エピソード・オブ・テリーズ
潮の匂いを、今でも時折思い出す。
干した網が風に揺れ、浜に打ち上げられた流木が、からりと乾いた音を立てる。
セイランは、海沿いの小さな漁村だった。
国の名を語る必要もない。地図に載らない場所だ。
だが、八歳のテリーズにとって、そこは世界のすべてだった。
父は寡黙な漁師で、母はよく笑った。
朝は早く、夜は暗い。
それでも、海は毎日そこにあった。
平和な日常を海がずっと見守ってくれる。
そう思っていた。
しかし、世界が音を立てて壊れるのは、突然だった。
空を裂く咆哮。
海鳴りとは違う、内臓を揺さぶるような低い音。
家が壊れ、木が折れ、人の叫びが途切れる。
魔獣の群れ。
タイドイーター、通称〝潮食い〟と呼ばれる熊型魔獣。
誰かの叫ぶ声が、村に響き渡る。
〝潮食い〟が出た。
数が多すぎる。女子供は逃がせ。
喧騒と怒号が、村を行き交う。
大人たちは武器を手にし、戦いに向かった。
テリーズは走った。
砂浜を転げるように。
振り返らなかった。
岩陰を見つけると、そこにうずくまり、息を殺した。
しばらくすると、静寂が訪れた。
覚えているのは、海が黒く見えたこと。
そして、村から立ち込める、血の匂い。
気がついたとき、夜は赤く揺れていた。
松明の光。鉄靴の音。
鎧が擦れる重い音が、波音を押しのけていく。
「……誰かいるのか?」
その声を聞いた瞬間、足から力が抜けた。
テリーズは岩陰にうずくまり、声も出せずに震えた。
影が差す。
「よかった。生存者がいたか」
低い声だった。
荒々しくはない。だが、迷いもなかった。
顔を上げると、傷だらけの騎士が立っていた。
頬に走る古傷。鋭い眼差し。
「名は?」
答えられない。
喉が凍りついていた。
男は小さく息を吐き、しゃがみ込む。
そして、自分の外套を外し、テリーズの肩に掛けた。
「……いい。今は黙っていろ」
その背後で、もう一人の騎士が魔獣の死骸を見下ろしていた。
言葉少なで、圧倒的な存在感。
後に知る名——ガルフ。
テリーズの前に立った男は、ガルフに言った。
「この子は、連れて帰ろう。
置いていくわけにはいかない」
「そうだな。その方がいい。
——お前が面倒を見ろ、バルガス」
その瞬間、テリーズの世界は終わり、
——始まった。
村が壊滅したこと。
それはつまり、父や母、友が死んでしまったと言うこと。
バルガスに聞かされた事実を、テリーズはしばらく受け止められずにいた。
テオロッドに連れてこられると、
保護者となったバルガスの家に住むことになった。
王宮を取り囲む石壁は冷たかった。
潮の匂いは消え、鉄と油と血の匂いに変わった。
夜になると、セイランの海が夢に出た。
目が覚めると、現実がある。
生き残った自分だけが、置き去りにされたようだった。
——それでも、毎日が続いていく。
バルガスは、自分のことを〝父〟とは呼ばせなかった。
「お前の父は、あの海で眠っている。
俺はただの保護者だ。そうだな、〝師匠〟とでも呼べ」
いつしか、バルガスに剣を教わるようになった。
体を動かすことで、何かを忘れようとしていたのかもしれない。
「お前のは、振り回しているだけだ。
自然に、剣の重さを活かせ」
木剣がぶつかる音が、朝の空気を切る。
転び、木剣であざができ、泣きそうになっても、
バルガスは言った。
「どんなに辛くても、剣を離すな。訓練の量は、裏切らない」
不思議だった。
剣を振る時間だけは、頭が静かだった。
一年後、テリーズは討伐遠征に同行するようになった。
まだ子供だったが、剣の腕は大人顔負けになっていた。
バルガスとの訓練で鍛えられた少女は、みるみる内に頭角を現していた。
次第に同行回数も増えていった。
だが。
——慢心が、凶悪な魔獣を呼んだのかもしれない。
サヴァンレオ。
少女であれば一飲みしてしまいそうなその魔獣は、大きな口を開けテリーズの後ろに迫っていた。
不覚だった。気配を悟れなかった——。
「テリーズ!」
バルガスの剣が、獣を断った。
一瞬だった。
倒れ込んだテリーズの前で、バルガスは荒く息を吐いていた。
頬に、新しい傷。
サヴァンレオの爪に、引き裂かれたのだろう。
「……師匠!……傷が…」
「こんなものはどうだっていい」
即答だった。
「怪我はないか」
「……はい」
「なら、それでいい」
その声に、嘘はなかった。
その瞬間、テリーズは悟った。
この男は、自分を拾っただけでなく、
——引き受けてくれたのだ。
テリーズはそう感じた。
バルガスがどう言おうが、
テリーズにとって彼は父親になっていた。
一年後、王宮に招かれた。
騎士団長であるガルフと、王妹セレフィアの息女のお披露目会という名目だった。
王族、騎士団から、関係者が大勢集まった。
場違いな空気にテリーズは緊張していたが、
初めて会った王族は想像より優しく、温かい人々だった。
王妹セレフィアは、柔らかな笑みを浮かべていた。
その腕に、小さな命があった。
「抱っこしてみる?」
恐る恐る差し出された命は、驚くほど軽く、温かかった。
小さな指が、テリーズの指を掴む。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「この子の名前は、イエナ」
セレフィアは穏やかに言った。
「……いつか、この子を守ってね」
その言葉は、王族としては命令でも誓約でもなかった。
ただの母親の願いだった。
テリーズは、その意味を理解しきれてはいない。
だが、その言葉を、生涯忘れることはなかった。
十六の年、神獣が王国を襲った。
書物にしか登場しない魔獣。
ドラゴン。
騎士団は戦った。
ガルフは先陣を切り、兵たちを鼓舞した。
だが多くの兵は倒れ、城壁は砕けた。
剣では届かない。
力では足りない。
国を救ったのは、セレフィアだった。
命を削る式。
光が夜を裂き、神獣は退いた。
だが、セレフィアは——残された時間を失った。
それから二年。
テリーズ十九の春。
寝台の傍で、セレフィアは微笑んだ。
横には、イエナがいた。
生まれたばかりだった赤ん坊は、
九歳になっていた。
あどけなさの残るその顔には、
母との別れを覚悟した強さを感じた。
「今のあなたなら……イエナを守れるわね」
それが、セレフィアの最後の言葉だった。
その日。
テリーズの剣は、イエナを守るためのものになった。
騎士団が変わったのは、ガルフが剣を置いた日からだった。
神獣との戦いの後、ガルフは団を去り、セレフィアの看病に専念した。
後任の団長に指名されたのは、バルガスだった。
強さだけを求め続けてきた剣士。
情より理を、理より剣を信じる男。
その背中を、テリーズは誰よりも近くで見てきた。
副団長として、テリーズは剣を振るい続けた。
命令をこなし、部隊を率い、
魔獣達の血にまみれる日々。
だが、模擬戦だけは違った。
木剣を持つたび、結果は決まっていた。
——勝てない。
何度挑んでも、バルガスの剣は、
半歩先にある。
速さではない。力でもない。
「剣との距離感」が、違った。
模擬戦のあと、バルガスは言った。
「剣と一体化しろ。剣があるべき場所に、
自分を持っていけ」
その言葉一つ一つが、テリーズの血肉となっていった。
テリーズ二十歳の年。
アークネイヴァー騎士団との合同訓練が行われた。
最後は選抜による団体戦。
先鋒は敗退したが、
副将のテリーズは勝利した。
残すところは大将戦。
テオロッド代表は、バルガス。
誰もが勝利を疑わなかった。
テオロッド最強騎士としての威厳。
騎士団長としての誇り。
だが、その全ては、アークネイヴァーの前に
あえなく崩れ去った。
敵将の名は、グラディオ。
一切の無駄がない剣。
技術と殺意が、完璧に噛み合っていた。
バルガスが初めて知る、敗北。
その日、バルガスは団長を辞任した。
後任に指名されたのは、テリーズだった。
夜。
荷物をまとめ、城を出ようとする背中を、
テリーズは呼び止めた。
「……アークネイヴァーに、行くんですね」
「お前には隠せないな」
「国を捨ててまで、あの男を倒したいんですか?」
バルガスは振り返らなかった。
「俺は、この世界の広さを知ってしまった」
静かな声だった。
「剣に生きる者として、
自分より強い相手に出会えたことは、幸福だ」
テリーズは、何も言えなかった。
「平和な国で、剣を鈍らせるより、
強者のいる場所で死ねるなら——それでいい」
そう言って、バルガスは去った。
時は流れ、現在。
バルガスが去り、五年が経っていた。
テリーズは騎士団長とイエナの護衛の兼務を、必死にこなしていた。
アレクシオがさらわれたと聞いた時は、
遠征を優先した自分を悔いた。
確かに、討伐遠征で多くの命を救ったかもしれない。
しかし、その間にイエナを、アレクシオを守れなかったら。
テリーズは、アレクシオの奪還に参加することを王に直接懇願した。
二度と、あんな気持ちは味わいたくはない。
ミサキと共に、テリーズは待っていた。
ユイトたちの帰還を。
不意に、あたりを人影に取り囲まれる。
現れたのは——。
——アークネイヴァー騎士団だった。
先頭に立つ男を見た瞬間、時間が止まった。
「ねずみが忍び込んだと聞いていたが……。
随分、凶暴なねずみのようだな」
バルガスだった。
背後には兵が十。
今にもこちらなら襲いかかってきそうだ。
テリーズは、ミサキを下がらせる。
だが、バルガスは剣を上げ、兵たちを制した。
「邪魔をするな」
低く、よく通る声。
「剣士は、剣士の戦い方がある。
——俺一人でやる」
テリーズは、無言でミサキを背に庇った。
「久しぶりにやろうか、テリーズ。
手加減はしない。——命のやりとりだ」
剣を抜く音が、夜に響いた。
「師匠……テオロッドに戻る気は、ないんですね」
「あぁ。一度国を捨てた。
今さら戻る場所などない」
剣が交錯する。
重い。
鋭い。
だが――遅い。
気づいてしまった。
バルガスは、もう全盛ではない。
「……っ」
胸が、軋んだ。
「テリーズ!!」
かつてと同じ叱咤。
「手を抜くな。
戦場では、いらない感情を殺せ!」
剣がぶつかり合い、火花が散る。
技と技が、真正面からぶつかる。
そして、確信する。
——弱くなっている。
年齢ではない。
剣に生きる理由が、変わっていないのだ。
ただ、強くなりたい。
守るべきもののない剣は——弱い。
テリーズは、咆哮を上げ、一歩踏み込んだ。
目には、いつからか涙が溜まっていた。
一閃。
剣は、腹を横一文字に裂いた。
バルガスは崩れ落ちた。
テリーズは駆け寄る。
「敵のところに…何の用だ…」
「敵である前に……師であり……父です」
声が、震えた。
「そして……尊敬する剣士です」
バルガスは、かすかに笑った。
「……育てた剣士に負けるのは……誉れ、だな」
血に染まる中で、その目は澄んでいた。
「最後に戦ったのが……お前で……
俺を倒したのが……お前で……
俺は……幸せだった」
「……父さん」
その言葉に、バルガスは目を細めた。
そして、静かに息を引き取った。
バルガスは、最後で剣士だった。
戦いを見ていた兵士たちは、もう戦意を喪失している。
テリーズが歩くと、兵が避け、道ができる。
ミサキのところへ戻ると、
「ユイトたちが、移動してるべ。アレクシオも、一緒だ」
ミサキが言った。
戦いの間に、すでに脱出を始めていたようだ。
奪還は、成功したようだ。
「分かった。…合流しよう」
テリーズとミサキは、
夜のアークネイヴァーを駆け出した。
バルガスが——父である師が憧れた男、グラディオ。
その男を倒すのは、私の宿命なんだろう。
——そう決めた。
私はテオロッドの剣として、あるべき場所に自分を置こう。
そう思う私もまた、剣士の矜持を受け継いでいるのだろう。
潮の匂いはもう感じない。
気がつくと涙が止まっているのを感じた。
一人称の限界で、挿話していかないと見えない部分が多すぎるので、ちょこちょこ飛び道具として使わせてもらいます……。
頼れる姐さんの過去から現在までをたどりました。




