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<EP_008>天龍源一郎と魔性の女

車が海岸線を抜け、富士市へと差し掛かる頃、富士山の威容が再び視界の端に滑り込んできた。


O室長が去った後の広報部には、後任としてT室長が赴任してきた。

T室長は極めて温厚な人格者で、仕事の進め方も鮮やかだった。

ただ、徹頭徹尾「私はデジタル方面はさっぱりでね」と公言して憚らないアナログ派でもあった。

結果として、広報部の「デジタル担当は私。アナログ担当は室長」という明確な役割分担が出来上がった。

彼は私が抱えていたシステムの負担も正当に評価してくれ、「残業も認めるし、そのための時間も確保しよう」と配慮してくれた。

煩雑な議事録のデータ化も庶務課に割り振ってくれたおかげで、午前はシステム修復、午後は本来の広報業務という理想的なルーチンが固まりつつあった。


この頃になると、現場のベテラン社員たちの間にも「システムの出力はあくまで目安」という共通認識が浸透し、理不尽な不具合報告も目に見えて減っていた。ようやく、私は安穏とした日々を取り戻したのだ。


ただ、弊害もあった。

私はいつしか「全部署の業務を把握している便利な中堅社員」として、社内で特異なポジションを確立してしまっていたのだ。

「デジタルで困ったら清水に聞け」という奇妙な習慣が根付き、内線で「それなら隣の部屋のBくんに聞けば分かりますよ」と伝えても、「いや、清水くんに来てほしいんだ」と名指しでの要請が入る。

(なんでじゃあ! 隣の部屋じゃろが!)

心の中で毒づきながらも、呼び出された部署へ向かうのが常だった。

私が一度企画広報部を離れるとしばらく戻ってこないというのは、T室長のいつもの見立てだったらしい。

そんな穏やかな日々が一年半ほど続いた。


ある年の新年。社長による新年の挨拶が行われた時のことだ。

登壇した社長の声は、ひどい風邪のせいでガラガラを通り越し、もはや何を発声しているのか聞き取れないレベルだった。

静まり返る会場。

全員が真剣な顔で「……え、なんて?」と耳を澄ませる中、私はポケットから携帯を取り出し、こっそりとある画像を表示させた。

プロレスラー、天龍源一郎。

隣にいたMに、その画面をスッと見せる。

Mの肩が、目に見えてビクッと跳ねた。

「……っ……ふぐっ……」

必死に笑いをこらえ、顔を真っ赤にして俯いて小刻みに震えるM。

それを見て、今度は私の方が限界に近くなる。

社長の厳粛な(しかし聞き取れない)訓辞が続く中、私たちは下を向いたまま、笑い死にそうな恐怖と戦っていた。


その頃、中途採用でYちゃんという女性社員が入社してきた。

彼女はバツイチで子供はおらず、一言で言えば「かなりの美人」だった。

しかし、彼女は自らの美貌を自覚しており、その影響力を使って周囲の男を手玉に取ろうとする、計算高い一面も持ち合わせていた。

加えて少々ヒステリックな気質があり、一度機嫌を損ねると手がつけられない面倒なタイプでもあった。

社内での彼女の評判は分かれた。女性陣からは嫌われ、男性陣は「怖い」と怯える派、鼻から「無関心」な派、そして「熱烈なファン」派に分かれた。

Kくんは前者の「怖い」派、T室長は中立の「無関心」派。

そして私はといえば、彼女の振る舞いを「手玉に取りたいなら、いくらでも踊ってやろう」と面白がり、あえて寛容に、好意的に接していた。

友人のMも同意見で、「楽しく掌の上で転がされようぜ」と笑い合っていたものだ。

この「大人の余裕」を気取った振る舞いが、後に私に厄介事を持ってくることなど、当時の私は知る由もなかった。

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