第十九話 トップ会談と、国の行方と。
山の空気は冷たい。
だが、源泉の湯気はやわらかく立ちのぼり、
その一角だけが別世界のように温かかった。
岩を積み、流れを整えた湯船。
まだ粗削りだが、湧き出る湯の力は本物だ。
俺は、静かに息を吐いた。
約束の刻限。
最初に現れたのは、
フィオラとアルヴァルド=ブレイヴェン王だった。
事前の依頼通り、護衛も、従者もいない。
外套を羽織っただけの、素朴な男。
王と言われなければ、気づかないだろう。
だが、凛とした立ち姿だけは揺るがなかった。
「来たぞ」
短い言葉。
俺は頷いた。
「ありがとうございます」
王は湯気を見つめる。
「……妙な場所に呼び出すものだな」
「今日は、俺の進め方に従ってもらいます」
「分かった」
王はそれ以上何も言わなかった。
やがて、背後の林がわずかに揺れる。
遅れて現れたのは——ラグナ=ローランド。
こちらも、一人。
腕を組み、王を一瞥し、鼻で笑う。
「……本当に一人かよ。大した度胸だな、王様」
王は静かに返す。
「そちらもな」
空気が張り詰める。
俺は間に立った。
「安心しろ。今日は争うつもりはない。
フィオラの顔を潰すわけにはいかないからな」
ラグナが肩を鳴らす。
フィオラは、うまく立ち回ってくれたみたいだ。
しばらく、無言のまま目を合わせる二人。
沈黙が、お互いの立場を表している。
俺はその沈黙を壊すように言った。
「じゃあ、始めます」
イエナとミサキにその後の準備を依頼し、
俺は王とラグナを簡易脱衣所へ案内する。
板張りの小屋。
中には布と桶を用意してある。
「まず、服を全部脱いでください」
王が眉をひそめる。
「……は?」
ラグナが吹き出す。
「はは、なんだそれ」
「俺の国の作法です。裸になって、余計な立場も脱いでください。ここからは、皆ただの男です」
俺は用意していた布を渡した。
「これを腰に巻いてください」
王は一瞬ためらったが、ゆっくりと外套を脱ぐ。
ラグナも、無言で上着を脱ぎ捨てた。
傷だらけの体。
闘技場の歴史が刻まれている。
王の体は、鍛えられてはいないが、年相応に引き締まっている。
「桶で湯をすくって、体を流してください」
「……戦の前の儀式か?」
ラグナが言った。
「戦いになるようなら、即座に中止します」
俺は、少し怒って言った。
「……冗談だよ」
ラグナは肩をすくめた。
ぎこちない沈黙の中、
二人は黙って湯をかぶった。
湯気が立つ。
そして——
「それでは、この中に入ってください。
足からゆっくりと。最後は、肩まで」
湯に浸かった瞬間。
王が小さく息を漏らした。
「……ほう」
ラグナも、目を見開く。
「……悪くないな」
山の冷気。
熱い湯。
肌を包む硫黄の香り。
湯気の中では、王も義賊も関係ない。
ただの男だ。
俺とタツオも入る。
しばらく無言。
湯の音だけが響く。
やがて、王が口を開いた。
「フィオラのことは……本当に感謝している。
私にとって、大事な姪だ」
ラグナの表情が変わる。
少し驚いた様子だ。
王からの謝意を、想定しなかったのだろう。
「そりゃどうも。でも……あんたらは、あの貴族を守った」
声が低くなる。
「俺をマルカドールに売った。それが全てだ」
王は、言葉を失う。
「感謝なんていらない。いますぐ奴隷貿易をやめさせろ」
湯気が重くなる。
王は、しばらく黙った。
返す言葉がない。
その沈黙こそが、真実だった。
俺は、あえて割り込まなかった。
二人の間に必要なのは、
言い訳ではなく、同じ湯に浸かる時間だ。
やがて、王が低く言う。
「……私も奴隷は廃止すべきと考えている」
ラグナが睨む。
「ならやれ」
「今止めれば、国が潰れる」
「貧民街は、とっくに潰れてるぜ。あんたらはそれを見てみぬふりしているだけだ」
湯が揺れる。
だが、それ以上口論は発展しなかった。
しばらく沈黙が続くと、俺の合図で湯から上がった。
用意していた木椅子に座らせる。
俺は、冷えた牛乳を差し出した。
「湯上がりは、これを飲んでください」
「……白いな」
王は訝しげに見つめる。
「ストーンバイソンの乳。煮沸して冷やしました」
ラグナが一気に飲む。
「……うまい」
王も驚く。
「甘い……」
やはり、風呂上がりの牛乳は、鉄板だ。
しかし、暴れるストーンバイソンの雌から牛乳を搾り取るのは困難だった。なんとかミサキの幻惑で眠らせて採取したが、これは式術が使えないと厳しいので、産業化は難しいかもしれない。
まぁ、今日は特別ということで。
そして、本日のメイン。
そばの出番である。
イエナとミサキが準備をしてくれている。
タツオは、なぜか布を丸めて頭に巻いていた。
「今日のは出来栄え完璧ですぜ」と、俺に言う。
職人気取りか……?
確かに、前回より長さの揃ったそばが、木の卓に並んでいる。
湯気の立つ椀。良い色をした麺。
そして——すりおろしたわさび。
二人が箸を持つ。
一口。
沈黙。
次の瞬間。
「……なんだこれは」
王が呟く。
ラグナが言葉を失う。
「……うまい」
俺は、静かに言った。
「この料理は、すべてこの国の素材で作りました。
つまりこれは、この国の財産であり、産業になります」
そば。
わさび。
塩泉。
「式術はほとんど使っていません。
特別な技術は必要ありません」
そば打ちは訓練が必要だが、
他は正直、誰にでもできる。
俺は二人を見る。
「必要なのは、汗をかく力だけです。
ラグナさん。レムナントの力を、強盗ではなく、生み出す力に変えるのはいかがでしょう?」
俺は続ける。
「この国の中で、富を奪い合っても国は強くなりません。
産業をつくり、外貨を獲得し、国を強くする。
——それこそが、貧困をなくすことに繋がるのではないでしょうか」
「確かに、貧民街のやつらは、仕事がなくて飢えているからな。労働力は山ほどある」
ラグナが答える。
「アルヴァルド王。あなたは、ブレイヴェンを観光立国として売り出してください。
奴隷をやめ、正しいやり方で外貨を獲得しましょう。
温泉と、料理。
それだけで、諸外国の富裕層は飛びついてくれると思います」
沈黙。
風が吹く。
王が、低く言った。
「……本当にできるのか」
「できる、できないではありません。
やるか、やらないかです」
ラグナが鼻で笑う。
「しばらくは、そっちに力を入れてみるか」
それに呼応するように、王が頷く。
「もし実現するなら——私は、すぐにでも奴隷貿易を廃止しよう」
その言葉は、覚悟だった。
翌日から。俺たちはラグナ率いるレムナントのメンバーに仕事を与えた。
ラグナと、フィオラも同行し、
その様子を真剣に見ていた。
頭の良いものには、温泉の運営方法や、飲食店の経営方法を。
器用なものには、タツオがそば打ちを。
体力のあるものには、塩泉から塩を精製する方法を。
こどもや、力のないものは、わさびやそばの栽培方法を。
一週間の指導で、彼らはそばを作ることができるまで成長した。
ついでに、山で取れる食材についても、植物博士のタツオがレクチャーをした。
食べられるきのこ、山菜。
食糧難問題も、これで緩和するだろう。
数日後。フィオラを通じて、
アルヴァルド王より、王宮に呼び出しがあった。
なぜか、ラグナもいる。
「今日こそ逮捕されるのか?」
ラグナが笑って言った。
王は、玉座に座っていた。
その横に、フィオラも座っている。
いつもの服装ではなく、より高貴な、正装とも言える服装だった。
「まず、テオロッドの皆さんに、御礼を言いたい。
何もないこの国のために、知識と技術と、立ち向かう勇気を与えてくれた。心より感謝申し上げる。
約束通り、マルカドール入国の手引きは責任持って行わせてもらおう」
アルヴァルド王は、そう言うと深く頭を下げた。
「そして、ラグナ殿。レムナントを率り、産業化に向けた技術習得を指揮してくれた。
先ほど、彼らが作ったそばを食した。
初めて食べたそばと、遜色ない出来栄えだった。
これまでの罪は不問とする。
引き続き、産業の開発に勤しんでほしい。
そして、約束通り、
——奴隷貿易の廃止を進めよう」
王は、ラグナを見ながらそう言った。
ラグナは腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。
すると、王は、従者を呼び、何か言付けた。
少し経つと、従者は誰かを連れてこちらに戻ってきた。
二人の女性。
全く同じ顔をしている。
「……兄さん!」
ラグナの体が止まる。
声を揃え、駆け寄る少女たち。
ラグナの元へ辿り着くと、声を上げて泣き始めた。
「マリア……? ダリア……?」
震える声。
「どうして……死んだはずじゃ……」
王が、静かに言う。
「フィオラを襲ったあの貴族は、ラグナ殿への逆恨みで、
こちらの二人を狙っていた」
ラグナの目が揺れる。
「その情報を聞きつけたフィオラからの頼みで、安全を確保できるまで王宮で匿うことにした。
——貧民街では死んだことにした。そうすれば狙われない」
ラグナが膝をつく。
妹たちを抱きしめる。
声を上げて、泣いている。
「フィオラ……どうして……黙ってた」
ラグナは、フィオラを見て言った。
涙を隠そうともしていない。
「私は、あの貴族
——ベラムの失脚を狙って動いていました。
ベラムは、奴隷貿易の首謀者です。
一度目の時も、膨大な釈放金で罪を逃れていました。
それどころか、裁判官を抱き込み、あなたに有罪を被せました。
私は、あの男を許すことができませんでした。
そして、この国にたまってしまった膿も。
ベラムの悪事の証拠を集め、もう少しで彼を有罪にできる。
そう思っていた時。
——あなたが帰ってきた」
フィオラは言った。
「あなたと、ベラムと再び出会ってしまったのは……
想定外でした。
ベラムは、怪我を負い、あなたの有罪を訴えましたが、
それは退けられ、逮捕されました。
横領と、罪人以外を奴隷にし、売買していた罪です。
ベラムの危険は去り、あなたにマリアとダリアのことを伝えようとした時。
——あなたは、レムナントを立ち上げました」
フィオラはゆっくりと続ける。
何かを思い出すように、ラグナは聞いている。
「私は、思いました。あなたのこの怒りが、この国への絶望が、もしかしたらこの国を変えてくれるのかもしれない。
それに、賭けてみたい。
そのためには——あなたの怒りの源泉を、失ってはならない。
マリアとダリアのことを隠していたのは、私の判断です。
本当に、ごめんなさい」
フィオラは、気丈に続けていた。
しかし、その頬には涙が伝っていた。
「私は、レムナントと行動を共にするようになってから、
叔父に——アルヴァルド王に、この国の問題を伝え続けました。
叔父も、それを分かってくれました。
だからこそ、辛かった。
同じ理想を持ちながら、相容れない二人のことが。
ラグナ。この場で伝えることではないかもしれません。
でも……私は、あなたを愛してしまっていました。
きっと、最初に助けてもらった、あの瞬間から」
唐突な告白に、一度言葉を失う。
ミサキが、なぜか目を輝かせている。
「この国を守りたい。そして、あなたのことも。
私は何もできない自分を呪っていました。
そこへ——テオロッドから、救世主が来てくれました」
そう言うと、フィオラは俺を見て微笑んだ。
フィオラが言い終えたと察したのか、
王が続けた。
「あの貴族——ベラムは、今、奴隷となった。
今は、マルカドールで闘士をやっている。
生きているかは知らんがな。
ベラムが消えた今、奴隷として売られているのは、
犯罪者だけだ」
王は言う。
「だが、奴隷そのものをなくすというのが、レムナントの思想だろう?そのために、この国はもっと強くならなければならない」
王はラグナを見た。
「ラグナ殿。民をまとめ、この国に新たな産業を切り開いてくれるか?」
ラグナは涙をぬぐい、立ち上がる。
「これまで見てきた地獄に比べれば……簡単なもんだな」
王が頷く。
そして、最後の爆弾を落とした。
「もう一つ頼みがある」
空気が止まる。
「私には子がいない。次の王位は、このフィオラが継ぐ予定だ」
なんと。俺は次期国王を伝達係として使ってたのか。
申し訳ない気持ちになる。
「だが、まだ若く、政を担うには経験が浅い。
それに、先ほど本人が言ったように、
——色恋に現をぬかしているようだ。
私はもう引退したいのに、困ったものだ。
そこで、私は妙案を思いついた」
王は続ける。
「ラグナ殿。フィオラと結婚し、貴殿が王にならないか。
この国を変えられるのは、世襲の王ではない。
強い意志と信念を持った、若い力だ」
——場が、凍った。
ラグナも、きょとんとしている。
少しすると、ラグナは大笑いをはじめた。
「元奴隷、反乱軍のリーダーが国王か、こいつは面白い。
そんな物語、聞いたことないぞ。
いいさ。やってやろうじゃないか。
だが、その前にひとつだけ言っておくことがある」
そう言うと、ラグナはフィオラの方を見て言った。
「フィオラ、お前の優しい心や、皆を和ませる笑顔は、俺が一番知っている。
だけど、身分が違いすぎて、言えなかったんだ……。
お前から言わせちまって、すまない。
——俺も、お前を愛している」
その後、ミサキが絶叫しながら大きな拍手をした。
それに釣られて、王宮は喝采に包まれた。
大円団。
と言いたいところだが…
俺たちには、シャイン=カムイの奪還という大仕事が待っている。ここで安心している場合ではない。
——が、今日くらいはいいか。
その夜、ミサキの提案というか熱望で、
結婚祝賀会が開かれることになった。
元々、俺たちに向けて感謝の会を開催予定だったようで、
題目が変わっただけだが。
俺たちは用意された食事を楽しむ。
王や、ラグナも、わだかまりなどなかったように酒を楽しんでいる。
フィオラが、衣装を着替えてやってくる。
今は亡き、フィオラの母の服とのことだ。
真っ白いその服は、まるでウエディングドレスで、彼女の清廉さをより際立たせていた。
「いいですね、こういうの」
イエナがそれを見ながら、笑いながら俺に言った。
同じ王姪という立場から、イエナはフィオラに自分を重ねているのかもしれない。
「イエナも、憧れるの…?その、結婚、とか」
俺は、勇気を振り絞って聞いた。
「もちろん。普通の女の子ですよ、私だって。
まぁ、その前に、ちゃんと恋をしたいですけどね。
ちゃんと」
そう言って、イエナは俺に悪戯っぽく言った。
その可愛さに、俺はもうそれ以上会話を続ける能力を失っていた。
向こうでは、タツオがそば打ちを始めている。
いつの間にか参加していたレムナントのメンバーがそれを見ながら盛り上がる。
タツオの横には、ミサキがちょこん、と立ちながら、さりげなくボディタッチをしている。
ミサキも、ちゃんと頑張っている。
俺も頑張らねば。
そう思っていると、アルヴァルドに声をかけられた。
俺は、王宮のバルコニーへ連れ出された。
「ユイト殿。この度は、本当にありがとう。
君たちのおかげで、やっとこの重荷を下ろせる」
王はそう言うと、正装の王冠を下ろした。
「……ラグナさんを王に、とは、前から考えていたんですか?」
俺は聞いた。
「前にも話したかもしれないが、彼は、私の若い頃に似ている。思想も、理想も。私と違うのは、実行する力と、人を惹きつける魅力だ。……私には、それが足りなかった。
彼なら、私の理想をかなえてくれるのかもしれない。
フィオラから彼の話を聞くたびにそんなことを考えていた。
しかし、決断できたのは……
——君たちのおかげだ」
王はそう言うと、何か憑き物が取れたような笑顔を浮かべ、
部屋に戻っていった。
そのままバルコニーで涼んでいると、
入れ替わるように、ラグナがやってきて、煙草に火をつけた。
「よう。お前ら、この国を変えちまったな」
「俺たちはきっかけを作っただけですよ。
それに、国が強くなるかどうかは、これから次第です。
——できますか?ラグナ王?」
俺は、ラグナにおどけて聞いた。
「王か。正直、全然実感はないな。
だけど、フィオラのことは好きだからな。
どちらと言えば、そっちのおまけみたいなもんだ。
——けど」
ラグナは煙を吹き出してから続けた。
「この国がまだ、腐り切ってなかったことが分かってよかった。
ベラム——あのクソ貴族はちゃんと罪を問われ、
マリアとダリアも……生きていた。
俺ができるのは、この国の民が、平和に、幸せに暮らせるように〝闘う〟だけだ」
その物言いに、これまで闘ってきたものの強さを感じた。
罪を着せられても、
奴隷になっても、
戦いの日々を過ごしても。
ラグナは、生きることを諦めなかった。
〝闘う〟ことで、人生を切り拓いてきた。
俺は、この男のように、強くなりたい。
そう思った。
二人で部屋に戻ると、
フィオラを囲んでイエナとミサキがなにやらキャイキャイしている。ガールズトークというやつか。
盛り上がっている。
タツオは、そば打ちで疲れたのか、椅子に座って寝ていた。
相変わらずどこでも寝られるやつだ。
俺は、この幸せな風景をずっと忘れないだろう。
ブレイヴェンの優しい夜は、静かに更けていった。




