雨宿りのお店
空が割れたのではないかと思うほどの雨だった。
美咲は駅までの道を半分も歩かないうちに、鞄の中のビニール傘が壊れていたことを思い出した。骨だけになった傘を放り出したい衝動をこらえながら、彼女は軒先を探して走った。
商店街の外れ、普段なら素通りしてしまうような細い路地の奥に、灯りの点いた小さな店があった。看板には掠れた文字で「時と忘れ物」とだけ書かれている。骨董品店のようだが、営業しているのかどうかも怪しい佇まいだった。それでも雨をしのげるならと、美咲は引き戸を押し開けた。
からん、と乾いた鈴の音がした。
店内は思いのほか広く、天井まで届く棚に、古い置き時計や色褪せた写真立て、革表紙の本、硝子細工の小箱などがぎっしりと並んでいた。埃っぽいはずなのに、なぜか鼻をくすぐるのは木と紙の匂いばかりで、不思議と落ち着く空間だった。
「いらっしゃい。雨宿りですか」
奥のカウンターから、白髪の老人が顔を上げた。丸眼鏡の奥の目は柔らかく、けれどどこか全てを見透かしているような光を湛えていた。
「すみません、突然雨に降られてしまって……少しだけ、よろしいでしょうか」
「もちろん。ゆっくりしていってください。お客さんは、初めてじゃないですからね」
老人はそう言って、また手元の作業に戻った。美咲は聞き間違いかと思ったが、問い返すのも野暮な気がして、黙って店内を見て回ることにした。
棚の品々は、どれも持ち主の物語を秘めていそうだった。色褪せたリボン、片方だけの手袋、宛名のない手紙の束。値札はどこにも見当たらない。売り物ではないのかもしれない、と美咲は思った。
その中で、彼女の足を止めさせたのは、ガラスケースに収められた一つの懐中時計だった。銀の蓋に細かな唐草模様が彫られ、針は九時十四分を指したまま止まっている。なぜだろう、その時計から目が離せなかった。胸の奥がざわりと音を立てる。まるで、忘れていた何かを思い出しかけているような、もどかしい感覚だった。
「その時計が気になりますか」
いつの間にか老人が隣に立っていた。
「はい……なんだか、懐かしい気がして。でも、こんな時計、見たことないはずなんです」
「そうでしょうね。でも、あなたはこの時計を、以前ここに置いていったんですよ」
美咲は思わず笑った。「まさか。私、この店に来るのは初めてです」
「そう思うのは当然です。ここに何かを置いていった人は、置いていったこと自体を忘れてしまいますから」
老人の声には、からかうような響きは一切なかった。むしろ静かで、真剣だった。美咲の笑いは、宙に浮いたまま消えた。
「どういう意味ですか」
「この店はね、お客さん。辛い記憶と引き換えに、何かを預かる場所なんです。人はときどき、思い出すたびに胸が張り裂けそうになる記憶を抱えきれなくなる。そういうとき、ここに来て、記憶の代わりになる品物を置いていく。記憶そのものは消えないが、その品物を見ない限り、思い出すことはなくなる」
「そんな、都市伝説みたいな話……」
そう言いながらも、美咲の視線は懐中時計から離れなかった。九時十四分。なぜかその時刻に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「あなたは三年前、この店に来ました。ちょうど今日のような、雨の日でした」
老人はカウンターの奥から古い帳面を取り出し、埃を払って開いた。そこには、見覚えのない、けれど確かに自分の筆跡としか思えない文字で、短い一文が記されていた。
――九時十四分、彼の心臓が止まった時刻。この時計とともに、預けます。
美咲の手が震えた。九時十四分。心臓が止まった時刻。
――誰の?
考えようとした瞬間、頭の奥で何かが軋むような、鈍い痛みが走った。思い出そうとすればするほど、記憶は霧の向こうへ後退っていく。まるで、見てはいけないものに手を伸ばしているような気がした。
「無理に思い出さなくてもいいんですよ」老人は静かに言った。「これは、あなたが自分で選んだことです。あの日、あなたはひどく打ちのめされていた。大切な人を、突然の事故で亡くしたばかりだった。その記憶を抱えたまま生きていくことが、あなたにはどうしてもできなかった」
「私は……」
「あなたはこの時計を置いていくことで、彼を失った痛みそのものを、この店に預けました。かわりに、あなたは笑って生きていけるようになった。この三年間、あなたは苦しみを知らずに過ごしてきたはずです」
美咲は自分の左手薬指に、うっすらと跡が残っていることに、今さら気づいた。指輪をしていた跡。結婚していたのだろうか。それとも、婚約だけしていたのだろうか。
わからない。何もかもが、輪郭のないまま彼女の中に沈んでいる。
「もし、思い出したいなら」老人はガラスケースの鍵を取り出しながら言った。「この時計を持って帰ることです。時計を受け取れば、預けていた記憶はすべて、あなたのもとに戻ります。痛みも、悲しみも、そして――彼と過ごした幸せな時間も、すべて」
「もし、受け取らなければ?」
「このまま、何も知らずに店を出ていくだけです。雨が止めば、あなたは今日のことも忘れて、いつもの日常に戻る。この店のことも、この時計のことも、すべて」
美咲はガラスケースの中の時計を見つめた。九時十四分で止まった針。それは、誰かの人生が終わった瞬間なのだ。そして同時に、自分自身の何かが終わった瞬間でもあるのだろう。
思い出せば、きっと苦しい。三年間忘れていた痛みが、一気に押し寄せてくる。けれど、思い出さなければ、自分が誰を愛し、誰を失ったのかさえ、永遠にわからないままだ。
窓の外では、雨がまだ静かに降り続いていた。
美咲は深く息を吸い、老人を見た。
「時計を、受け取ります」
老人は小さく頷き、鍵を差し込んでケースを開けた。時計を手渡すその瞬間、美咲の脳裏に、堰を切ったように記憶が流れ込んできた。
誰かの笑い声。並んで歩いた桜並木。差し出された指輪。そして――雨の夜、電話越しに聞こえた、これまでと違う沈んだ声。病院の廊下の白い光。九時十四分、モニターの音が途切れた瞬間。
涙が頬を伝った。けれど不思議と、それは悲しみだけの涙ではなかった。彼と過ごした時間の温かさも、同時に胸いっぱいに広がっていたからだ。
「ありがとう、ございました」美咲は時計を両手で包み込むようにして言った。「思い出せて、よかった。忘れたままでいたら、私はきっと、彼が存在したことさえ、なかったことにしてしまうところでした」
「それが、この店の役目です。忘れることは救いにもなるが、思い出すことは、生きた証を取り戻すことでもある。どちらを選ぶかは、いつだってお客さん次第です」
美咲は頭を下げ、店を出ようとした。そのとき、ふと足を止めて振り返った。
「あの……もう一つ、聞いてもいいですか。あなたは、どうしてこんな店を?」
老人は微笑んだだけで、答えなかった。かわりに、カウンターの奥にある古びた写真立てに、視線をやった。そこには、今の老人よりもずっと若い姿の男性と、寄り添う女性が写っていた。女性の顔には見覚えがある気がしたが、美咲はそれ以上、深く考えないことにした。
外に出ると、雨はいつの間にか止んでいた。夕焼けが雲の切れ間から差し込み、濡れたアスファルトを金色に染めている。
美咲は懐中時計をそっとポケットにしまい、振り返って店を見た。
――そこには、何もなかった。
路地の奥には、古びた壁があるだけで、店があったはずの場所には、扉も看板もない。まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
美咲は立ち尽くしたまま、ポケットの中の時計を握りしめた。硬い感触が、たしかにそこにある。夢ではなかった証だった。
彼女は静かに歩き出した。三年間閉ざしていた記憶を抱えて。悲しみと、それ以上の温かさを胸に。
次にあの路地を通ることがあれば、あの店はまた現れるのだろうか。それとも、一度きりの、彼女だけのための場所だったのだろうか。
美咲にはわからなかった。けれど一つだけ、確かなことがあった。
――今度は、忘れない。
夕焼けの街を、彼女はゆっくりと、けれど確かな足取りで歩いていった。




