<EP_003>はじまりは、一つのマクロ
車が御殿場を過ぎ、三島に入る頃には、あんなに執拗だった富士山もようやく視界から消えていった。
私はどこか虚ろな心地で、昔のことを思い出していた。
始まりは、ある日の些細な光景だった。
O室長がデスクで、分厚い紙の束を前に頭を抱えていたのだ。
打ち終えた議事録を室長の未決箱に放り込むついでに、その束を盗み見る。
「事故報告書」――現場でのヒヤリハットや事故の記録をまとめたものらしかった。
「どうかしたんですか?」
私が声をかけると、室長は顔を上げずに応えた。
「来週の会議で使うんだが、どうまとめればいいものかと思ってな」
パラパラと中身をめくってみる。
原因、事故の種別、発生時間……データとしては揃っている。
これらをExcelに分類し、頻出する時間帯や種類をグラフ化すれば、深刻な事例に絞って所見を述べるだけで立派な資料になるはずだ。
「集計してみればいいんじゃないですか?」
「この量をか?」
驚いたように聞き返す室長に、私はつい口を滑らせた。
「二日もあれば、私が集計しておきますよ」
前の会社で似たようなシステムを組んだ経験があった。必要な項目だけを打ち込むフォーマットさえ作ってしまえば、造作もないことだと思えたのだ。
私は室長のデスクから報告書の束を拝領すると、自席で記憶を頼りに簡易的な集計シートを構築し始めた。
枠組みさえできれば、あとはひたすらデータを放り込むだけだ。
ルーチンワークの合間を縫って入力を進める。
三日後、私はグラフ付きの資料に簡潔な所見を添え、室長へ提出した。
室長は「ありがとな」と、相変わらずぶっきらぼうに言った。
(これで少しは、当たりが柔らかくなれば良いんじゃが……)
そんな淡い期待を抱いていたのを覚えている。
会議の前日、私は本社の担当者へデータをメールし、当日にプリントアウトしてもらうよう手配を済ませた。
本社での会議から戻った室長は、見違えるほど上機嫌だった。
「いやぁ、清水くん。君の資料、ものすごく評判が良かったよ。来月分もぜひ頼みたいってさ」
満面の笑みで頭を掻く室長を見て、私の顔は引き攣っていたに違いない。
(ほなら、次からは自分でやりゃええが……)
喉元まで出かかった毒を、私はどうにか飲み込んだ。
こうして翌月から、私の業務に「事故報告書の集計」が正式に加わった。
支社全体で効率化を図ろうと、他のメンバーにも集計シートの使い方を説明したが、「そんな暇はない」と一蹴された。
(俺だって暇じゃないんじゃ!……いや、片手間で終わるんじゃがな)
心中で悪態をつきながら、私は孤独な入力作業を続けた。
そんなある日のことだ。
「清水く〜ん」
隣の庶務課の女子社員から声がかかった。
振り向くと、彼女はPCの画面を睨んで困り果てていた。
「どうしました?」
「この勤怠表なんだけど、同じ数字を何度もコピペしなきゃいけなくて。何か楽な方法ないかなぁ」
私は「一時間だけ時間をください」と言って自席に戻り、ごく簡単なマクロを組んだ。
彼女の席へ戻り、目の前でマクロを走らせる。
数分後、彼女を悩ませていた作業は一瞬で完了した。
「わぁ、すごい! ありがとう!」
弾けるような笑顔を向けられ、私は(……今までやっとらんのが不思議なんじゃ。なにしとったん?)という疑問を抱きつつも、「いえ、Excelの基本機能ですから」と、そっけなく答えて席を立った。
これが、決定的な間違いだった。 集計システムの構築、面倒な業務の自動化。
それらをこなした私は、周囲から「システムを自在に操る魔法使い」か何かのように崇められ始めたのだ。
ここから、私の地獄が幕を開けた。




