君が知らないものを見に行こう
今年九歳になる第一王子は、教育係や、周りに控える侍従たちの評判によると幼いながらとても聡明で、何よりも他者に対して優しくすることをちっとも厭わない清らかな心を持つ。誰に聞いてもその評価は概ね変わらず、人を見る目が厳しいと評判の宰相でさえも頬を緩ませるところがある。
ならばやはり親の欲目ではないと、国王陛下は軽く息をつきながら、王子がいる離宮へと足を向けた。
離宮の花園の中、自由時間の合間に絵本を広げ、時折目を花や蝶に向ける横顔は穏やかなものだ。その幼児らしく膨らんだ頬を見ながら、王は息子に近寄った。
土を踏む音ですぐに王に気づいた王子はすぐにはっとして父に頭を下げる。それに、王はゆったりと笑いながら、「今は私的な場だから畏まらなくていい」と言えば、王子は少しだけ緊張を緩めた。
難しい言い方をしても、ニュアンスで何を言っているか、察することができる息子。
王はその頭を一度撫でてから、そっと目を伏せて息子に声をかける。
「信頼する私の息子よ、お前を信用して三つ、お願いがあるんだ」
「はい、父上」
王子は一も二もなく頷く。
王は王子をまっすぐ見つめて、数秒押し黙ってから口を開く。
「一つはね、今からお願いする女の子を優しくエスコートしてほしい。ただ、無理はしなくていい。体が弱っていて、歩くのも少し体力がいる。だから、控えている従者を遠慮なく頼っていい。……少しばかりふさぎ込んでいる彼女を、お前の明るさでどうにか楽しい思いをさせてほしいんだ」
「……はい、父上」
「ありがとう」
王子は思いもかけない父の願いに、少しだけ驚いたような、困惑するようなそぶりを見せた。だが、誰よりも尊敬する父自らの願いだ。
しっかりと視線をそらさずに頷いてみせる。そんな頼もしい王子の様子とは裏腹に、王は少し、弱ったような笑顔を見せた。
「あと二つ、お前にやってほしいことはね……――」
◆◇
公爵令嬢クラウディア・エーレンベルク。
その日も彼女は、寝台の上にいた。
大きく体調を崩しているわけではない。
熱もないし、咳も出ていない。ただ朝から少し身体が重く、食欲もない。
持病というほどの病名がつけられた訳ではないが、人よりも体が弱いと評される彼女にとっては、いつものことだった。
少し具合が悪ければ横になる。
良くなっても念のため、もう一日。
体調が悪い間は外へ出るなどもってのほか。
幼い頃からずっとそうしてきたクラウディアにとって、それは疑問を抱くようなことですらなかった。
だからその日も、窓から差し込む明るい陽射しを眺めていただけだった。
――そのとき。
「失礼」
普段は静かなその部屋に、聞きなれない声が響く。
両親ではない。同じ年代の子供の声。
クラウディアが身を固くする間も無く、侍女が恭しく頭を下げながら、その来訪者を招き入れてしまった。
そして、瞬く。
そこにいたのは、先日はたまたま体の調子が良かったために、なんとか出席できることになった茶会で出会うことができた――第一王子が、いたからだ。
彼は一応遠慮しているのか、寝室の扉からひょいと顔を覗かせている。
「ご機嫌よう」
「ご、ご機嫌よう……?」
なるほど、侍女が通すしかないはずだ。
今朝、彼女の父はこんな訪問予定を言っていなかった、はず。朝の記憶がぼんやりしているので、断言はできないが。
クラウディアは慌てて身を起こす。
先日初めて面通しが叶ったと言っても、彼とはもちろん私的に仲がいいとは言えない。ただ、短い挨拶の中で済ませた会話は確かに心地良くはあり、クラウディアの方はあの茶会を大切な思い出として分類はしていたけれど。
「どうしてこちらに」
「あなたに会いに来たんです」
当然のようにさらりと言って、王子は寝台の傍までやってくる。
手櫛で慌ただしく髪を溶かすクラウディアに反し、王子はあの日と変わらぬ優雅さだ。
「具合はどうですか?」
「……少し身体が重いくらいです。熱もありません」
「食事は?」
「朝食を少し」
「昨日は?」
「いつも通りです」
「なるほど。事前に聞いた通りではありますね」
王子があまりに平然としているため、反射のように言葉を返してはいるが、頭の中は混乱しきりだった。
そもそも、何がなるほどなのだろう。
訝しんでいると、王子は唐突に言った。
「では、出かけましょうか」
「…………はい? 出かける……?」
「城下町へ」
「……城下町?」
鸚鵡返ししかできない。
やがて言葉の意味を理解したクラウディアは、目を丸くし、やや顔を白くさせながらも首を振った。
「む、無理です」
「どうして?」
「どうしてって……わたくし、殿下となんて、とても準備が追いついておりません……」
何故そんな話になるのだ。
まだ二度しか会ったことのない王子と自分が、街に出るだなんて。
答えてから、クラウディアは困り果てた顔になる。
しかし王子はにこりと笑うばかりだ。
「無理をさせず、疲れたらすぐ休ませる。人混みには長時間いさせない。食事にも気をつける。それなら短時間の外出は構わないそうですよ。あなたのお父上も、たまには外の空気を吸うことを望んでおります」
「……父、が……」
最近は風邪が続き、そのせいで臥せっている時間も多かった。そのため塞ぎ込みがちになったクラウディア。そんな彼女を時に叱咤し、時に激励し続けてくれている父の顔が浮かぶ。
確かに今日は一日休まなければいけないような体調ではない、ただ気分が塞がって何する気が起きていないだけで。
そんなクラウディアの無気力さを、父は心配したのだろう。
父に愛されていることは自覚してはいるが、もしや王族相手に断れまいとこんな強引な真似をしてくるとは思わなかった。
クラウディアが呆然としている間に、王子は侍女へ視線を向ける。
しばらく口を開けたまま彼を見つめ、それから困ったように眉を下げた。
「でも……」
無意識に、窓の外へ視線を向ける。
よく晴れている。
窓辺の木々は風に揺れ、その向こうには青い空がどこまでも広がっていた。
王子はその横顔を見る。
「散歩には持ってこいですよ。今日は」
それはとても優しい声だった。
王子は寝台の傍へ膝をついた。
「たまには、君が知らないものを見に行こう」
おずおずと、クラウディアが彼を見てから、もう一度、窓の外へ目を向けた。
そして恐る恐る、寝台の上から手を伸ばす。
細い指先が、王子の手に重なる。
「……少しだけ、ですよ」
途端に、王子が笑った。
「もちろん」
「……あと、私などに敬語はやめてください。気後れしてしまいます」
そういうと、王子は少しだけ目を見開いた。
それから、誤魔化すように一つ息を飲み下して、「じゃあ、楽にするね」と言う。
それから、少しだけ考えて彼はわざとらしく明るい顔をしてクラウディアを覗き込む。
「ところで、あなたは僕の名前を知っているのかな? 殿下、殿下と呼んでいるけれど街歩きではあまり声高にその名で呼ばれてしまうと注目を集めてしまうよ」
「なっ……! わかってます……っ! エリュグランド殿下ですわ!」
「……そう、それはよかった。では今日は、僕のことはエリューと」
そう言って、王子はにこりと笑い、彼女の腕を優しく引っ張ることで、その背を起こしてやったのだ。
――その一時間後。
「まあ……!」
公爵邸の玄関を出たクラウディアは、馬車を見て目を輝かせていた。
いつも乗る公爵家の紋章入りの箱馬車ではない。
目立たない、小ぶりな馬車だった。
「これに乗るのですか?」
「今日は王子と公爵令嬢じゃなく、お忍びだから」
「……ばれるんじゃないかしら?」
「案外、堂々としてればそうでもないよ」
そんなものだろうか?
自信満々な王子とは違い、クラウディアは不思議そうな顔をしながら手を引かれ、馬車へ乗り込む
やがて車輪が回り出す。
見慣れた門が遠ざかっていく。
クラウディアは窓辺に寄り、流れていく景色を眺めていた。
「で、………エリュー、」
「うん?」
呼び方に少しだけ躊躇ってから、彼女はそっと王子に目を合わせた。
「悪いことをしているみたいです」
「嫌?」
「……いいえ。なんだかもう、少し、楽しいです」
素直に言えば、王子が笑った。
まだ城下町にすら着いていないというのに。
その横顔は、朝まで寝台の上でぼんやりと天井を眺めていた表情とは少しだけ違っていた。
城下町は、彼女が想像していたよりもずっと騒がしかった。
石畳の上を行き交う人々。軒先いっぱいに商品を並べた店。威勢のいい呼び込みの声に、どこからともなく漂ってくる焼き菓子の甘い香り。
馬車を降りた瞬間から、クラウディアは忙しなく右へ左へと視線を動かしていた。
「あれは何を売っているのでしょう」
「香辛料だね」
「では、あちらの赤いものは?」
「飴じゃないかな?」
「まあ……あんなにたくさんの色があるのですね」
感心したように呟いたかと思えば、今度は通り過ぎた大道芸人を振り返る。
普段ならば公爵邸と王城を行き来するばかり。
幼い頃から身体が弱く、人混みなどもってのほかと遠ざけられてきた彼女にとって、城下町は何もかもが珍しいらしい。
「クラウディア」
呼びかけると、はっとしたように振り返った。
「す、すみません。わたくし、落ち着きがなくて」
「いや。はぐれそうだから」
王子は笑って、その手を取った。
王子に手を引かれながら、クラウディアはふと、不思議な気持ちになった。
初めて歩くはずの道だった。
隣にいる彼と、こうして手を繋いで歩くことだって、今日が初めてのはずなのに。
それなのに。
「……変ですわ」
「なにが?」
「いいえ。ただ……」
クラウディアは小さく首を振り、繋がれた手を見つめた。
ずっと昔にも、こんなふうに誰かの手に導かれて歩いたことがあるような気がした。
けれど、そんなはずはない。
だからきっと、この人の手が不思議なくらい安心するだけなのだ。
そう思って、クラウディアはまた前を向く。
その横で王子は、ほんの少しだけ困ったように笑っていた。
まるで、彼女が覚えていない何かを、自分だけが知っているような顔で。
「今日は僕から離れないこと」
「……はい」
優しく、けれど自分より硬い、男の子の手。
少し躊躇いながらも、クラウディアは握られた手を振りほどこうとはしない。
最初に立ち寄ったのは、通りに面した小さな菓子店だった。
色とりどりの砂糖菓子が硝子瓶いっぱいに詰められているのを見つけ、クラウディアが思わず足を止めたからだ。
ひとつ買ってもらい、恐る恐る口に入れる。
「……甘いです」
「砂糖菓子だからね」
「知っています。そうではなくて……なんだか、お屋敷でいただくものより、ずっと甘い気がします」
そんなはずはないだろう、と王子は笑った。
次は露店を覗いた。
安価な髪飾りや耳飾りが並ぶ中、クラウディアは小さな花を模した髪留めを手に取った。
「かわいらしいですね」
「欲しい?」
「いいえ。見るだけで十分です」
そう答えたくせに、名残惜しそうに戻したものだから、王子は店主に硬貨を渡した。
「エリュー?」
「今日の記念だよ」
戸惑う彼女に、王子はそっと笑う。
侍女が流れるようにそれを彼女の髪につける。彼女はそっと指先で花に触れ、そしてつい嬉しそうに目を細めた。
昼には、貴族がまず入ることのないような小さな食堂へ入った。
焼きたてのパンに、熱々の肉料理。
最初こそ周囲を気にして背筋を伸ばしていたクラウディアだったが、一口食べるごとに緊張は解けていく。
「今日は少しくらい、食べすぎても平気でしょうか」
彼は少し後ろを振り返る。
侍女たちに目を向けるとすぐに、彼女らは何度か頷いてみせた。それを見て彼も頷いた。
「……大丈夫なようだよ」
そこでようやく、彼女は彼が無茶をしているようで、細かく周囲を見ていることに気づく。
彼女の体調は周りを見、ルートに関しては彼女の顔色を考えて。
強引なのか、優しいのか、わからない人。
くすり、と――そこで初めて、彼女が声を立てて笑った。
頑なだった心が解けていく。ぼんやりしていたものがどんどん形をなしていく。
楽しい。楽しいと、久々に心が波打った。
午後には噴水広場を歩き、楽器を奏でる旅芸人の演奏に耳を傾けた。
小さな雑貨屋を覗いて、古本屋では見たことのない物語の本を見つけた。
橋の上から川を眺め、屋台で買った果実水を二人で飲んだ。
歩き疲れれば休む。
少し顔色が悪くなれば、王子が有無を言わせずベンチへ座らせた。
「まだ大丈夫です」
「あなたの『大丈夫』は信用していない」
「ひどいです」
不満そうに唇を尖らせる彼女へ水を渡しながら、王子は笑う。
そして、王子も少し疲れたというように腕を伸ばした。その間を見計らったように、従者がてきぱきとクラウディアの世話を焼く。その様子を、どこかぼんやり王子は見つめた。
「……僕もね、大切なあなたを一人でまだ支えられるほど立派じゃない。だから、他の者の手を借りて『大丈夫』を作るんだよ」
「……お手数をおかけして……」
「そうじゃない、王族として、たくさんの者の手を借りて立つこと、それは当たり前なことなんだ。……なんて! 父上の受け売りだけどね。……だから、あなたもどうか楽にして」
そう言って、王子は笑う。きっと疲れているだろうに、少しもこちらに見せない表情だった。
そして、まだ帰ろうとも、彼は言わなかった。
だから、――彼女も言い訳する。
もう少しだけ。
あちらの通りまで。
あのお店を見てから。
普段なら体調を崩すことを恐れて何事にも慎重な彼女が、今日ばかりは子どものように次々と興味を示す。
そして日が傾き始めた頃。
広場に戻ってくると、夕刻を知らせる鐘が鳴った。
茜色の空の下、店々に明かりが灯り始める。
「そろそろ帰ろうか」
ようやく、王子が告げると、クラウディアは少しだけ寂しそうな顔をした。
けれどすぐに、今日一日買ってもらった小さな包みを胸元に抱きしめる。
「……はい」
そして数歩進んだところで、彼女がふいに立ち止まった。
「殿下」
振り返った王子へ、クラウディアは言った。
「今日は、本当にありがとうございました」
いつものような、淑女然とした微笑みではなかった。
頬を紅潮させて。
瞳をきらきらと輝かせて。
「わたくし、こんなに楽しい一日は初めてです!」
花が一斉にほころぶように、満面の笑顔が弾けた。
王子は一瞬、言葉を失った。
そんな彼の様子には気づかず、クラウディアは嬉しそうに続ける。
「また来てもよろしいでしょうか? まだ見ていないお店もたくさんありますし、あの焼き菓子も食べてみたいです。それから――」
「……うん、また来よう」
思わず王子も笑った。
繋いだ手を、少しだけ強く握る。
夕暮れの城下町を、二人はそのまま手を繋いで歩いていく。
帰りの馬車ではきっと疲れ果てて眠ってしまうだろう。
それでも今だけは、彼女の弾むような足取りに合わせて、王子はいつもよりゆっくりと、賑やかな街を歩いていた。
広場を抜け、小さな店が軒を連ねる通りへ入った頃だった。
「あ……」
不意に、すれ違った女性が足を止めた。
買い物籠を腕に提げた、年嵩の女性だった。
クラウディアたちを見て、大きく目を見開いている。
「もしかして、あなた様は――」
「あっ」
王子が珍しく、少し慌てた声を出した。
クラウディアが不思議そうに彼を見る。
「エリュー?」
「行こう、クラウディア」
「え?」
王子は彼女の手を取ると、女性へ向かって人差し指を唇の前に立てた。
「今日は、お忍びなんです」
小さな声でそう告げる。
女性は何かを察したらしい。
一度クラウディアを見て、それから王子を見る。
その瞳が、見る間に潤んだ。
「……そう、でしたか」
「はい」
「それでは……どうか、よい一日を」
王子はにこりと笑って、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「エリュー、早く」
「うん。今行くよ」
先を歩き始めたクラウディアを追いかけようとして、王子はもう一度だけ女性を振り返る。
女性は胸元で両手を握り合わせていた。
声をかけたいのだろう。
もっと近くへ行きたいのだろう。
それでも何も言わず、ただ目に涙を浮かべながら、深く、深く頭を下げた。
王子もまた、ほんの少しだけ頭を下げる。
そして、クラウディアのもとへ駆けていった。
「もう。お忍びなのに、最後にばれてしまったのではなくて?」
「危なかったね」
「エリューは目立つのですから、もう少しお気をつけください」
「……うん」
王子は笑った。
「次は、あっちの通りへ行こう。あそこなら人も少ないから」
「まあ。何かあるのですか?」
「行ってからのお楽しみ」
くすくすと笑いながら、クラウディアが差し出された手を取る。
王子はその手を握り返した。
――今日は、最後まで。
そうして二人は、人通りの少ない路地へと足を向けた。
その後ろでは、先ほどの女性がいつまでも頭を下げていた。
やがて事情を察したらしい店主も、通りすがりの老人も、誰一人として二人を呼び止めることはなかった。
ただ、遠ざかっていくクラウディアたちの背中を見送りながら。
ひとり、またひとりと。
静かに頭を垂れていた。
広場へ続く大通りへと出ると、クラウディアがふと足を止めた。
視線の先にいたのは、色とりどりの風船を売る男だった。
赤に青、黄色に薄桃色。
丸く膨らんだ風船が束になって、風が吹くたび、空へ逃げ出したそうにふわふわと揺れている。
子どもたちが親の手を引いて駆け寄っていく。
一本ずつ手渡された風船を嬉しそうに掲げる姿を、クラウディアは少し離れたところからぼんやりと眺めていた。
欲しい、とは言わない。
ただ、珍しそうに見上げている。空を漂うように浮かぶ風船なんて、初めて見たのだ。自分の呼気で膨らますだけじゃ、あんなふうに空に飛び立ちたがりはしないのに。
どういう技術なのだろうか。――自分が少し、家に引きこもってる間にもこんなふうに目新しいものはどんどん街に溢れていっているのだ。そんなことを、ぼんやり理解する。
「クラウディア」
「はい?」
呼ばれて振り向いた、その一瞬。
王子は繋いでいた手を離した。
「あ……」
何か言う間もなく、人混みの向こうへ行ってしまう。
どうしたのだろう、と首を傾げて待っていると、ほどなくして戻ってきた彼の手には――薄桃色の風船がひとつ、揺れていた。
「はい」
「……え?」
差し出された紐と彼の顔を、クラウディアは交互に見る。
「わたくしに、ですか?」
「他に誰がいるの」
呆気に取られたまま、細い紐を受け取った。
頭上で、ふわりと風船が揺れる。
「……かわいい」
ぽつりと零れた声に、王子が笑った。
「やっぱり欲しかったんじゃないか」
「欲しいとは申しておりません」
「ずっと見てたでしょう」
「珍しかっただけです」
「じゃあ返してくる?」
クラウディアは無言で風船の紐を胸元へ引き寄せた。
「返しません」
思いのほかきっぱりとした返答に、王子が吹き出す。
「気に入った?」
「……はい」
ほんの少し恥ずかしそうに、それでも嬉しさを隠しきれずに頷いた。
再び歩き出してからも、彼女は何度も頭上を見上げていた。
歩くたびについてくる薄桃色の風船。
風に煽られて右へ左へ揺れるたび、目で追っている。やがて強めの風が吹き、風船が大きく引っ張られた。
「きゃ……っ」
慌てて紐を両手で掴む。
「飛んでいってしまうところでした」
「手首に結んでおく?」
「……お願いします」
王子が立ち止まり、彼女の細い手首へ紐を結んでやる。
これでもう大丈夫だと告げれば、クラウディアは手首から伸びる紐を辿って、もう一度空を見上げた。
夕暮れの空に、薄桃色がひとつ浮かんでいる。
「ふふ」
小さな笑い声が聞こえた。
見ると、彼女は風船を見上げたまま笑っていた。
行儀よく整えられた微笑みではない。
幼い子どものような、無邪気な笑顔だった。
王子はしばらくそれを眺めてから、何も言わず、もう一度彼女の手を取った。
その後の帰りの馬車までの道。
二人の少し後ろを、薄桃色の風船が楽しげについて回っていた。
◆◇
前王妃クラウディア。
生涯を賭し、この国に献身を捧げ、ただ一人の夫である前国王エリュグランドを隣で支え続けた女性。彼女は外交に長け、また自身が幼少期は病弱だったこともあり国内の医療関連に対する積極的な介入、そして奉仕活動に身を投じ、その功績から国内外から人気の王妃だったという。
ただ、最愛の夫であるエリュグランドが崩御後は心身ともに弱り、床につくことが多くなった。
医師団は手をつくしはしたが、やはり寄る年波には勝てない。いよいよ起き上がることもままならなくなった彼女を囲み、その最期の時を彼女の家族らが取り囲んだ。時折誰かがすすり泣く音に、彼女の細い息の音が絡む。目はほとんど開かない。
いよいよこれが最期のひと時なのだと、その室内にいる誰しもが覚悟したとき。
不意に、クラウディアの目がうっすらと開く。そして、一番傍の傍ら――息子である、現国王陛下の傍らにいる孫へと目を向けた。
彼女は何度か瞬きして孫へと目を向ける。彼女は、力を振り絞るように、その細い指先でちょいちょいと孫を呼ぶ。
「きて、……そう、あなた」
掠れた声で前王妃が呼ぶ。その目は虚ろながらも、しっかりと一人を呼んでいた。
一瞬、孫――王子は躊躇うように自身の父を見上げるが、父は何度か頷くのみだ。それを見て、王子は一つ頷いて、クラウディアの指先をそうっと握った。壊れないように、優しく。
クラウディアの指先は冷たい。温めていなければ、そのままふっとどこかに飛んでいきそうなほどに。
手繰り寄せるように、王子は一瞬だけ、僅かにつなぐ力を強くした。
「あ、僕はね……エリュ……」
「ちがうわ、本当の、……名前を」
彼女は、はっきりと言う。
それに、室内にいた誰もが息を呑む。
彼女はここ数ヶ月、意識がはっきりとしていなかった。
年による認知の歪み。そのために、自身の年齢も環境も理解できず、家族の存在も、自身の立場も理解できていないのが常であった。
最近の彼女はずっと、公爵令嬢クラウディア・エーレンベルクでしかなかったのだ。
そして時折、婚約者だったエリュグランド国王がいないと気付き、幼子のようにわんわんと泣く。エリュグランドを連れてきてと。
そんな状態の前王妃の様子に、王室も胸を痛めた。
そして国王は、先祖返りと言われるほどにエリュグランドと瓜二つの息子に、頭を下げて願ったのだ。
エリュグランドとして、公爵令嬢クラウディアをエスコートしてほしいと。出歩ける最期の機会に、一度だけ頼むと。
――そんな状態だったクラウディアが。
今、この最期の時、少年を、エリュグランドではないと認めている。
穏やかに。その瞳は確かに――国王がずっと敬愛し、幼き日はその背に縋った母の姿だった。
国王は瞬きもせず、ただ肩を震わす。この一瞬を何も見逃したくないのに、勝手に零れ落ちる涙がとても邪魔だった。唇を噛み締めていると、彼の肩に寄り添うように、同じく涙を零す妻の手が掛かる。
「リュシグランド……」
「そう……リュシー……。素敵な夢を、……見せてくれてありがとう」
クラウディアは、そう言って、ほんの僅かに口端を上げて――確かに笑って、逝った。
前王妃クラウディアの葬儀は、国を挙げて大々的に行われた。
人々に愛された前王妃の死に国中が涙を流し、黙とうの時間には誰しもがその手を止め、彼女の冥福を心から祈った。
彼女の埋葬後、その墓標に彼女が好きだったというダリアをそっと置いた後、リュシグランドは少し不安げに父を見上げた。
「僕の演技がわるかったから、お祖母さまにばれてしまったのかな……」
「違うよリュシー。お前の演技が素晴らしかったから、最後お祖母様はお祖母様として、逝けたんだ」
国王はまだ少し赤い目元を綻ばせながら、リュシグランドの頭を撫でる。
そうして、リュシグランドの従者に命じて、彼が持ってこさせていたあの日の風船をそっと手放した。それが、ふわりふわりと空を旅していく。
「旅立ちは……、遺された者にとってはとても寂しいけれど……、天国でエリューお祖父様が首を長くしてお祖母様を待ってるから、しょうがないね」
息子に言い聞かせるというよりは、自身に言い聞かせるように王はそう言う。
そしてリュシグランドを抱き上げてぎゅっとその背に手を回した。
『お祖父様……エリュグランドとして振る舞ってほしいんだ。そして、どうかお祖母様の言うことを何も否定せず、楽しく過ごさせてやってくれないか。……リュシーにしか頼めないんだ』
それは国王としてではなく、クラウディアの息子としての、たった一度、私的な思いでリュシグランドに託した"お願い事"だった。
それを、見事に叶えてくれた王子に、精一杯の感謝を込めて。
◇◆
――なんだなんだクラウディア。気づいてったってのか。
――ええ、あの頃のあなたはあんなに素敵に私をエスコートなんかできませんでしたから。
――そんなことないだろう? 僕だってあのくらいできていたよ。
――いえいえ。まさか。あの子は、大切な私たちの孫で、そして息子の子だからあんなに完璧だったのですよ。
――相変わらず、なんだかいい感じに言いくるめてくるなぁ、君は。……まあいいや。待ちくたびれたよ、君にね、見せてあげたいものがたくさんあるんだ。暇つぶしにたくさん散歩をしていろんなものを見つけといたからね。
――あらあらそれは……、楽しみですわね。
そんなことを言いながら、楽しそうに寄り添う二人はそっと手を繋いでゆっくりと昇っていく。
その後を、薄桃の風船だけがふわりと揺れてついていった。
End.
私事ですが、今日が父の誕生日でした。文筆業だった父がいなかったら確実に私は小説を書いていません。いつまでもずっと尊敬する父です。父が居なくなって二回目の誕生日、まだまだそこにいるような気がしております。
お盆は終わり、残暑も厳しくなっておりますが、皆さまどうかご自愛ください。




