病弱な幼馴染みが死ぬ前に私の婚約者と結婚したいそうなので、どうぞお好きに ~余命半年の恋を叶えた結果、愛を失ったのはあなたたちでした~
1.半年だけの結婚
「エレノア。君との結婚を、半年だけ延期してほしい」
婚約者のアルフレッドが、神妙な顔でそう告げた。
私は紅茶のカップを置いた。
「理由を伺っても?」
「セシリアのことだ。医師から、余命半年と宣告された」
セシリア・ベルモント。
アルフレッドの幼馴染みで、幼い頃から病弱な伯爵令嬢である。
季節の変わり目には熱を出し、少し歩けば息を切らし、社交界にも滅多に顔を出さない。
私も何度か見舞いに行ったことがある。
青白い顔に細い手首。彼女が本当に病気であることは疑いようがなかった。
「それは……お気の毒なことです」
「それで、彼女から頼まれたんだ」
アルフレッドは私の目をまっすぐ見た。
「死ぬ前に、一度だけ僕の妻になりたいと」
私は、しばらく言葉が出なかった。
「……それは、どういう意味でしょう?」
「そのままの意味だよ。セシリアは昔から僕を愛していたらしい。最後の願いとして、僕と結婚したいと言っているんだ」
「あなたは、どうお答えになったのですか?」
「もちろん、叶えてやりたいと」
当然のことのように言われ、私は思わず婚約者の顔を見つめた。
アルフレッド・ベルクハイム。
二十六歳。ベルクハイム伯爵家の嫡男。
金髪に青い瞳の美しい青年で、社交界では心優しい紳士として知られている。
私たちは三年前に婚約した。
来春には結婚式を挙げる予定だった。
「つまり、私との婚約を延期して、セシリア様と結婚なさると?」
「ああ。半年だけだ」
「半年?」
「彼女が亡くなったら、必ず君を迎えに行く。もちろん、君への愛情がなくなったわけじゃない」
私は、彼の顔をじっと見た。
どうやら本気らしい。
「アルフレッド様。ひとつ、確認させてください」
「なんだい?」
「もしセシリア様が、半年後もご存命でしたら?」
彼は眉をひそめた。
「そんなことを言わないでくれ。医師が半年だと宣告したんだぞ」
「ですが、余命宣告が外れることもあるでしょう。一年、二年とお元気でいらしたら、どうなさるのですか?」
「それは……そのとき考える」
「では、その間、私は何をしていればよろしいのでしょう?」
「待っていてほしい」
「妻帯者のあなたを?」
「だから、半年だけだと言っているだろう!」
アルフレッドは苛立ったように声を荒らげた。
「セシリアはもう長くないんだ。君は健康で、若くて、これからいくらでも幸せになれる。少しくらい譲ってくれてもいいじゃないか!」
私は目を伏せた。
そう。
いつも、そうだった。
セシリアは病弱だから。
セシリアは可哀想だから。
セシリアには時間がないから。
私の誕生日に彼女が熱を出せば、アルフレッドは見舞いに行った。
私との観劇中に彼女から手紙が届けば、途中で席を立った。
私の父が倒れたときでさえ、彼はセシリアの茶会を優先した。
そのたびに私は、仕方がないのだと自分に言い聞かせた。
けれど、結婚まで譲れと言われるとは思わなかった。
「……わかりました」
「エレノア!」
アルフレッドの顔が輝いた。
「ありがとう! 君なら理解してくれると思っていた!」
「ええ。どうぞ、セシリア様と結婚なさってください」
私は微笑んだ。
「ただし、私との婚約は正式に解消していただきます」
彼の笑顔が凍りついた。
「……は?」
「半年間の延期ではございません。婚約解消です」
「待ってくれ! それでは話が違う!」
「どう違うのでしょう?」
「僕は、半年後には君と結婚するつもりなんだ!」
「私には、そのつもりがございません」
私は立ち上がった。
「結婚は、相手が亡くなることを前提に交わす約束ではないと思いますので」
「エレノア!」
「それに、アルフレッド様」
私は最後に、ひとつだけ尋ねた。
「あなたは、セシリア様が長生きなさることを願っているのですよね?」
「あ、当たり前だろう!」
「でしたら、どうぞ末永くお幸せに」
私は彼に背を向けた。
三年間愛した男性との別れは、思っていたよりもあっけなかった。
ただ、廊下に出てから、少しだけ泣いた。
悲しかったからではない。
いや、悲しかったのだろう。
三年間、私が大切にしてきたものは、彼にとって半年間の約束にも劣るものだったのだから。
2.死ぬ前のお願い
婚約解消の話を聞いた父は、激怒した。
「何を考えているんだ、あの馬鹿息子は!」
温厚な父が机を叩くのを、私は初めて見た。
「半年だけ別の女と結婚するだと!? 半年後にその女が生きていたらどうするつもりだ!」
「そのとき考えるそうです」
「何も考えていないではないか!」
そのとおりだった。
父は直ちにベルクハイム伯爵家へ使者を送り、正式な婚約解消を申し入れた。
先方の伯爵夫妻は、当初ひどく困惑したらしい。
特にアルフレッドの父親は、息子の申し出を聞いていなかったという。
しかし、アルフレッド本人がセシリアとの結婚を強く望んだため、最終的に婚約解消が成立した。
その三日後。
セシリアが私の屋敷を訪ねてきた。
「エレノア様……」
侍女に支えられて応接室に入ってきた彼女は、私を見るなり涙ぐんだ。
薄桃色のドレスに、細い首。
今にも折れてしまいそうな姿だった。
「お身体は大丈夫なのですか?」
「今日は、少し調子がよくて……」
彼女は椅子に腰を下ろすと、私の手を握った。
「アルフレッド様から、お話を伺いました」
「そうですか」
「私のせいで、お二人の婚約が……本当に申し訳ありません」
ぽろり、と涙が落ちた。
「私、ただ……死ぬ前に一度だけ、花嫁になりたかったんです」
「ええ」
「小さい頃から、アルフレッド様のお嫁さんになるのが夢でした。でも、エレノア様がいらっしゃるから諦めていたんです」
彼女は顔を伏せた。
「けれど、もう半年しか生きられないと言われて……最後くらい、わがままを叶えてもらいたくて」
私は黙って聞いていた。
「お願いです。アルフレッド様を嫌わないでください。あの方は優しいだけなんです」
「存じております」
「私が亡くなったら、またお二人で幸せになってくださいね」
私は彼女を見つめた。
「セシリア様」
「はい?」
「あなたは、アルフレッド様と結婚したいのですよね?」
「……はい」
「でしたら、どうぞお幸せに」
彼女はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます!」
「ただ、ひとつだけ」
私は握られていた手を、そっと外した。
「結婚は、一日だけ花嫁衣装を着る行事ではございません」
「え……?」
「病めるときも、健やかなるときも。夫婦として助け合い、生活を共にするお約束です」
セシリアの笑顔が、わずかに固まった。
「それは、もちろん……」
「アルフレッド様は、いずれベルクハイム領を継がれます。領地には財政上の問題もございますから、奥様になられるなら、お二人で支え合ってくださいませ」
「……財政上の問題?」
「ご存じありませんでした?」
彼女は黙った。
どうやら、知らなかったらしい。
「ご安心ください。きっとアルフレッド様がご説明くださいますわ」
私は微笑んだ。
「どうか、一日でも長くお元気で」
セシリアは、なぜか複雑な顔をして帰っていった。
その日の夕方、アルフレッドから抗議の手紙が届いた。
『セシリアを不安にさせるようなことを言わないでくれ! 彼女は病人なんだぞ!』
私は返事を書いた。
『ご結婚後の生活についてご説明しただけです。何か間違っておりましたでしょうか?』
返事は来なかった。
3.花嫁が持ってくるはずだったもの
ベルクハイム伯爵家は、古い名門である。
広大な領地と立派な城館を所有していたが、内情は火の車だった。
先代伯爵が始めた鉱山事業の失敗。
三年前の大水害。
老朽化した水路。
そして、収穫量の減少。
領地の再建には、多額の資金が必要だった。
私は婚約してからの三年間、父の商会を通じて領地再建の準備を進めていた。
新しい水路を引くための投資。
荒れた農地の改良。
織物工房の再建。
それらを支えるのは、私の持参金と実家の信用だった。
さらに結婚後には、アルフレッドを父の交易会社の役員として迎える予定もあった。
伯爵家の嫡男という立場を生かしながら、安定した収入を得られるように。
すべて、彼と暮らす未来のためだった。
「……お嬢様、本当によろしいのですか?」
侍女のマリーが、書類の束を見つめながら尋ねた。
「何が?」
「ベルクハイム領への投資です。これを取りやめれば、あちらは相当に困るはずです」
「そうでしょうね」
私は書類に署名した。
投資計画の白紙撤回。
交易会社の役員就任の取り消し。
新居の改装契約の解除。
そして、婚約期間中に実家が立て替えていた費用の清算。
「ですが、私たちはもう他人よ」
「それは、もちろん……」
「他人の領地を、私の持参金で立て直す理由はないでしょう?」
父は商人だった。
親しい相手であっても、契約は慎重に進める人である。
そのため、ほとんどの投資は結婚成立を条件としていた。
婚約が解消された以上、実行する理由はない。
ただし、一部の先行支出については返済を求めることになった。
もちろん、正式な借用書がある。
そこにはアルフレッド本人の署名もあった。
「アルフレッド様は、このことをご存じなのでしょうか?」
「説明はしたわ」
「理解なさっていたのでしょうか?」
「それは、私にもわからないわね」
翌週。
ベルクハイム伯爵家から、父宛てに使者が来た。
投資計画の撤回について、再考を求める書面だった。
父は一枚の返書を渡した。
『婚姻関係を前提とした支援につき、婚約解消により予定どおり終了いたします』
それだけだった。
さらに一か月後。
アルフレッドとセシリアは結婚した。
王都の大聖堂で、盛大な式を挙げたという。
純白のドレスをまとったセシリアは、天使のように美しかったらしい。
社交界では、二人の結婚が話題になった。
余命わずかな幼馴染みの願いを叶えた、心優しい青年。
誰もが涙する、美しい愛の物語。
私のもとにも、何通か手紙が届いた。
『あなたも、お二人を祝福なさるべきですわ』
『病弱な方に嫉妬するなんて、見苦しいこと』
『半年後には元の鞘に収まるのでしょう? もう少し寛大になられては?』
私は一通ずつ、丁寧に返事を書いた。
『お二人の末永い幸せを、心よりお祈りしております』
嘘ではない。
本当に、長生きしてほしかった。
できれば二人そろって。
何十年でも。
4.半年後の奇跡
結婚から半年が過ぎた。
セシリアは死ななかった。
それどころか、少しずつ体調がよくなっているという。
以前は寝台から起き上がれない日も多かった彼女が、庭を散歩できるようになった。
食欲も戻り、頬には血色が差した。
主治医も驚くほどの回復だったらしい。
「奇跡ですわね」
私はその知らせを聞いて、素直に喜んだ。
人が死なずに済んだのだ。
喜ばしいに決まっている。
しかし、当のアルフレッドは困惑しているらしかった。
ある日の午後、彼から手紙が届いた。
『エレノア。セシリアの病状が回復している。医師も予想外だと言っている。君にこの喜びを伝えたかった』
私は返事を書いた。
『それは何よりです。どうか奥様をお大切に』
三日後、また手紙が来た。
『君は、僕に会いたいと思わないのか?』
私は少し考えてから返した。
『特にございません』
その後、しばらく手紙は途絶えた。
代わりに、奇妙な噂が耳に入るようになった。
ベルクハイム伯爵家が、金策に走り回っているという。
セシリアの治療には高額な費用がかかっていた。
結婚式も盛大だった。
さらに、領地の水路工事が中断したことで、農作物の収穫が大きく落ち込んでいた。
伯爵家の財政は、想像以上に悪化していたらしい。
「お嬢様」
マリーが困った顔で報告してきた。
「ベルクハイム家の執事が、旦那様に面会を求めているそうです」
「何のご用件かしら?」
「以前のお約束どおり、領地への投資を再開していただきたい、と」
「以前のお約束?」
「はい。結婚が成立しなくても、援助が続くと思っていらしたようで……」
私は思わず笑ってしまった。
「それは無理な相談ね」
父も同意見だった。
「投資に値する計画があれば、商売として検討する。だが、身内としての無担保支援は終わった」
当然である。
ただ、私は少しだけ気になった。
「お父様。ベルクハイム領の農民たちは、どうなりますか?」
父は私を見た。
「心配か?」
「ええ。領主の判断で、領民まで飢えるのは気の毒です」
「ならば、別の方法を考えよう」
父は地図を広げた。
ベルクハイム領の南には、隣国へ続く街道がある。
そこには、小さな自由都市があった。
「この都市に新しい市場を作る。農民が直接作物を売れるようにすれば、領主の財政とは切り離せる」
「水路は?」
「領内すべては無理だが、都市周辺なら整備できる。商会の事業としてな」
私は頷いた。
ベルクハイム家を救うつもりはない。
けれど、あの領地で暮らす人々まで見捨てるつもりもなかった。
結果として、商会は自由都市に新しい交易拠点を築くことになった。
そして、それが私の人生を大きく変えるきっかけになった。
5.一年後の夫婦
アルフレッドとセシリアの結婚から、一年が過ぎた。
彼女はまだ生きていた。
しかも、かなり元気になっていた。
主治医によれば、病状は安定し、すぐに命を落とす危険はなくなったという。
それは素晴らしいことだった。
しかし、ベルクハイム伯爵家では別の問題が起こっていた。
セシリアが、領主夫人としての仕事を拒否したのである。
「だって、私、病気なのよ!」
彼女はそう言って、帳簿を見ることすら嫌がったらしい。
これまで彼女は、周囲に守られて生きてきた。
病弱だから、無理をしなくていい。
病弱だから、嫌なことはしなくていい。
病弱だから、欲しいものは与えてもらえる。
もちろん、病人には休養が必要だ。
ただ、彼女は元気になってからも、生活を変えようとしなかった。
むしろ、以前より多くのものを求めるようになったという。
「私、ずっと我慢してきたのよ。これからは楽しいことをしたいの!」
新しいドレス。
宝石。
王都への旅行。
高価な菓子。
アルフレッドは最初、彼女の願いを叶えようとした。
長く病床にあった妻を喜ばせたかったのだろう。
しかし、伯爵家にはもう余裕がなかった。
領地からの収入は減り、借金は増え続けていた。
そして、二人は初めて大喧嘩をした。
「少しは家計のことを考えてくれ!」
「ひどい! 私、死ぬかもしれなかったのよ!」
「それはもう昔の話だろう!」
「私が元気になったのが、そんなに嫌なの!?」
その言葉に、アルフレッドは何も言い返せなかったという。
当然だ。
彼は、妻が生きていることを喜ぶべき立場なのだから。
けれど、二人の結婚生活には、最初から奇妙な期限が設けられていた。
半年。
セシリアが亡くなるまで。
彼女が死ねば終わるはずだった結婚生活は、終わらなかった。
そして二人は、ようやく気づき始めたらしい。
結婚とは、相手が死ぬまで続くものなのだと。
そんな頃、私のもとに一通の手紙が届いた。
差出人は、アルフレッド。
『エレノア。君と少し話がしたい。昔のように、二人で会えないだろうか』
私は返事を書かなかった。
すると一週間後、また手紙が届いた。
『君はまだ怒っているのか? 僕たちは三年間も愛し合っていたじゃないか』
私は、その手紙も破棄した。
さらに三日後。
『君が戻ってきてくれれば、すべてうまくいくんだ』
私は、そこで初めて返事を書いた。
『奥様のいらっしゃる男性から、私的なお誘いを受けるつもりはございません。今後、このようなお手紙はお控えください』
それで終わるはずだった。
ところが、今度はセシリアから手紙が届いた。
『エレノア様。どうか主人を誘惑しないでください』
私は思わず笑ってしまった。
なるほど。
どうやら、夫婦喧嘩の原因を私に押しつけたいらしい。
私は二人に、同じ内容の手紙を送った。
『今後、私への私的なご連絡は一切お断りいたします』
そして、父の商会を通じて正式に抗議した。
それ以降、二人からの手紙は来なくなった。
少なくとも、しばらくの間は。
6.隣国の王子様
「エレノア嬢。君は実に面白い女性だね」
そう言って笑ったのは、隣国の第二王子、ユリウス殿下だった。
彼と初めて会ったのは、自由都市の交易会議である。
銀色の髪に深い緑の瞳。
穏やかな物腰の、美しい青年だった。
ただし、見た目に反して、なかなか食えない人物でもある。
「それは褒め言葉と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「もちろん。君は婚約を解消した相手の領地の隣に、わざわざ商売を持ち込んだそうじゃないか」
「領地の外でございます」
「そこが面白いんだ」
殿下は楽しそうに笑った。
「元婚約者を助けたいわけではない。けれど領民が困るのは見過ごせない。だから自分にも利益が出る形で救済する」
「慈善事業では続きませんもの」
「まったくだ」
話が合った。
驚くほどに。
ユリウス殿下は、私が説明する事業計画を熱心に聞いてくださった。
質問も的確だった。
何より、私が女性だからという理由で、話を軽く扱わなかった。
「君の計画では、五年後の利益率はどれくらいになる?」
「保守的に見積もって八パーセントです」
「十パーセントを狙えないかな?」
「狙えますが、初期投資が増えます」
「では、僕の個人資産から出資しよう」
「殿下。投資は遊びではございませんよ?」
「知っているとも。だから君に相談している」
私は笑った。
アルフレッドは、私が帳簿を開くと決まって退屈そうな顔をしていた。
「難しい話は父上に任せよう」
そう言って、私の手を引いて庭へ出た。
それも当時は、優しさだと思っていた。
けれどユリウス殿下は違う。
私が仕事の話をすれば、目を輝かせる。
しかも、私の計算に誤りがあれば容赦なく指摘してくる。
ある日、私が事業計画書を持参すると、殿下は開口一番こう言った。
「エレノア嬢。ここの数字がおかしい」
「どちらでしょう?」
「輸送費だ。冬季の街道閉鎖を考慮していない」
私は書類を覗き込んだ。
確かに、そのとおりだった。
「……失念しておりました」
「君でも間違えるんだね」
「人間ですから」
「安心したよ」
「なぜです?」
「完璧すぎる女性だと、求婚する勇気が出ないから」
私は顔を上げた。
殿下は、にこにこと笑っていた。
「……今、何と?」
「求婚」
「いえ、その前です」
「完璧すぎる女性?」
「殿下!」
「君は怒った顔も可愛いね」
私は熱くなった頬を隠すため、書類に視線を落とした。
その様子を見て、殿下はますます楽しそうに笑った。
7.領民の金
二年目の冬。
ベルクハイム領では、記録的な大雪が降った。
古い水路が凍結によって破損し、春の作付けが危ぶまれる事態になった。
修理には多額の費用が必要だった。
しかし、伯爵家には金がない。
アルフレッドは金融業者から借金を重ねていた。
セシリアの治療費。
結婚式の費用。
宝石やドレス。
そして、領地経営の赤字。
返済のために新たな借金をするようになり、利息は膨らむ一方だった。
そんなとき、アルフレッドはある帳簿に目を留めた。
領民たちが積み立てていた、水路修繕のための共同資金である。
本来なら、領主が管理し、必要な工事にのみ使う金だった。
金庫には、金貨三千枚が残っていた。
「……少しだけなら」
アルフレッドは呟いた。
借金の返済期限が迫っていた。
このままでは、伯爵家の城館が差し押さえられてしまう。
「春になれば、税収が入る。そのとき戻せばいい」
彼は、金庫から金貨五百枚を取り出した。
最初は、それだけのつもりだった。
ところが翌月。
セシリアが新しい宝石を欲しがった。
「王都の宝飾店に、とても素敵な首飾りがあったの!」
「今は無理だ」
「どうして?」
「金がないんだ!」
「またそれ?」
セシリアは不満そうに唇を尖らせた。
「私、ずっと病気で我慢してきたのよ。せっかく元気になったんだから、少しくらい楽しませてくれてもいいじゃない!」
「だから、今は……」
「アルフレッドは、私が死ぬと思っていたから結婚してくれたんでしょう?」
彼は黙った。
「私が元気になって、迷惑なの?」
「そんなことはない!」
「だったら、証明してよ!」
結局、アルフレッドは首飾りを買った。
金貨三百枚。
その金も、領民の共同資金から出した。
もちろん、セシリアには出所を説明しなかった。
彼女は大喜びした。
「ありがとう! やっぱりあなたは優しいのね!」
アルフレッドは、久しぶりに妻から褒められて、少しだけ嬉しくなった。
けれど、その夜。
彼は帳簿を前に、頭を抱えた。
共同資金は、すでに千枚近く減っていた。
春までに戻せる見込みはない。
そこで彼は、帳簿を書き換えることにした。
工事費を水増しし、実際には行っていない修繕を記録した。
最初は自分で。
やがて、セシリアにも手伝わせるようになった。
「ここに署名してくれ」
「何の書類?」
「領主夫人の承認が必要なんだ」
「面倒ね。私、そういうの苦手なの」
「名前を書くだけでいい」
セシリアは内容を読まずに署名した。
しかし、それが何度も続くうちに、さすがに不審に思い始めた。
ある日、彼女はアルフレッドを問い詰めた。
「ねえ。あのお金、どこから出ているの?」
アルフレッドは黙った。
「まさか、領民のお金じゃないでしょうね?」
「……少し借りているだけだ」
「何ですって!?」
セシリアは青ざめた。
「そんなの、横領じゃない!」
「返せば問題ない!」
「返せるの!?」
「……」
沈黙が答えだった。
セシリアはしばらく震えていた。
しかし、やがて小さな声で尋ねた。
「……私の名前は、帳簿に残っているの?」
「ああ」
「だったら、私も捕まるじゃない!」
「大丈夫だ。僕が何とかする」
セシリアは唇を噛んだ。
そして、こう言った。
「……絶対に、ばれないようにしてよ」
その日から、彼女も帳簿の改竄を手伝うようになった。
不自然な支出を隠すため、架空の工事記録を作り、領民からの問い合わせには病気を理由に面会を拒んだ。
そして二人は、さらに金を使った。
もう後戻りはできないと思いながら。
8.王子の求婚と伯爵家の崩壊
アルフレッドたちが不正に手を染めていた頃。
私はユリウス殿下から、三度目の求婚を受けていた。
一度目は交易会議の帰り。
二度目は新しい市場の開設式。
三度目は、私の父の前で。
「エレノア嬢を、僕の妻に迎えたいと思っています」
殿下は堂々と告げた。
父は目を丸くした。
「で、殿下……!」
「もちろん、彼女の意思が最優先です。嫌だと言われたら、諦めます」
私は殿下を見た。
「……本当に?」
「本当だよ」
「四度目はありませんの?」
「君が望むなら、百回でも申し込むけど」
「それは諦めると言わないのでは?」
「そうかな?」
父が咳払いした。
「エレノア。お前は、どう思っている?」
私は少しだけ考えた。
ユリウス殿下といると、楽しい。
仕事の話ができる。
意見が違えば議論できる。
私が嫌だと言ったことは、きちんと受け止めてくれる。
そして何より。
この人となら、十年後も二十年後も、一緒に笑っていられる気がした。
「……お受けしたいと思います」
殿下の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当に!?」
「はい」
「よかった!」
殿下は私の手を取った。
「実は、断られたらどうしようかと思って、昨夜は眠れなかったんだ」
「殿下でも、そのようなことが?」
「当たり前だろう。好きな女性に求婚するんだから」
さらりと言われて、私は言葉に詰まった。
こうして私は、隣国の王子と婚約した。
その一か月後。
ベルクハイム領で、大きな事件が起こった。
春の雪解け水によって、破損していた水路が決壊したのである。
本来なら、冬の間に修繕するはずだった場所だった。
しかし、工事は行われていなかった。
修繕費は、すでに使い込まれていたからだ。
濁流が農地を襲い、数十戸の家屋が被害を受けた。
幸い、避難が間に合ったため死者は出なかった。
しかし、春の作付けは壊滅的な被害を受けた。
怒った領民たちは、伯爵家に説明を求めた。
アルフレッドは、工事は完了していたと主張した。
「記録も残っている! 私に責任はない!」
ところが、工事を請け負ったはずの職人たちは、誰も仕事をしていなかった。
帳簿に記載されていた工事費も、実際には支払われていない。
領民たちは不正を疑い、王都へ訴え出た。
そして、王国の監査官が派遣された。
調査は、わずか十日で終わった。
帳簿の改竄。
共同資金の横領。
虚偽の工事報告。
そして、領主夫妻による不正な支出。
すべてが明らかになった。
アルフレッドは逮捕された。
セシリアも、共犯として取り調べを受けることになった。
9.優しい夫の裏切り
「私は何も知りません!」
監査官の前で、セシリアは泣き叫んだ。
「夫に言われて、書類に署名しただけです!」
「しかし、こちらの帳簿には、奥様ご自身が支出を承認した記録がございます」
「それは……!」
「さらに、こちらの工事記録は、奥様の筆跡ですね?」
セシリアは黙った。
監査官は冷静に続けた。
「実際には行われていない工事について、奥様が報告書を作成されています」
「……夫に頼まれたんです!」
「不正であることは、ご存じでしたね?」
セシリアは答えられなかった。
その日の午後、アルフレッドも取り調べを受けた。
彼は最初、すべての責任を自分で負うつもりだった。
しかし、刑罰の重さを聞いて青ざめた。
領民の共同資金を横領しただけでなく、虚偽の工事報告によって水害を招いた。
被害額は莫大だった。
爵位の剥奪。
財産の没収。
そして、長期の強制労働刑。
その可能性を告げられたアルフレッドは、突然、証言を変えた。
「……妻が、金を使ったんです」
監査官が顔を上げた。
「何と?」
「セシリアが、宝石やドレスを欲しがった! 僕は何度も止めたんです!」
「では、横領した金を妻のために使ったと?」
「そうです! 彼女が病気だったから、断れなかったんだ!」
彼は必死だった。
「妻は、死ぬかもしれないと何度も言って、僕を脅したんです!」
監査官は、淡々と記録を取った。
「ですが、金庫から資金を引き出したのは、あなたですね?」
「それは……」
「最初の帳簿改竄も、あなたの筆跡です」
「妻が望んだから!」
「領主として資金を管理する責任は、あなたにあります」
アルフレッドは絶句した。
そして、監査官は次の書類を取り出した。
「なお、奥様からも証言を得ています」
「……何?」
「あなたが不正を隠すよう命じた、と」
アルフレッドの顔が歪んだ。
「セシリアが……?」
「はい」
「……あの女!」
彼は机を叩いた。
「僕がどれだけ、あいつのために犠牲を払ったと思っているんだ!」
監査官は、冷たい目で彼を見た。
「その犠牲に、領民の財産を使う権利はありません」
アルフレッドは、何も言い返せなかった。
その後、二人は一度だけ対面を許された。
「アルフレッド!」
セシリアは夫を見るなり叫んだ。
「あなた、私に罪を押しつけたんですって!?」
「君こそ、僕を売ったじゃないか!」
「だって、私は何も悪くないもの!」
「悪くないだと!? あれほど贅沢をしておいて!」
「あなたが買ってくれたんでしょう!」
二人は互いを罵倒した。
やがて、アルフレッドが叫んだ。
「君が半年で死ぬと言ったから、結婚したんだ!」
セシリアの顔が凍りついた。
「……何?」
「君が死んだら、エレノアと結婚するつもりだった! それなのに、いつまで経っても死なないから!」
言ってしまった。
一度口から出た言葉は、もう戻せない。
セシリアは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……あなた、私が死ぬのを待っていたの?」
アルフレッドは黙った。
「私が元気になったとき、喜んでくれたじゃない」
「……」
「嘘だったの?」
「最初は、嬉しかったさ!」
アルフレッドは叫んだ。
「けれど君は、いつまでも病人のつもりで、何もかも僕に押しつけて!」
「私だって!」
セシリアが叫び返した。
「あなたがこんなに貧乏な男だと知っていたら、結婚なんかしなかったわ!」
アルフレッドは目を見開いた。
「……何だって?」
「私は、優しいあなたが好きだったの! 何でも買ってくれて、何でも許してくれるあなたが!」
彼女は涙を流していた。
「領地経営だの借金だの、そんなこと、聞いていなかった!」
「君は僕を愛していたんじゃないのか!」
「愛していたわよ!」
セシリアは叫んだ。
「でも、こんな生活をするためじゃない!」
二人は睨み合った。
かつて、互いのためなら何でもできると誓った二人。
余命半年の花嫁と、その願いを叶えた優しい花婿。
けれど今、二人の間には、憎しみしか残っていなかった。
10.失われたもの
裁判は、王都で開かれた。
証拠は十分だった。
アルフレッドは、領民の共同資金を横領し、帳簿を改竄した罪で有罪となった。
さらに、必要な修繕を行わなかった結果、水害を招いた責任も問われた。
ベルクハイム伯爵家の爵位は剥奪。
領地と財産は没収され、被害を受けた領民への補償に充てられた。
アルフレッドには、十年間の強制労働刑が言い渡された。
一方、セシリアも帳簿改竄の共犯として有罪となった。
彼女には、五年間の労役刑が科された。
判決が読み上げられたとき、アルフレッドは茫然としていた。
セシリアは泣き崩れた。
「いや……嫌よ……!」
彼女は裁判官に縋りつこうとした。
「私、病気だったんです! 死ぬかもしれなかったんです!」
裁判官は静かに答えた。
「現在の健康状態について、医師の診断書を確認しております」
「でも、また悪くなるかもしれないでしょう!?」
「その場合は、必要な治療を受けられます」
「違うの! そうじゃなくて!」
セシリアは泣き叫んだ。
「私、こんなことになるなんて思っていなかった!」
裁判官は、何も答えなかった。
誰も、彼女を慰めなかった。
アルフレッドもまた、護送される直前まで、何度もエレノアの名前を口にしていたという。
「エレノアなら、助けてくれるはずだ」
「彼女は僕を愛していたんだ」
「三年間も、僕のために尽くしてくれたんだから」
しかし、エレノアは来なかった。
彼女は、すでに隣国の王子と結婚していた。
そして、アルフレッドの裁判が行われていることさえ、詳しくは知らなかった。
11.愛を失ったのは
私がユリウス殿下と結婚したのは、アルフレッドとセシリアの結婚から二年半後のことだった。
式は隣国の王宮で行われた。
大勢の人々に祝福され、私は夫となった殿下の手を取った。
「エレノア」
「はい」
「幸せにするよ」
私は微笑んだ。
「殿下。私も、あなたを幸せにいたします」
「それは頼もしいな」
「ただし、お仕事はきちんとなさってくださいね」
「新婚初日から厳しい!」
「当然です」
「では、仕事を頑張ったら褒めてくれる?」
「内容によります」
「接吻は?」
「……殿下!」
「おや。これは駄目だった?」
殿下は楽しそうに笑った。
私は呆れながらも、幸せだった。
あの三年間が無駄だったとは思わない。
アルフレッドを愛していたのは事実だ。
一緒に過ごした時間にも、楽しい思い出はあった。
けれど。
愛していたからといって、いつまでも待ち続ける義務などない。
私は私の人生を生きる。
ただ、それだけのことだった。
結婚して半年が過ぎた頃。
父から、一通の手紙が届いた。
そこには、ベルクハイム家の裁判について書かれていた。
アルフレッドは爵位を剥奪され、十年間の強制労働刑。
セシリアも共犯として、五年間の労役刑。
二人が不正に使った金は、領民のための資金だった。
その結果、水路の修繕が行われず、大きな被害が出たという。
私は、手紙を読み終えてから、静かに息を吐いた。
「……そうですか」
「エレノア?」
執務室の扉が開き、ユリウス殿下が顔を出した。
「どうしたんだい?」
「昔の婚約者のことです」
「……ああ」
殿下は私の隣に腰を下ろした。
「裁判の結果が出たのかい?」
「はい」
私は手紙を渡した。
殿下は一通り目を通し、眉をひそめた。
「これは、ひどいね」
「ええ」
「領民の資金を横領したのか」
「そうです」
「君の実家が投資を取りやめたことが、原因だと思う?」
私は少し考えた。
「いいえ」
殿下が私を見た。
「そう?」
「確かに、私との婚約が続いていれば、ベルクハイム領の財政は立て直せたかもしれません」
私は手紙を机に置いた。
「けれど、領民のお金に手をつけるかどうかは、アルフレッド様ご自身が決めたことです」
「……そうだね」
「セシリア様も、最初は事情をご存じなかったのでしょう。でも、不正だと知ってからも、隠すことを選ばれました」
私は窓の外を見た。
庭では、春の花が咲いていた。
「お二人とも、自分の望みを叶えたはずなのに」
殿下が首を傾げた。
「望み?」
「セシリア様は、死ぬ前に一度だけ花嫁になりたかった。アルフレッド様は、その願いを叶えてあげたかった」
「なるほど」
「そして、セシリア様は死なずに済んだ」
私は微笑んだ。
「本当なら、これ以上ないほど幸せな結末だったはずです」
殿下は、しばらく黙っていた。
やがて、私の手を取った。
「エレノア」
「はい?」
「君は、僕と何年くらい一緒にいたい?」
突然の質問に、私は目を瞬かせた。
「……そうですね」
少し考える。
「五十年くらいでしょうか」
「五十年?」
殿下が笑った。
「それは困ったな」
「どうしてです?」
「僕は六十年のつもりだった」
私は思わず笑った。
「それは、随分と長生きしなければなりませんね」
「そうだね。健康には気をつけよう」
「夜更かしも控えてくださいませ」
「……努力するよ」
殿下は私の手の甲に口づけた。
「君と結婚して、僕は本当によかった」
私は、夫の顔を見つめた。
「私もです」
「本当に?」
「ええ」
「では、もう一度言ってくれる?」
「殿下?」
「君の声で聞きたいんだ」
私は呆れた。
「……私も、あなたと結婚できて幸せです」
殿下は満足そうに笑った。
そして、私の手を取る。
「では、これからもよろしく。十年後も、二十年後も」
「はい」
「五十年後も」
「ええ」
私は微笑んだ。
ふと、三年前のことを思い出した。
アルフレッドは、私に言った。
『半年だけだ。彼女が亡くなったら、必ず君を迎えに行く』
私は、あのとき彼に尋ねた。
『もしセシリア様が半年後もご存命でしたら?』
彼は答えられなかった。
そして今、思う。
あのとき、私が本当に尋ねるべきだったのは、別のことだったのかもしれない。
『もしセシリア様が、ずっと生きていたら?』
結婚とは、相手が死ぬまで続く約束だ。
そして、幸せなことに、人はそう簡単には死なない。
病気が治ることもある。
余命宣告が外れることもある。
半年のつもりだった人生が、五十年続くことだってある。
だからこそ。
誰かと結婚するなら、その人と長く生きる覚悟が必要なのだ。
「エレノア?」
殿下が首を傾げた。
「何を考えているんだい?」
「……いいえ」
私は微笑んだ。
「あなたと、長生きしたいと思っておりました」
殿下は一瞬驚いた顔をした。
それから、とても嬉しそうに笑った。
「奇遇だね。僕もだよ」
差し出された手を取る。
春の日差しは暖かく、庭には薔薇の香りが漂っていた。
遠い国で、かつての婚約者とその幼馴染みは、互いを憎みながら刑期を過ごしているという。
二人は、結婚という願いを叶えた。
しかも、死なずに済んだ。
けれど、その代償に、財産も、名誉も、自由も失った。
そして何より。
あれほど大切にしていたはずの、互いへの愛さえも。
私は夫の腕に手を添えた。
「殿下。明日はお休みを取れますか?」
「もちろん。どうして?」
「庭園の薔薇が見頃なのです。二人でお茶を飲みたいと思いまして」
「それは楽しみだ」
「ただし、お仕事が残っていれば駄目ですよ」
「……そこは融通してくれないの?」
「駄目です」
殿下は大げさに肩を落とした。
そして私たちは、顔を見合わせて笑った。
かつての婚約者と、その幼馴染み。
二人が今、どんな気持ちで毎日を過ごしているのか、私は知らない。
知りたいとも思わない。
ただ、ひとつだけ。
心から願っていることがある。
どうか、お二人とも。
末永く、お元気で。
そして。
ご自分たちで選んだ人生を、どうぞ最後までお楽しみくださいませ。
――完――




