<EP_009>救世主の蜃気楼
信号待ちで車が止まり、私は横にそびえる富士山を仰ぎ見る。
距離を置いたせいか、あの痛々しい大沢崩れも今は目立たなかった。
当時の私の社内評価は、おそらく次のようなものだったはずだ。
男性陣は「困ったら清水を呼べ。捕まる率は低いが、一日一回は巡回に来るから、その時に捕まえればいい」という、野良猫を待つようなスタンス。
対して女性陣は「困ったらとにかく呼べ。呼んでおけばそのうち来る」という、デリバリー感覚の要請だった。
特に営業のAさんなどは、飲み仲間という気安さもあって「清水く〜ん、ちょっと来てぇ〜」と、その風貌に似合わぬ猫なで声で頻繁に内線をよこした。
「隣のBくんやNさんはいないんですか?」と抵抗しても、「待ってるから〜」と一方的に切られるのが常だった。
念のために補足しておくが、Aさんは大黒様をそのまま人間界に降ろしたような容姿の女性で、私の恋愛対象からは完全に外れていた。
さて、問題のYちゃんは、N室長が率いる部署へと配属された。
彼女はデジタルに極端に弱いわけではなかったが、実務をこなすには心許ないレベルで、色々と行き詰まっていたようだ。
当時の私は、後述する新人のAちゃんに心血を注いでいたため、彼女のSOSには主にN室長が対応していた。
私が「大事にしていた」Aちゃんだが、これは決して不純な動機ではない。
彼女には入籍間近の婚約者がいたし、私が彼女に固執したのは、彼女が「元情報科」でシステム構築を学んでいたという情報を掴んでいたからだ。
その噂を聞きつけた私は、「これでようやくパッチ地獄から解放される!」と、救世主を拝むような気持ちでいた。
Aちゃんが独り立ちしたという報告を聞くや、私は手ぐすね引いて彼女の部署からの不具合報告を待ち構えた。
ついに内線が鳴った時、私は小躍りしたい衝動を抑え、低めの声で応じた。
「それ、Aちゃんに任せてみませんか? 彼女なら、きっと直せるはずですよ」
しばらくすると、案の定、Aちゃんが困惑した表情で企画広報部を訪ねてきた。
「あの、清水さん……どういうことですか?」
「ん? Aちゃんは情報科出身だろう。これくらい、朝飯前かと思ってね」
私は臆面もなく言い放った。
「無理ですよぉ」とこぼす彼女に、「入力ミスか、こことここを繋ぐパッチを当てればいけるはずだ。頑張ってくれ。俺も広報の仕事が山積みでさ」と、適当な理由をつけて丸投げした。
不具合の難易度は、彼女の実力を測るテストとしては誂え向きだと踏んでいたのだ。
昼休み、誰もいない喫煙所で紫煙をくゆらせていると、Aちゃんの部署の室長がやってきた。
「清水、悪い。まだ直らないんだよ。お前がやってくれ」
「……そうですか。なるはやで見ておきますよ」
私は素っ気なく答え、昼休み明けに彼女の元へ向かった。
「Aちゃん、頼んでおいた件はどうなった?」
「え? 最後は清水さんがやると思ってたので、何もしてません。入力ミスもありませんでしたし」
彼女は隠そうともせず、不快感を露わにした。
「そうか。だが室長が急いでいるんだ。プロトタイプでいいから、手を動かしてくれないかな。頼むよ」
そう言い残し、私は早々に立ち去った。
帰り際、室長に遭遇したので「Aちゃんに任せました。少し時間をあげてください」と釘を刺すことも忘れなかった。
翌日、Aちゃんは完璧なプロトタイプを持ってきてくれた。
彼女が書いたコードは、独学で泥臭い修正を繰り返してきた私のものとは比較にならないほど美しく、整理されていた。
久々に目にする「正しいコード」に、私の心は躍った。
(さすがじゃの。これで、俺の負担は劇的に軽くなる!)
内心でガッツポーズを決めながら、私は彼女のコードを読み、最小限の調整を加えた。
いつもの「大雑把すぎるデバッグプログラム」で動作を確認し、そのまま彼女の部署へ納品した。
「Aちゃん、素晴らしいですよ。さすが専門教育を受けてきただけはあります。俺以上の逸材ですよ。期待していいですよ」
室長に対し、私はこれでもかと彼女に太鼓判を押して回った。
今にして思えば、あの時のAちゃんは、私を恨めしそうに、あるいは殺意に近い眼差しで睨みつけていたのではないだろうか。




