<EP_007>最初の胃潰瘍
軽自動車が国道1号線に入る頃には、車窓の前方にあった富士山の影は、既にどこにもなかった。
この時期、私とO室長の関係は最悪の一途を辿っていた。
社内であちこちから頼りにされる私と、誰からも疎まれるO室長。
どちらに相談事が舞い込みやすいかは、火を見るより明らかだった。
庶務課へ行けば、毎度のように室長に怒鳴られている私の姿が社員の目に留まる。
食堂にも喫煙所にも顔を出さなくなった私を、周囲は本気で心配し始めていた。 特にMやAさんは、Kくんを誘って何度も私を飲みに連れ出してくれた。
後で知ったことだが、当時のO室長は深刻な家庭問題を抱えていたらしい。どこかのホステスに入れあげ、家に帰らなくなっていたという話だ。
それを聞いた時の私の感想は「そんなん、知らんがな……」という、ただそれだけだった。
深夜の倉庫での残業を「隠蔽」するため、私は毎朝、誰よりも早く出社しては社用PCをこっそり自席に戻すことを日課にしていた。
だが、その頃から身体が異変を告げ始めた。
出社しようとするだけで激しい胃痛に襲われるのだ。
社内にいる間は常に胃を掴まれるような痛みに苛まれるのに、夜の倉庫や自宅にいる時だけは、嘘のようにその痛みが引いていった。
ある朝、いつものようにPCを戻し、何食わぬ顔でメールの確認をしていた。
そこへO室長が出勤してきた。
彼の顔を見た瞬間、猛烈な吐き気が込み上げ、私はトイレへ駆け込んだ。 便器の中に吐き出されたのは、真っ黒な液体だった。
(……血?)
一瞬、頭が真っ白になった。私は震える手で口を拭い、自席へ戻ると、とりあえずの業務を驚異的なスピードで片付けた。そのまま、午前中で早退することを告げる。
「早退ねぇ。先に言っておいてもらわないと困るんだけどな」
背後から投げられた室長の言葉は、今でも耳の奥にこびりついている。
(体調不良が事前に予知できたら苦労しないんじゃ……)
怒鳴り散らしたい衝動を必死に抑え込み、私は軽自動車を走らせて病院へ滑り込んだ。 「胃カメラを見ないとはっきりとは言えないけど、まあ、胃潰瘍だろうね。薬を出しておくよ」
医師のそっけない診断だったが、処方された薬を飲むと、幾分か痛みは和らぐ気がした。
後日の検査では、胃の壁に生々しい潰瘍の痕が刻まれていたことが判明した。
滅多に欠勤や早退をしない私が倒れたことで、施設長にも連絡が入ったらしい。
その日の午後、施設長とO室長が応接室で激しく怒鳴り合っていたという話を後から聞いた。
この件を境に、社内におけるO室長の孤立は決定的なものとなった。
もっとも、彼は支社が新設される前から、本社でも「嫌われ者」として有名だったようだ。
本社からの飛ばされ組、というのが実態だったらしい。 私も支社立ち上げ前の研修で本社にいた時期があったが、確かに彼の良い噂は耳にしなかった。
真面目に働いている姿は見ていたので当時は気にしていなかったが、「危ない奴だ」と誰か先に教えてくれればよかったのにと、今更ながらに思う。
一ヶ月後、O室長は本社へ呼び戻され、そのまま退職したと風の便りに聞いた。




