎌鼬と鬼が、互いに向き合って暴走している。

その光景は急速に視界から遠ざかり、やがて建物の陰に消えた。




◆◆◆




戦闘を楽しんでいたニ匹の鎌鼬は、八岐オヌの攻撃を裁きながら、それほど時間をかけずに気付く。

「あれ? 舞切、猫耳さんが居ないよ?」「あれ? ホントだ、猫耳さんが居な

いの」

垂直に叩きつけられる金棒を左右にかわし、近くの建物の屋根に飛び乗った。

「どりゃあっ!! ぜえ……ぜえ……くっ、どこに消えやがった!」

「あれれ!? 舞檻、お兄ちゃんも居ないの!」

「あらら! 大変、お兄ちゃんも居ないね!」

「ツブテさまに知らせないと!」

「あう、でも……怒られちゃうかも。舞塗みたいにお仕置きされるかも」

「でも言わないよりはマシなの!」

「そうだね! 早く報告だね!」

「そうなの! 早く連絡なの!」


「「相談しよう! そうしよう!」」


鎌鼬の影が、二つとも消失する。

後には、一匹の鬼だけが残された。

「どこだコラあぁ! 出てきやがれえ! 今日こそとどめを差してやるうう! うがああああ~~~!」




◆◆◆




「いやあ~、焦った焦った。オヌぽん全力で殺しに来るんだもん。みゃあ誘い受けしたのはみぃだけど。にゃはは、流石にあそこまでやられると、いくらみぃでも『全力で見逃せ!』的な感じになってくるのよさ」

「……お前、いや、貴様の発言は日本語とは思えん」

というか、どことなく単語の使い方を間違っているような気がする。……多分、分かったら負けだ。

天狗の次は、猫又にさらわれた。

持ち上げられた腹が痛む。

……ここは、里のどの辺りに位置しているのだろうか。地図無き僕には判断など出来ないが、さっかまで居た甘味処からかなり移動させられたように思う。

周りには、一切妖怪の姿は見られない。静けさの支配する通りだった。

そんな道に、妖怪と二人きり。……鬼に襲われた時とは異質な、奇怪な寒気がせり上がってきた。


「僕を……どうするつもりだ」

「ん? う~ん、どうしようかねえ。にゃふふ、食べちゃおっかな~」

「…………」

後ろに下がる。未結音はニヤニヤと含み笑うばかりだった。

「にゃんてね、冗談冗談。そんなにこわばらなくていいって! リラックスリラックス! そんなことしたらカマちゃん達に怒られちゃうし……何よりうるかりんに殺されちゃうもん。……みゃあそれはそれで面白いかもしれないけどさ」

「……おい」

「カマちゃん達から聞いてるかにゃ? みぃはあの子達とはよく遊ぶ関係なのさっ。ほら、カマちゃん達ってすばしっこくて切り裂き魔なトコがみぃと共通ポイントじゃん? そういう感じでダチな関係なのですよ。だけどさ~、カマちゃん達のご主人のうるかりんとは、なかなかなかなか仲良くなる機会が無いんだよね~」

「少しは人の話を……」

「天狗ってね、結構強い妖怪らし~のよ。種類によっては山の神様に仕えてたりしてるし。風を起こしたり大岩を持ち上げたり……あと詳しくは知らないけど、『神に通じる力』なんていうのがあって~……」

「人の話を聞けっ!!」

振動で対象を吹き飛ばさんばかりに、大声で怒鳴りつけた。これ位の声を出さなければ、どんどんあちらのペースに乗せられてしまいそうだったからだ。


「はい人間どの、どうぞ」

「質問に答えろ……僕を、どうするつもりだ」

「どうもしないよ。理由なくさらっちゃった、ごめんね」

猫妖怪は拳を曲げて自らの頭を小突き、わずかに舌を出しておどける。

時と場合が違っていたら、可愛い仕草に見えたかも知れないが、今の僕には正直全然笑えなかった。

「お前は危険な妖怪に見える」

「そうかにゃ~? 確かにネズミは追っかけていたぶり殺したりするけどさ、でもそれは習性だし~。あ、でも猫又や化け猫は割と危ない妖怪として語られることは多いかも。喉笛にガブリっ! とかね」

「さらばだ」

会話が通じないことを悟り、無視を決め込んで背を向ける。

……それが愚かな判断だということに気付くのが遅れたのは、ひとえにフレンドリー過ぎる奴の態度によるものだろう。

「う……ぐっ!」

「駄目ダメ~。まだ帰さないよん」

背後から羽交い締めにされ、今日一番のきつい拘束を味あわされた。

関節が軋む音が……一つ。

あれほど冗長な喋りをしていた少女とは思えない程の、手際の良さ。

「……みぃは猫だからさぁ、言葉よりも鳴き声とか唸り声の方が、相手の気持ちを読み取れるんだよね……今の唸り声、グッと来たよ」

「何をする気だ……ぐっ!」

「くすっ……可愛い」

首筋に静かな声がかけられる。それは陶酔している訳でも震えている訳でも無いのに、ぞくりと背筋に波紋を広げるだけの力があった。

「意味は無いんだよ。ただ人間さんにキョーミがあるってだけなのさ。にゃはは……お触りする訳にゃいかないから訊くけど、キミは男の子で合ってるんだよね?」

「当たり……前だっ……!」

自分で言うのも何だが、僕の顔はそんなに中性的ではない。

「だよね~。ふふん、ますますワクテカキタコレだにゃん! ……みぃはね、たくましくない肉体のコは嫌いじゃないんだよ?」

「痴女だ! 痴女が居る!」

「男の子のお相手は人間妖怪問わず初めてだけど、みゃあどこをどうすればどんな感じになれるのかは大体予想できるから心配いらな……いてっ!」

「知るかっ!」

臑を踵で蹴飛ばしてやった。性別など関係はない、ここは過激なく行くべきだ。


「みゅ~……痛いよ」

「黙して弛緩するがいい」

「いやらしい台詞だね」

「そっち方面に持っていくな! 僕はいやらしい話題は嫌いだ!」

拘束を解いた猫から昆虫のように後ずさる。不埒女未結音は痛そうに蹴った場所をさすっていたが、顔面からニヤニヤ笑いが消えることは無かった。……もう少し力を入れても良かったかも知れない。

「う~ん、なるなるにゃ~、キミはそういう系の男子なのね」

「分かってもらえたようで光栄だ」

「恥じらえば優しくシてくれるんだね!」

「喰らえっ!!」

頭頂部に手刀を叩き込んだ。

ここまでアグレッシブな動作に及んだのは、生まれて初めてだろう。



どうやら猫娘の端くれは、僕を玩具にして遊びたかっただけらしい。今までで一番タチの悪い妖怪の登場だった。鎌鼬姉妹や天狗娘も、ここまで積極的な嫌がらせはしてこなかったからな……。

一通り僕の打撃を受けて満足したのか、それとも遊び疲れたのか、未結音は唐突に「うるかりんの家まで送るよ」と言い出した(『うるかりん』とはツブテのあだ名であるらしい。奴の名字が『潤香』なんだとか)。

僕としては里の外に送り出して欲しかったが、それは不可能だろう。ここはあやかしの里で、この少女もまた妖怪なのだから。

……仕方のないことなんだ。たまたま、脱出が失敗しただけに、過ぎない。次があると思おう。

ちなみに、僕をもう一度持ち上げて送り届けろと命令してみたが、腹が減ってそんな力業は出来ないと返された。タイミングが良すぎてわざとらしいが。


さっきまでのやりとりがやりとりなだけに、本当に天狗の根城に導いているのかは分かないものの、今はこの胡散臭い猫の後について行くしかない。

適当に距離をとって歩きながら、僕は地理を把握する為に(目的は言うまでもない)未結音に質問を繰り出した。

「……で、ここはどこなんだ?」

「あやかしの隠れ里だよ」

「里のどの辺りだと訊いている」

「屋敷街……っていうのが適切な表現かにゃ~。うるかりんのお屋敷も立派じゃあるけど、ここら辺はもっと上位のあやかし達が住んでる地域ですぜい。人気っていうかあやかし気は少ないように見えるけど、皆さん禁欲的なだけでみんな家の中に居てはるよ」

「上位のあやかし……」

「ちなみに今この瞬間も……ひーふーみー、にゃはは、それなりの数の皆々様がみぃ達の気配を警戒してるね。妖気をめっちゃ感じるよ」

「……………」

逃げるべきだろうか。

気配を探られる感覚など無いが、うかつに不審な動作をすることがはばかられる空気が蔓延しているような……気はする。

猫又の言う通り、辺りにはどれもこれも敷地面積が際立って大きい家屋が軒を連ねていた。……僕と隣の痴女の存在が場違いに思える位には。

ここもまた、留まっているとどこかいたたまれない気分になってくる。

早い所、この地区からは去りたい。

決してツブテの屋敷に戻りたい訳ではないが……。


「それにしても、お仕事も無いし今日は暇だにゃ~。賭博場にでもレツラゴしよかにゃ」

「……そんな所まであるのか?」

「あるよ~。みぃはこう見えてギャンブルはストレングスにゃんだから~♪」

「ほう、妖術でイカサマでもするのか?」

「そんなんにゃいにゃい。持っと簡単な方法だよ。……一ニの三で四五六賽」

「お前最悪だ」

「ピンゾロ賽よりはマシだよね」

「お前と一緒に地下帝国に行くつもりは無い」


……駄目だ、どうしても会話に乗せられてしまう。

随分とこちらの沈黙を解きほぐしてくるじゃないか、この猫又は。

仲良く雑談に興じるつもりなど、無いというのに。


「そういえば今さらだけど、まだキミの名前って聞いてなかったね」

「本当に今さらだな……」

「なんていうの?」

屈託の無い表情で見つめられる。

僕は……すぐには答えられなかった。

「鳥山……逢磨、だ」

……訊かれたから、答えただけに過ぎない。

何を戸惑っているんだ、僕は。

何体の妖怪が僕を記憶しようと、それは僕自身には関係の無いことだ。

里を抜けることは規定の未来。

ならば名乗ることくらい、何でもないじゃないか。

どうかしている……。

「とりやま、おうま……ね。ふうん、名前の真ん中に『魔王』って書ける字があるのが、なんだかカッコいいね!」

「それは斬新な着眼点だな」

「逢磨……逢磨……うん! それじゃ今日からキミのことは、オーミンって呼ばせてもらうよ!」

「僕は妖精か」

「『こっち向いて』を地で行くキャラじゃん?」

「元ネタが分かるのが何故か屈辱的だ」

嗚呼……やめてほしい。親しもうとする気さくな態度を。

仲良くされればされる程、不快な感覚が募っていく。

だがそれは、これ以上この少女と関わりたくないとか、一刻も早く里を抜けたいという思いとは別の感覚だった。

それは僕にも正体が分からない感情の奔流。妖怪達からではなく、自分自身の体の底から湧き上がってくるモノ。妖怪へ向けてではなく、奴らから逃げようとする自分に、嫌悪感が溶け出るような……。

僕はどうしてしまったんだ?

この世界が分からない。妖怪達の考えが分からない。自分の気持ちが分からない。

僕の心は一体、何を思っているんだ……。




◆◆◆




得体の知れないクオリアに苛まれる鳥山逢磨を、遠くから見ている者が居た。

死に装束のような着物を来たその存在は、塀の影から逢磨と未結音の姿を覗き込んで、くすくすと笑う。

飛騨野こころ。

他者の心を読める、真相破りの異形だった。

「なるほどねぇ……くっすくすくす。ここからじゃ流石に読心術も解像度が薄れるけど、ふふっ、確実にこの里に染まっているようね……鳥山逢磨くん」

人間の少年と猫又の少女は、どちらもこころの存在には気付いていないようだった。

俯き歩く逢磨に対し何かを感じ取ったのか、未結音は時折冗談を交えながら彼の気を引こうと試みている。気を引くというのは恋愛的な意味合いではなく、単純にお喋りが続かないと落ち着けないという彼女の習性によるものだったが。

「あら」

こころは何の脈絡も無く、後ろを振り向いた。振り向く直前まで、そこには何の気配も無かったというのに。

しかし……振り向けば、その直後に肉体を持った存在が降臨する。

こころは人を超えた何らかの力により、その出現を読み取ったというだけだった。

「やっぱり読心さんだ!」

「どうしてこんな所に居るの~?」

現れたニ匹の妖怪は、舞檻と舞切。

逢磨が突如として未結音ごと消失した事実を主たる潤香ツブテに方向し、幾ばくかの叱責の後に逢磨捜索に駆り出された……その最中のこころとの邂逅だった。


「ふふっ、別に深い意味は無いのよぉ。実は私、鳥山逢磨と歩いている貴方達をずっとつけてたの。そしたらびっくりしちゃったわぁ、いきなり鳥山逢磨が奥山未結音さんにさらわれちゃうんだものぉ」

「舞檻たちだってびっくりしたよ~」

「舞切たち、ツブテさまに叱られちゃったの。猫耳さんを見つけてお兄ちゃんを返してもらわないと、お仕置きされちゃうの」

「それなら安心しなさい。鳥山逢磨はあそこに居るわぁ」

「あっ、本当だ! お兄ちゃ……むぐ」

逢磨の姿を認めて駆け出そうとした少女の口を、こころは塞ぐ。

「待ちなさいな。……見つけたのなら、もういつでも飛び出すことが出来るでしょお? 幸い猫さんの方も疲れているみたいだし……くっすくすくす。隠れて様子を見てみましょうよぉ」

「わあっ、面白そう!」

「頃合いを見計らって、飛び出して驚かすの~!」

大通りではいくつもの妖怪の気配で、そして現在は周辺の強力な妖怪の妖気によって、尾行者三体の存在は逢磨はもとより、未結音にも気付かれてはいなかった。補足するならば、さりげなく風下に立ち位置を置いたり、さりげなく小声で喋

ることで幼女ニ名の声のトーンを下げさせるなどのしたたかな技能をこころは実行していた。

そんな小技を使いつつ、こころは逢磨を視界に入れ、その心を読み取ろうとしている。

こころは逢磨に興味を持っていた。


人間に会うのは久しぶりだわぁ。

結界の仕掛けを考えれば、あの子も色々なものを抱えているだろうし。

今のうちに、どう対応するか考えないとねぇ……。

ふふっ、奥山未結音、ホントによく話が続くわね。




◆◆◆




「ほら、このお屋敷。この里で一番でっかくて豪華なんだよ」

「………ん?」

何の気なしに顔を上げる。反応しなければ、また肉体的な攻めを喰らいそうだしな……。

見ると……なるほど、塀と門を備えた豪奢な家屋がそこにはあった。囲いの高さから詳しい外観を覗けはしないが、控えめに散りばめられた金色の装飾などから、あの天狗の家には無い荘厳さを素人目にも感じ取ることが出来る。

「相当恐ろしい妖怪が住んでいそうだ」

「恐ろしいっていうか……まあ掴みどころのない性格のお爺さんが住んでたんだよ。滑楽里主っていう、里の総大将だったんだけど。みぃなんか挨拶も出来ないぐらいのお偉いさんなお方ですね」

「随分と過去形を多用するんだな。どうせ殺されるかしたんだろう」

「うん」

あっさり肯定されてしまった。思わず未結音の顔を見る。

「一週間前だったかにゃ~、会合の直後に寝室で『何者か』にやられたのさ。随分と不器用な方法だったようだけど、犯人は音も無く部屋と屋敷から立ち去った。未だに誰が主さんを殺したのかは捜査中」

「まるで見てきたような語り方だが、お前が犯人じゃないのか?」

「にゃはは、……だったらどうする? やだにゃあオーミン、犯人がのこのこ事件現場にお散歩に来る訳無いじゃん」

「……まあ、僕には関係のない話だがな。僕は人間だし、それに余所者に過ぎない」

「それこそ関係ないよ」

ふいに、未結音ははっきりとした口調で、そう言った。

えらく断言的な言葉だった。


「だってオーミン、もうこの里の一員じゃん。人間ってことを差し引いても、色々厄介なことはこれから降りかかってくると思うよ。みゃあ楽しいことだっていっぱいあるだろうけど」


「違う」

思わず、猫に詰め寄ってしまった。

「違う? 何が?」

「僕はこの里の住人になどならない。僕はあくまで天狗にさらわれた被害者だ。興味も好意も、この世界には抱いてはいない……妖怪どもにもな」

妖怪の手前、僅かに躊躇もあったが……はっきりと言い切った。

他者を肯定しない言葉を吐くのはあまり好きじゃない。怒りなどの感情に囚われて躊躇を失わない限りは。

にもかかわらず、素で自分の意見を口にしてしまった。

……つくづく、言葉を引きずり出してくる女だ。


「ふうん……」

未結音は目を丸くした後、何故かにんまりと微笑んだ。笑顔なら甘味処で出会った時からずっと常時発動していたが、それとは異なる、黒光りする笑い。

「……その反応は何だ」

「にゃはは、いやいや、ちょっと意外に思っただけだよ。そっかぁ、オーミンは不本意に里に閉じ込められた訳なんだねえ……だからすぐにでもエスケープしたいと……ふむふむ」

演技臭さの漂う頷きを返しながら、くすくすと気味悪く囀る未結音。

実に不愉快だ。

「別にいいんじゃない?」

「……なに?」

「この里に居たくないっていうなら出ていってもさ。そりゃ、あやかしさん達も食べ物一匹取り逃すのは惜しいと思うかも知れないけど、オーミンだって好き勝手に人生したいだりゃうしね。うるかりんだってオーミンが好きなら納得してくれるんじゃないかにゃ? 互いを尊重しあうことこそ幸せの道しべなり、ってね! にゃはは」

快活な笑い。異形の笑顔パターンの物量もそろそろ堂に入ってきたようだ。

しかし……意外に思う。まさか脱出を否定されないとは。

こいつの喋りは曖昧で、意見を肯定してくれていると素直に受け止めることは出来ないが。

それに今の言葉は、ただの一匹の猫妖怪の見解に過ぎない。


『そう……否定されるのが怖いんだね。

でも、たとえ自分の考えを潰されたって、言いたいことが言えればそれですっき

りはするんじゃない?』


……まただ。

またあいつの声が、脳裏をよぎる。


『……そんなに塞ぎ込まないで。鳥山くんのことを分かってくれる人だって、いつか絶対に、現れるはずだよ』


自分の頭を殴りたくなる。

違う、今はあいつのことを思い出している場合じゃない。何を訳もなく、こんな湿った回想なんかを。

大体もう僕は……もう思い出したくなんか無いんだ。

僕が死のうと思ったのはお前のせいなんだ……それで僕はこんな世界に叩き込まれて………。



「やばっ!」

小さな衝撃と共に、体が重力を忘れる。

似たような感覚を、僕は昨日味わったことがあった。

「ぐおっ!」

いきなり未結音が体ごと僕に飛びかかり、地面に押し倒してきた。……勿論そう把握する頃には、とっくに僕の体は地面に打たれていたが。

さすがに、ニ度も気絶はしない。

鼓膜を単調な音が震わせる。薄っぺらい何かが空気を叩く音。

ほどなくして目に映る空に飛び立つ、黒い鳥。

風向きの変化と共に、ニ、三秒、沈黙が降りる。

「ふ~っ、びっくりしたぁ……ただのカラスか。うるかりんかと思った。結界の中に迷い込んできちゃったんだろうにゃ~……」

「……それと僕を倒すことと何の関係がある」

「おやおや、関係おおありですぜ旦那ぁ。さっきも言ったでげしょう? オーミンを抱き込んでいるとこをうるかりんに見られたら、」

僕の上に体を重ねたまま再度ふざけた言語を吐き出しにかかったと見られる猫又は、しかし台詞を途中で止め、天に鼻を向けて鳴らす。

「たら~……鎌鼬の匂い」

「なんだと?」

「お兄ちゃ~~ん!」

聞き飽きた幼い大声。

横向きになった僕の視界に映るは三つの人型、兼異形。

「お兄ちゃん大丈夫!? いきなり猫耳さんがお兄ちゃんを押し倒すからびっくりしたよ! 食べられちゃうのかと思ったよ! 

「どっちの意味の『食べる』なのか分からないからホントにびっくりしたの! そしてどっちの意味でもツブテさまには大変よろしくないの!」

舞檻と舞切がぱたぱたと駆け寄り、僕のそばにしゃがんで物珍しそうに覗き込んでくる。

「わおカマちゃん、倒れた人間の目の前でしゃがんじゃったら、オーミンには刺激の強いモノが見えちゃうよ~?」

お前は僕を何だと思っている。子供の下着ごときに硬直してたまるか。いや異性の露出自体反応してたまるか。

「今は舞切たちの問題より猫耳さんの問題がじゅうよーなの! 現行犯逮捕なの~!」

「にゃはは、心配いらないよカマちゃんシスターズ、これは単なるラノベ的誤解さね。やましい描写は本編のどっこにも無かったから安心していいよん」

どの口が言っているんだと申し上げたい。最早いちいち突っ込むのも面倒だが。

そろそろ僕の上からどけと文句を言おうとすると、三体目の妖怪がくぐもった笑いを漏らした。

「あらあら、どの心がおっしゃっているのかしらねぇ?」

柳のような優雅さと幽玄さを備えた女。なめらかに吹いた風が、墨のごとき黒髪を撫でた。

「お前は……確か……」

「飛騨野こころ、よ。くっすくすくす、名前は薄々しか覚えて無かったようねぇ。ま、たまたま会った間柄なんてそんなものでしょうけど」

「たまたまねぇ……でもその割にゃ随分タイミングが良すぎる気がするにゃあ、こころん?」

「ふふふ、物陰から見てたのよぉ私達。私は一部始終を、鎌鼬達は途中からねぇ」

「…………」

見ていないで助けろ。何故傍観していた。

幾多の文句を僕は口にしない。この妖怪に言葉は必要ないだろうからな。

「ふふっ、嫌われちゃったみたいね。それじゃあ奥山未結音さん、そろそろ彼からどいてあげなさい。刺激が強いだろうから」

「おうっと、すっかし忘却しちょりみゃした。メンゴソーリー。……しょっ、と! んじゃオーミン、ロリメイドお三方三分のニバージョンもお越しになられたキビダンゴってことで、みぃはこれにてララバイサヨナラといたしましょうかにゃ」

軽快に立ち上がった猫は僕の体をさりげない動作でひょいと跨ぐ。「おっと、みぃのお気に入りの布もオーミンの視界に入っちゃったかにゃ~」という台詞は聞き捨てておくが。

そして最後、一瞬顔を近づけそっと囁きかける。

「この里を出たくなったなら、みぃに言って。いつでも相談に乗るよ?」



「いつ見ても飽きないわねぇ、お喋りな三毛猫さんは」

「……僕はもう腹が一杯といった心境だが」

猫又の去っていった方向から妖怪三体へ視線を移しつつ、体を起こして立ち上がる。

「え~っ、お兄ちゃん、お昼もうどこかで食べてきちゃったの~!?」

「抜け駆けずる~い!」

「そういう意味じゃない……昼食も菓子も未だ入らず、だ」

「くっすくすくす。それは大変ねぇ。貴方の心にも空腹って書いてあるわぁ。……そうねえ、甘味処が休みなら、私の行き着けの飲み屋があるんだけどぉ?」

「……………」

鎌鼬姉妹を見る。

外見は幼女だが……確か里案内の道中、年齢は僕よりはるか年上と聞いた気がするな。

「僕は17歳なんだが?」

「あらそう。ちょうど私の年齢の80分の1ね。奥山未結音の年齢なら5分の1くらいかしら。で、それがどうしたのぉ?」

「未成年だと言っている」

「くっすくすくす。それが何かぁ? この里には人間界の道理なんて無きに等しい。存分に謳歌してくれて構わないのよぉ? 」

「そうなの! お兄ちゃんも一緒に甘酒飲むの~」

「お肉食べようよ~。牛肉だから心配ないんだよ~」

「……………」

舞切と舞檻に両手をぐいぐいと引かれる。……とりあえず、無言で頷くしか無かった。

相手は妖怪だしな。断れば何をされるか分かったものじゃない。

「嘘ね。本当は押しに弱い自分を嘆いているんでしょお?」

「無許可でひとの心を読解するな」

「仕方ないじゃない。サトリの場合は見えちゃうんだから。目蓋を閉じても眼球は閉じれないのと同じ。見えるものは見えるのよ」

飄々とこちらの言葉をかわし、サトリの女は歩きだした。鎌鼬姉妹も童謡のような古風な歌をはしゃぎ声で口ずさみ後に続く。

直立不動の僕は、ため息を漏らすのみだ。

「結局何しに来たんだ……あの猫は」

僕の具体策無き逃亡構想に笑顔で同意した彼女。別れ際に口にした言葉の手招き。


そして、遠い昔から蘇ってくる、あいつの声。

……いい加減、切り離さなければならないのだろう。くだらないことでいちいち落ち込み、不用なことに精神を揺さぶられる、この心の稚拙な疾患は。

心の声ですら嘘をつく自分を不快に思うその自分を、首を振って霧散させる。


駄目だ、これ以上の思考は雑多で無駄な文章しか生み出さないに違いない。今は頭を放棄しよう。死にさえしなければこの瞬間は……もうどうにでもなれ、だ。

「お兄ちゃん、早く早く~」

「だからお兄ちゃんと呼ぶなと……」

僕は一歩を踏み出す。

「言って、………。る、、」

「……お兄ちゃん?」

鎌鼬が首を傾げ、心配そうな声をかけてくる。

その声が。姿が。

ぐにゃりと歪んで、感じられる。

「お兄ちゃん!? どうしたのっ!? お兄ちゃんっ!! ……読心さぁんっ!!」

地面に倒れ込んだ僕に、妖女は何事かを叫んでいた。

声がするのに姿は見えない。そうか首がそちらを向いていないから。でも首を動かせない体を起こせない指先が自立で地面をトントン。脳髄を不快感が迷走感で転落死の奈落を極刑に処する。目蓋が落ちかけるこれは持ち上げ直そうとするのも多大な労働だ口が何かを吐き出す咳き込む吐き出す咳き込む、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、全身が痙攣で内臓が脈動で

精神が急速に冷え切って苦悶。

そして五感が第六感がかろうじて捉える最後に捉える。それは微々たるもの些末なるクオリアくだらない描写、何を何を僕は口から次々と出しているのか、気絶と昨日の四日間何も食べず今朝質素な飯を喰らったに過ぎないこの僕が何を膨大に吐き出しているのかという、ただその程度の疑問の解答。



三色の、毛。




◆◆◆




『お前には失望したぞ』


『これで勝負は俺の勝ちだね。さあ、馬鹿は消えなよ。……お前のことだよ、逢

磨』


『兄様、逢磨兄さま。ボクを頼って下さい。どうして顔を背けるんですか……ボクはお兄様の……お兄様の弟として――』


『鳥山くん。ふふっ、私は鳥山くんのこと、好きだな』

『私は鳥山くんは、ホントは優しい人だって思ってるんだよ? 君は私のこと、

どう思ってるのかな?』

『鳥山くんは、私のこと、好き? ……もぉ、またそうやって無視する~』



『さようなら。鳥山くん。

二度と合うことも無いだろうね。


           ばいばい』



「………………」

「あらおはよう、鳥山逢磨」

「……、何度目だろうな、この……展開は」

「鎌鼬姉妹に聞いたけど、三度目みたいねぇ。気絶して運ばれて目覚めるのは」

「この世界が小説なら、作者を殴りたい所だな。……粗筋が被りすぎて独創性に欠ける」

「そこは流儀にのっとって『どう誤植を直そうか』って言うところよ」

まあこの世界は現実なんだけどねぇ、と、これもまた近い過去にしたような会話を締めくくって、飛騨野こころは笑う。

またしても、天狗屋敷の客間だった。布団に仰向けに寝て、妖怪一匹が僕の顔を閲覧している光景も同一。

「日常なんて、瑣末な混濁の繰り返しなのよ」

「茶番はもういい。……鎌鼬どもはどこだ?」

「階下で待ってるように頼んでおいたわ。私も茶番はするつもりは無いしねぇ」

すうっと、こころは目を細める。口元には寝そべる三日月の笑み。……ただでさえ気温の低い和室の中の空気が、意志を持って体に食らいつくてくるような、冷却。


「……何が言いたい」

「そんなに警戒しなくてもいいのよぉ? って、前も言ったわねぇこれは。くっすくすくす……まずは貴方が倒れた原因から。あれは猫又の仕業よ」

「未結音の……?」

「あらあら、あの子の名前は即座に覚えるのねぇ。まあそれは置いといて……単刀直入に言うとね」

こころは僕を緊張させない為か、あるいは面白がっているだけなのか、特に口調を変えずに続ける。

「貴方はあの猫に呪われてたの」

「呪い、だと? ……気絶の原因が?」

「ええ。猫又の名の由来は、尻尾が二股に分かれているから……以外にも、もう一つあるの。アレは人間の体を跨ぐことで、その対象に妖術をかけることが出来る」

人を跨ぐ猫。

猫又。

「……あの女は、自分の種族名が伏線になるなどと、ふざけたことを言っていたが、な」

「それは本当にふざけてただけでしょうねぇ。あの子は素直で単純な割に、自由過ぎて難しい子だから。何にも縛られず、色々と世界をかき乱したがるのよ」

「そんな猫の気まぐれごときに、僕は呪われる筋書きを背負ったというのか?」

「ああ、それなら心配ないわよぉ? ちょっと拍子抜けするかも知れないけど、呪いならもう解いたからぁ」

冷たい笑みを何処かに引っ込めて、こころは再び、柔らかな笑いを浮上させる。

……被害者からすれば拍子抜けも何も無いのだが。

「こう見えてお祓いは得意なのよ、私。これはサトリの特性じゃなくて私自身が学んだこと」

「ほう」

「……心の中で言わないで、ちゃんと口に出してくれなきゃあ。お、れ、い」

「アリガトウゴゼエマス」

「どういたしまして」

語尾に音符か星のどちらかが付随するであろう、極めて茶目っ気溢れる調子いい声を出す妖怪。

あやかしとやらはどいつもこいつも、こんな痛い系ばかりなのだろうか……。


「本当に、呪いとやらは消えているのか?」

「疑り深いわねぇ。絶対と言っていいわ。貴方にかけられた呪いはもう今後一切お話には関わってこないから安心しなさい。……もっとも」

こころは正座の体制を崩して身を乗り出し、僕の頭を両手で掴んで天井を向けさせた。

互いに視線がかち合う……逃れられない。

さっきから視線を逸らし続けていたというのに。

「貴方にとっては、呪いにかけられ続けてた方が都合が良かったかも知れないけどね……鳥山逢磨」

「何の……ことだ」

「誤魔化しは通じないわよ。それとも自分でも気付いてないのかしらぁ?」

くっすくすくす、と部屋にこころの笑い声が微かに響く。

動けない。

このまま何らかの抵抗を示さなければ、何か酷く不快なことが起こるような気がするのに……小指すら動かせない。

「貴方の中には今、二つの心がせめぎ合っている。この里を出たいという心と……留まりたいという心」

「何のことだかさっぱりだな。僕は、」

「この里を出たいという結論に狂いはない、と言いたいのかしら? 確かにそれは真実ではあるのでしょうね」

こころは僕の眼球を手を触れずに固定したまま、言葉を紡ぐ。

僕の精神に浸食し、その心理描写を勝手に代筆するような……身の毛もよだつ聴覚の毒だった。

「でも鳥山逢磨、貴方里を出たらどうするつもりなのぉ? 言いにくいのなら私が読んであげる。

……貴方は森に死ににやってきた。自殺の名所とされている広大な森にねぇ。あやかしの里の結界はね、里を隠すこと、通過した人間を眠らせることの他に、もう一つ力があるのよ。それは、死にたがりの魂を呼び寄せる力!

あやかしだって、人間なら手当たり次第に里に拉致して喰っている訳じゃないのよ。いわゆる苦肉の策ということかしら。

……あるいはこの里の事情といったところね。まあそれは今はさておき。

貴方が森に入ってきた時、つまりこの里に近付いていった時。貴方は間違いなく死にたがりだった」

「……っ、それがどうした!」

「里に拉致された貴方はあやかし達の習性に驚いた。人喰いだったり凶暴性を隠し持ってたりねぇ。

故に貴方は里の脱出を決意する。昨日は実際、真剣に貴方なりの脱出を試みたんでしょう。

……人間界へ行きたいのではなく、この里に居たくないという気持ちから」

「何を当たり前のことを。当然の心理だろう」

ああ……僕だって分かってはいた。目を背けていただけだ。

人間の世界を捨てて死のうとしたこの僕が、この妖怪の里を出て何処へ行こうというのか。

僕は普通の人間だ。本来なら人間界以外の世界で生きていけなどしない。

人間界が嫌なら人間もどきの歪な世界へ。

それが嫌なら、乾いた人間の世界へ戻る。自殺を決意してまで捨て去った世界へ……戻る!


「でも鳥山逢磨、随分と貴方はこの里に馴染んできているんじゃないかしらぁ?

 妖怪の存在に抵抗はあっても、確実に染まっているように見えるのよねぇ。

自分に言い訳をして、心理描写をごまかして、脱出を先送りにしているとすら感じられる。

それが分からない。里に居たくない気持ちは真実。里に慣れつつあるのも真実。この矛盾は何かしらぁ?」

「矛盾など……っ」

「くっすくすくす、私はねぇ、もっと単純に考えるの。

妖怪と人間。常識と非常識。そんなものじゃなくて、もっと簡単なところに理由

がある気がするのよぉ。そう考えた瞬間、私はすぐに分かったわ。


あやかし達が、人間と大して差が無かったから。

あやかし達が人ではない存在の癖に、時として人間の匂いを漂わせていたから。

それが貴方の、不愉快なモヤモヤの答えなのよぉ」

あくまで静かに笑みを浮かべて、彼女は僕の中に、刃を入れる。

氷が砕けるかのように、何かが鮮明になっていく。


「貴方は……人間が嫌いなのね」

「……………」

「人間の世界に居たくなくて、貴方はそこから逃げ出した。そしてこの里に着いて、なおも貴方の暗雲は消えなかった。ここにいる妖怪達も、人間と対して変わらないのだと。

でも、貴方はそれ故に、同時にあやかし達に興味を持ったんじゃないかしら。


潤香ツブテの気持ちを知った瞬間から」

「奴は僕に……こ、いをしていると」

「貴方はあやかしの埒外な面を見ると人間の常識に抱きついて震え上がり、人間めいた部分を見ると不快な気持ちになってあやかし面に気を逸らす。

自分を気遣ってくれたりしょんぼり落ち込んだりする妖怪を見てむかつく胸の痛みを感じるのと同じように」

それが、僕という人間。

妖怪どころか、人間とも相容れなかった存在。

人間を嫌い、妖怪を避ける。

しかし片方だけを見せつけられれば、もう片方を思い起こして逃避する。

「潤香ツブテは妖怪。でも人間に割り切れる心だって少しはあるわ。それが恋心だった。

貴方はそれが自分に向けられていると知ってどう思った?

迷惑だと思ったでしょうね。でも嬉しくなかったと言うのなら、それは嘘になるんじゃないかしら」

……思えばツブテの気持ちなど、僕は本人から聞いてはいない。使用人の口から伝えられただけだ。

しかし、奴の想いというのが全く理解出来ないと言ったら、確かに偽りになるのだろう。

恋の経緯や理由は未だ分からない。

それでもあの天狗の少女の僕に対する感情に偽りが無いということだけは……認めてやらないでもない。

「貴方がどうしてそんな心を抱えるようになったのか深読みはしないし、その意識を捨て去るようにも言わないわ。……でもこれだけは覚えておいて。どんなに冷たい雨が降ろうと、たった一つの温もりの言葉が人を世に留めるの」

頬の手が離れる。そして彼女の姿も。

こころは障子を開け、後は何一つ口にせず振り返ることもなく、部屋を出ていった。


「……意味の分からん奴だ」

溜め息の数を回想しようとするのは、ただの現実逃避だろうか。

ふらりと現れて、ひとの心を鏡に映して見せつけて、またふらりと去った女。

「どうすればいいと、いうんだ」

相反する自分の気持ちを知った今……僕は何を望む?

妖怪に人間を見て、人間的心理に妖怪を望む。

僕はあいつらをどう見ればいい?

人の姿を持つ化け物か、人の心を持つ異形か。

一体何がしたいんだ……鳥山逢磨は………。




◆◆◆




「今日はちょ~っぴりはっちゃけ過ぎちゃったかにゃ~……。にゃはは、みぃはハイブロウエキセントリックスターにゃんだから、他のキャラを食わないように注意しなきゃダメだね……と、みゃあそれは置いといて」

あやかしの里は眠らない集落である。この世の常識からずれたモノ達の領域であるのならそれも当然で、睡眠を必要としない生態に属する有象無象の魑魅魍魎は、日が落ちようとも依然として闇夜を賑やかに優々と跋扈しているのだった。

少数派の眠りをとるタイプの異形も居るが、そういった種類のモノは皆別の地区に固まって居住している為問題はない。

その睡眠系のあやかしの地区にて、奥山未結音は静寂の大気を切り裂きつつ、盗賊のように瓦屋根を飛び移っていた。


「さてさて、今夜は何処で寝ようかにゃ~。お寺の天井裏は昨日行ったし……ペレりんの所は追い返されたし……ゴミ捨て場はツクモーズがうるさいし……でもそこらの屋根で寝るのもつまんないし……」

微塵も眠くなさそうに軽快に走りながら、猫又は一人ぶつぶつと鳴く。

……が、背中にふと言いようの無い寒気を感じた瞬間、彼女の足と口は氷結した。

髪の毛が逆立つような怖気が、さわさわと遠くから近付いてくる。

勢いからして、恐らく全速力で走っても逃げられないだろう。そう観念しての停止だった。

「にゃふふ……やばいにゃ~……。もうお仕置きに来たんですかい」

ほどなくして、気配は彼女の真後ろでぴたりと固定される。

あとは後ろの正面を向きさえすれば、恐怖を味わうことが出来るだろう。

未結音は固まったまま呟く。

「……べとべとさん、先にお越し」

「……………」

絶無の沈黙。

「……チンチンチンと鳴く鳥よ、はよ吹きたまえ、伊勢の神風」

「……………」

「ポマードポマードポマード」

「何を言っているんですか?」

ようやく、背後のソレは答えた。

匂いで既に分かっていたが、やはりそうだと確認するのはこの上なく気分が悪い。

悪戯がバレた子供のように萎縮した表情で、猫は後ろを見る。

「こんばんにゃ~……うるかりん」

潤香ツブテが、そこに立っていた。

ただただ無表情で、無機質なまでの瞳を向けて。

「……日曜の夜いかがお過ごし? ミケ姉さんよ~……」

「すみませんが、貴女の戯れ言に付き合っている暇は無いのです」

天狗の少女は落ち着いた物腰と優雅な足取りで、ゆっくりと未結音に歩み寄る。

だからこそ未結音の笑顔は引きつった。はっきりとその額には青筋が浮いているというのに。

「何故私が怒っているのか分かりますか……未結音さん」

「に、にゃはは、うるかりん落ち着こ? そんなに眉間に山脈並みの皺作ったら、オーミンにも嫌われちゃうと思うん、だけどな」

口にしてから、心の中で舌打ちをする。

……どうしてみぃは、こうも素で地雷を踏みに行っちゃうのかにゃ……。

案の定、ツブテの目つきは益々壮絶なものへと変貌を遂げた。今の彼女なら、目を合わせただけで鬼も裸足で逃げそうだった……。


「逢磨くんを拉致して里を連れまわした上……よくも呪いなどかけてくれましたね。随分と愚かしい真似をしてくれるじゃないですか」

「にゃ、はは。あ、あれは確かに後でマズったにゃと思ったよ!? でもその、呪いに関してはうっかりの偶然で……みぃの意識に関わらず呪いはかかっちゃうんだもん!」

「ふうん……そうですか。確かに貴方の呪いは自動的に発動するようですが、しかし逢磨くんを跨いだのが単なる偶然……?」ツブテの凄まじい形相の無表情は、未結音が一つ言葉を紡ぐたびに研ぎ澄まされていくようだった。

……とても言える雰囲気ではない。呪いがかかったのは本当に未結音のミスで、相手が妖術に耐性の無い人間であることを失念した為のもの。

しかし……それに後で気付きながら、逢磨が呪いにかかり、それがツブテに露見し彼女の怒りを招くという結末に対して『それもそれで面白そうだ』と対策を取らなかったのだ、などとは。


「ご、誤解だって! みぃはカマちゃん達と同じように里の案内を個人レクチャーしようとしてですね……わわ、分かったよ、呪いについては謝るからさぁ、」

「……貴方に悪意があったのか無いのかは関係ありません。大事なのは逢磨くんを苦しめたという貴方の生んだ結果のみです……それに」

半笑いで弁解を捻出する未結音に、ツブテはあまりにも機械的な口調で言い放った。



「逢磨くんと二人っきりで里を歩いた時点で、貴女はもはや私にとって大罪者なのですよ」

「……………」

猫又は押し黙る。そうだった、と絶望が胸に満ちる。

彼女にとって、自分の思い通りにいかない存在は――すべて削除対象なのだ。

潤香ツブテの性格。それは『天狗』。

すなわち……傲慢にして尊大なる妖怪種族ということ。

彼女も、その性質を固有の性格として受け継いでいるのだ。

自分のお気に入りの()()()()()()を無断で他者に装着されて、不愉快に思わない女性が何処に居るというのか。

自らが想いを寄せる異性に別の同性が近づくことを、ツブテは異常なまでに嫌っていた。

そんな『悪い虫』が現れようものなら……怨念を持って制裁を与えようというまでに。


「ここでは少々、近隣のあやかしの方々の迷惑になるでしょう。……ご同行願いましょうか、未結音さん」

「にゃはは~……、や、やさしくしてね?」

猫又はこの期に及んでも、おどけた声と表情を隠さなかった。

……それが気に障ったのだろう。


ツブテの両眼が、光る。


未結音の体が浮き上がり、意志に関係なく、否、ツブテの意志で……飛び上がる。

ツブテは何一つ動いてはいない。

未結音の体に、ツブテの腕は回されていない。

ただ見つめるだけで、天狗は猫を弾き飛ばし、地面に叩きつけた。


「ぎゃふんっ!」


お喋りな妖怪少女は悲鳴の下に、一撃で意識を失う。

目蓋が落ちる寸前……張り付かんばかりにこちらに伸ばされた少女の片手が、ひたすら恐ろしかった。



そして、まだ、終わらない。

世界は回り、全てを刻む。

全身が軋む音と共に、再び目を覚まし頭を上げたその時には……。


「お目覚めですか?」

「……………みゅ」

冷気溢れるツブテの表情。

先ほどと変わった所といえば、風を感じなくなったことと、腕と脚が奇妙に引き締まっていることくらいか。


「あう……にゃはは、うるかりんもSの気あるじゃん」

「……貴方がそうさせているのでしょうが」

暗闇の居座る、広々とした室内。

壁も床も艶やかな木で構成され、窓には格子。

少なくとも、猫少女がいつも遊びに行く使用人達の畳敷きの部屋とは違う。

家具や調度品の一切が存在せず部屋というより単なる建物の内部と表現した方がよほどふさわしい。

「道場か何か……でしょうかにゃ?」

「私の屋敷の離れの部屋です」

「で……みぃは何故にこんなザマになっちゃってるのでせうか」

「それがまだ理解出来ていないのなら、貴方の頭は尊敬に値しますね」


皮肉を放つツブテのその姿は……猫の目線の下に。

未結音の体は操り人形のごとく幾つもの鎖で縛られ、梁から吊り下げられていた。縛られた足を動かそうとも決して床につくことはない。束縛を行った本人の頭はその足のはるか下にある。


翼を持った天狗の少女は……闇よりも濃い漆黒を撒き散らしつつ、目線を平行に合わせた。


「み、みぃをどうするつもりかにゃ~……貞操は勘弁でよろしゅうおねおね」

「……、私も鬼ではありません。貴方はうちの使用人と親しい仲ですからね。これから提示する要求を呑んでいただければ解放してさしあげますよ」

「な、何かにゃ?」

「もう二度と……逢磨くんに近寄らないで下さい。いやらしい真似をしないで下さい。妖術をかけるなど論外です。それさえ守っていただければ、貴方は前と変わらない日常を送れますよ」

譲歩という名の強制。

ツブテの羽ばたく音が、空間に染み渡る。


彼女のアクセサリーを奪い、壊した。

しかしそれは、修復することが出来た。

もう二度と彼女の大切な飾りを奪わなければ、これまで通りの付き合いが出来る。

これ以上ないほどに単純な理屈。

異常ないほどに明解な提案。

それを聞いて……猫はこう思った。


………………、にゃはは。

面白いにゃ~。

うるかりん、ヤキモチ焼いちゃって。

可ぁ愛いぃ。


まだ……終わらない。

猫の酩酊は終わらない。

尋常でなく歪みきったツブテの眼光を向けられ恐怖し、気絶させられて室内に隔離され、拘束によって逃れられず恐らく悲鳴も無駄な状況に置かれた……その上で未結音は笑っているのだ。

それは神経に余裕があるからでも、軽率な行動を認めて観念したからでもない。

ましてやこの場を切り抜ける秘策があるからでも、断じてない。

ツブテが思っている以上に、彼女には当事者意識が欠如していたという、それだけのこと。

どんな状況に置かれようとも、それに現実味を見いだせない。何事にも真剣になれず、本気で打ち込む気になれない。

だから常に退屈で、遊戯を求める。刺激を嗅ぎまわる。

そんなことを繰り返している内に……やがて世界の全てが自分の退屈しのぎの為の虚構に思えるようになった。

それが奥山未結音という少女だった。


不幸でも全然平気なんだよ。

だってコレ、まるで現実な気がしないんだもん。

ぜ~んぶ単なるゲームじゃない? みぃが暇つぶしの為に閲覧するだけの世界。

飽きたらさっさと別のを得よう。クリアなんてする必要ない。最後までみぃを楽しませてくれないエンターテイメントになんて興味ないんだから。

……あぁ、でも今この瞬間は楽しいかなあ。

うるかりんはみぃの回答を待っている! そしてみぃの決断はっ!


「……前と変わらない日常、か」

僅かな沈黙の後、未結音はふっ、と微笑んで呟く。

頭の中に現れた選択肢の中から、面白そうな展開を呼び起こすだろうモノを狙って。

「うるかりんがオーミンをみぃに渡したくないように、みぃのたぁいせつな日常セイカツだって……誰にも渡さないよ?」

「………は?」

「うるかりんがみぃをこうやって束縛するのは構わないよ? しかるべきイベントだもんねぇ? でもさ、みぃ視点のストーリーまで縛る権利はないっていうかさ……ねぇ?」

「……意味が分かりません。何がいいたいんです?」

ツブテは無味乾燥な顔の書かれた頭を傾ける。努めて丁寧にとっていた態度も限界に近づいていた……。

そして、目の前の不謹慎な猫は--天狗の我慢を、打ち砕く。

「にゃはは。なんちゃってね。何だかみぃもなゃに言ってんのか分からなくなってきちゃったよ。


もういいや。この状況飽きた。


うるかりん、そろそろみぃを開放してよ? リセットボタンでも押さね?

いっそこの一連の展開をさ、なかったことにすりゃいいのよ。

そうすりゃぜぇんぶ元通り。今夜みぃはうるかりんに会わなかったし、うるかりんもみぃに会わなかった。

にゃっははははあはははははは! 最ぁぃ高じゃね? 名ぇぃ案でげしょう!? にゃははにゃはは!」


未結音はプライドも節操も持たない。故に、謝罪なんてしたくないという意志も存在しない。

ただ……彼女はこの『物語』に、飽きただけなのである。

読み飽きた本を、未結音は本棚にはしまわない。

破る。水に落とす。落書きをする。

それもまた、暇つぶしにはちょうどいいから。


「……やれやれ」

ツブテはため息混じりに首を振る。

「やはり貴方には、言葉は通じても会話は通じないようですね。……いいでしょう。もう諦めます」

「にゃはは、みぃはこういう奴なんだよん。だいたい分かってたでしょ?」

「分かっていましたよ。しかし……結末が分かっている物語でも朗読しなければならない時はあるものです」

「タフだにゃ~うるかりんは。みぃは面白くないお話なんて最後まで知りたいとは思わないよ」

「それは私も同感ですよ」

吊された猫の前で静かに羽ばたいたまま、ツブテはどこからか、一枚の団扇を取り出した。椛の葉を模した形の、風変わりな団扇だった。

はたはたと仰ぎながら、ツブテは目を閉じる。

「……退屈しのぎの読書に飽きたなら、別の方法で暇を潰せばいいんです」

「だよね。みぃもそうしてるよ」

「ええ……ですから、私もそうさせていただきます」

そして天狗は目を開けた。


殺気を……開放した。


「へ………? ッッ!?」

未結音は突然、体を仰け反らせる。

一瞬の強風と共に、何かがはぜる感覚。頬に吹き付ける細やかで温かな液体。そして、苦痛。

「貴方を言葉で説得するのを……諦めます。貴方は少し、体で学んだ方がいいでしょうからね。どうせ互いにあやかし同士。体の傷など、すぐに癒えるでしょうけど」

極寒の表情で、ツブテは団扇を振り下ろす。

生まれるのは、一陣の風。それに殺気を練り込んで……空気の刃。


「うるかり……ぐうっ!」

更に団扇を振る。縦に……斜めに。

刀を振るように、遠距離で猫を切りつける。

透明な凶器がかすめる度、未結音の服に鋭利な傷がつき、その下の皮膚が薄く裂ける。そして少し遅れ、霧吹きのようにはじける鮮血。

何度も風の斬撃を与える。

痛みを苦しみを後悔を絶望を。

幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも、幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも、幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも……小さな痛みを重ね合わせて、大きな苦痛へ。

一秒間に果たして何百、その体に切り傷をつけているのか、もはや人外にも分からない。


「……さて未結音さん。『ごめんなさい天狗さま。もう逢磨くんをその眼に入れることはしません』と……言う気になりました?」

「はあっ……はあっ……ぎ、に、にゃはは、気持ちいいようるかりん……みぃは、生きてるん、だね……うぐ……」

「…………。気持ちいいですかそうですか」

一秒の傷が、幾千幾万へと変わった。

一つ一つは包丁で指先を切るような軽いもの。

しかし既に猫の全身は……。

「ぎいいぃいいっ!! あっあっあっ……ガハッ! ちょっ、もっもうイっ………痛い……イタイ!!」

「どうか悲鳴を上げないで下さい……謝罪が聞けないじゃないですか……謝って下さい謝って下さい謝って下さい謝って下さい私の逢磨くん苦しめた罪を謝って下さいそして私を開放して下さいもっともっともっともっともっともっともっと……もっと。 傷つけられたいのですか……?」

「ひぎいぃいあぁあアァア!! あっがっ、わっ……分かった! 分かったから! あっ謝るよ! ごめん………ぎゃんっ! ごめんなさいっ!! もうヤバいって、ギブだって…………っ! こ、これ以上体斬られたらマジで………し、死んじゃうよぉおお……」

ふと気がつくと、ツブテは未結音を激しすぎる風で斬り続けていたことを知る。

手が止まり、夜の静寂が再び二人を飲み込む。


恐らく未結音と思われる肉の塊は、カタカタと震えながらか細い声で、痛みを訴え続けていた。

薄皮に傷をつけるだけのつもりだったのに、いつの間にか肉をいくらか……ごっそりと削いでいたらしい。全身が赤い液体で滑り潰され、粘りつくソレは足先から床にポタポタと、いやビチャビチャと重力に誘われている。


「……最初からそう言えばいいのです」

ツブテとて、拷問で悦に入るような性癖は持ち合わせてはいない。……心を占めるのは不快感だけだった。

それが未結音の謝罪で少しだけ晴れたことにより、彼女は憂鬱ながら安堵の息をつく。

「貴方を、解放します」

天狗の目が光輝くと同時に、猫を縛っていた鎖達がひとりでに、ひとつ残らず爆散した。未結音の体はそのまま床へと墜落する。


「げふっ! く……ふ………、はぁはぁ……いててて………」

よろめきながら、血濡れの猫は赤い海の中心に立つ。

あやかしの肉体や精神は、人間よりも死ににくく出来ている。大量出血や体の損壊が起きようとも命には別状なく、また意識を失うことも無いのである。

真紅の水面に舞い降りた黒い羽の主は、自分のしたこととはいえ、彼女の痛々しい様子とあやかしのどうしようもない頑丈さに、眉をひそめるのだった。

何しろこんな傷でも、舐めていれば治るというのだから。


「死ぬなんて、大袈裟ですよ」

「にゃ……ひ、ひ。勘弁してよ……。痛いものは痛いんだからさ……。死なない怪我が些末だったら、誰も爪剥がしなんて恐れないって………」

「……これに懲りたら、もう二度と逢磨くんを視界に補足しないことです。先ほども言いましたが、貴方は舞檻達と親しい。だからこの程度で許してあげているんです。もし次に、今日と同じように貴方が呪いを逢磨くんにもたらすことがあったなら……」

「………、あったにゃら?」

「逢磨くんを見たその目を抉り一一逢磨くんを跨いだその脚を切断します。私に出来ないと思いますか?」

「いえ、じぇんじぇん思いましぇんけど……」

流れる血に脂汗を混じらせる未結音。

「では、話はこれで終わりですね。お手数をおかけしますが、帰りは貴女一人でお願いします。……貴女の巣穴の場所なんて知りませんから」

「……だね。みゃあ、みぃの家なんて毎回ランダムで日替わりに選んでるんだけどさ。みぃは……元々この里の住民じゃないし」

よろめく足取りで、鮮烈な液体の上を歩く。自分の出した物であろうと、鼻をつく邪悪な匂いにこれ以上耐えられそうにはない。獲物からはじけ飛ぶソレとは訳が違うのだ……。


「未結音さん」

猫と天狗のすれ違いに響く、切なる声。


「貴女は学習能力に致命的な欠陥があるようですから……もう一度言っておきます。二度と、逢磨くんに近づかないで下さい。分かりましたね」

「………………」

未結音は振り返る。

冷たい仮面を付けた、恋する少女がそこに居る。

たとえその内面がどんなに荒み、歪んでいたとしても、ありありと感じられる何処かの異性への想いは、太陽風のごとくその身を焦がしているのである。

抽象的な精神の波動を感知出来るあやかしという種族だけに、未結音は背筋に軽い痺れを覚えた。

宝物を優しく包み込みながら近付く者全てを焼き殺すような……独占欲の熱気に。


「どうしましたか? 奥山未結音さん」

重ねて尋ねるツブテ。

既に痛みは麻痺し……脚にも力が戻ってきた猫又は、にやりと笑う。

振り出しと同じ、狂気の笑み。


「……それはどうかにゃ~」

「何か言いましたか?」

ぎろりと眼球が動くよりも早く、手負いの獣は神速の勢いで走り去っていった。

一瞬で部屋の引き戸の開閉を行い、乱暴な閉鎖音を残して消え失せる。

後には血溜まりに立つ天狗だけが残された。


「……四肢を切り落とせばよかったかしら。どうせ死なないのなら」



未結音は闇雲に木の廊下を走る。

自分をここに連れてきた時に付いたのだろう、床に僅かに感じるツブテの匂いを辿っていけば出口に着くことは容易だったが、どうせなら脱出ついでに探検をしてみたかったのだ。

何故なら……どこからか別の新しい匂いが漂ってきていたから。

自分にまとわりついた液体のそれに通じる匂いを。


「いやあ………すげぇ拷問してくれたもんだようるかりんは。みぃもうちょっと

で『らめえ』とか叫んじゃうところだったよ。流石にビビったね」

全身の皮膚と肉の削げ跡を見て酔狂な猫はくすりと笑い、腕にに舌を這わせた。

それだけで、傷は粘着質な音を立てて急速に塞がり始める。肉が貼り合わされ、皮がひとりでにくっ付いて回復する。

舌が届かない部分の傷も、唾液を擦り込んだ側から見る見るうちに、跡形もなく消滅した。それこそツブテ言った通り、最初から無かったことと……なったかのように。

「この部屋だ。……ん、鍵がかかってるみたいだにゃ~……。でも格子窓がありますな……どれどれ」

異質な匂いの終着点にたどり着いた未結音は、扉越しに部屋の内部を覗き込み………そこにあるモノを理解する。

「……………。へえ。みぃに比べりゃずっとマシじゃああるけど、こいつもこいつで酷い有り様だにゃあ……。居なかったと思ったら、一体何やらかしたんだろうねぇ、カマちゃん末っ子たんは」

まだ舐めとっていない傷が疼いたような気がして、未結音は身震いする。

同時に、今し方のツブテの表情や、かけられた言葉が蘇る。

「そういやあうるかりん……呪いのことしかみぃに注意してにゃかったような。みぃがオーミンに抱きついちゃったことは知らなかったのかにゃ。こころん辺りはカマちゃんよりも前からアレを覗いてたみたいだったけど……」

きっと致命的な部分は内緒にしてくれたんだね、こころんグッジョブと内心で親指を立てる猫又。当然その直後、もしその行為までツブテにバレていたらどうなっていたのかを想像して益々震え上がったが。


「……駄目だようるかりん。そう簡単にみぃはオーミンを諦めたりなんか出来ないよ。せっかく見つけた……可愛くて美味しそうなオモチャ、なんだから」

もうこれ以上留まることにも飽き、禁じられた扉の前から立ち去って、嗅覚を頼りに出口を目指す。

途中、窓から見える夜空に目が止まった。

星々の秀麗さを目の当たりにしたのではない。……異変を視界に捉えたからだった。

それは僅かな瞬間だけ、はっきりと浮かび上がったもの。

空にチラつくモノクロの砂嵐。緑色の点滅。空中のひび割れ模様。


「限界は、ヒタヒタと来てるみたいだね……主さんが死んだあの日から、さ」

不可思議な現象に、妖怪少女は笑うだけ。

口にした言葉と見た光景はすぐに忘れ、別のことを考える。


そろそろ本格的に眠い。

今夜はどこに、寝そべろう。




・鼬の導きと猫の手招き 終わり

妖怪といえば、日本古来の浮世絵師や語り部の方々が伝承として語り継ぎ、今日ではエンターテインメントの一ジャンルにもなっている概念です。

漫画やライトノベル(ティーンエイジャー向けの小説)でも見る機会の多い存在でしょう。

妖怪と人間の交遊・恋愛などをテーマにした作品は快挙に暇がありません。


しかし、人間と妖怪の関わりというテーマに『種族の違い』というものが取りざたされている割には、妙に妖怪達に『人間臭さ』が付加されている、と思ったことは無いでしょうか?

当然、人間を模した思考回路が無ければ、人間の登場人物は妖怪のキャラクターを理解できず、物語は先に進みませんし、読者もキャラクターに感情移入できないという事情はあるのでしょう。

しかし種族が異なる割に『妖怪は精神面は人間に似ている』、もっと言うなら、妖怪モノの作品に登場する妖怪キャラは『人間の心を持っていることを前提にしている』という事実に、違和感を感じたことは無いでしょうか……?

擬人化されている事が多い、最近のサブカルチャー作品における『妖怪というキャラクター』。人間でない存在なのに、人間にそっくりに描写されている既存の物語の存在。



そんな、妖怪をキャラクターとして見た時に『エンタメ作品の妖怪は何で人間をベースにして描かれているんだろう? 人間じゃない種族なのに』という疑問を形にしてみたものが、この小説です。


主人公の逢磨は人間。なのであやかしという『化け物』には人間として抵抗を示し、恐怖を抱きます。しかし同時に、あやかしには『人間のような感情表現が存在する』ということを知り、人間嫌いの彼は不快感を得るのです。


まあ簡潔に言えば、『もしも人間でない生物が人間と同じ知恵を持ち、人間を模した言動を行ったら。果たして人間はどう思うのか』という話なのですが。

いつも食べている魚。豚。牛。鳥などがそんな事になったとしたら……? そんな『ありえない架空の話』を想像してみるのも面白いかも知れません。何かそこから物語のアイデアが浮かぶかもですから。


次回の予定は……ちょっとマイナーな名前の妖怪が登場致します。勿論(?)女の子で;

前回・今回と、妖怪少女に翻弄されるばかりだった逢磨にも、精神面で大きな変化が訪れる展開となっております。


後書きまで目を通して頂いてありがとうございます。

それでは、失礼致しました。

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