事故物件に住む男
ゾッとするほどの白い手が俺に伸びてきた。
鍵を手渡してくれたアパートの管理人さんは、まるでホラー映画から抜け出してきたような女性だった。
膝の辺りまで伸びる長い髪に、古風なロングスカート。異常に大人しく控えめな口調で、顔を上げることも少ない。だが、何か……底知れないものをまとっていた。
「……ようこそ、及川さん。こちらが五号室の鍵です」
手渡された鍵には、ほんの僅かに鉄のような匂いがあった。
大学まで徒歩十五分、オートロック付き、風呂トイレ別。日当たり良好で、家賃は――なんと月に五千円という破格。
これが“事故物件”ということは知っていた。というか、それこそが決め手だった。
俺、及川 紫雨は、いわゆるオカルトマニアだ。月刊ミーは創刊号から読んでいるし、心霊検証系の動画チャンネルも複数登録している。幽霊が本当にいるなら、会ってみたい。
むしろ、出てくれ――そんな軽い気持ちだった。
そのときまでは。
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三日目の夜だった。
『コツ……コツ……』
天井の一角から乾いた音が響く。築数十年の古い建物だし、木が鳴っているだけかもしれない。自然にそう思おうとした。
が、それは決まって、午前二時ぴったりに鳴る。規則正しさがかえって不気味だった。
四日目。目覚めた枕元に、濡れた黒髪が三本落ちていた。冷たい感触が、じわりと頬に張りついた。
五日目。洗面所の鏡に、俺の肩越しに“何か”が映った。
一瞬のことだったが、焦げた皮膚のようなものと、じっとこちらを見ている黒い目だけは、はっきりと焼きついた。
部屋に“何か”がいる。それをはっきりと自覚した。
七日目の夜。横になって一瞬で強烈な金縛り。窒息するレベル。
天井を見上げると、黒い染みの中に、何かが埋まっていた。
肌のような質感。焼けた跡のような凹凸。目のようなものが、こちらをじっと見下ろしている気がする。
胸の内側から、凍るような嫌悪感がこみ上げた。
俺は布団を蹴って起き上がり、一階の管理人室のドアを叩いた。
「すみません……あの……部屋が……!」
息も絶え絶えに話す俺に、管理人は扉を静かに開いた。
「……落ち着いてください。中で話しましょう」
「は、はい……」
部屋には線香の香りと古びた畳の匂いが漂っていた。
俺はこれまでの異変を、できるだけ理路整然と伝えた。管理人は静かに話を聞き、途中で一度も驚かなかった。
そして、ぽつりと語った。
「……あの部屋には、妹が住んでいました」
「え?」
「失恋が原因で、自ら命を絶ったんです。……包丁で」
あの天井の焦げ跡が、頭をよぎった。
――あれは、血だったのか?
「……なぜ、それを黙っていたんですか……!」
「及川さん。あなたは、それを望んでいたのでしょう。事故物件、と知っていて選んだのでは?」
冷静すぎる口調が、かえって恐怖だった。
確かにそうだ。
これは俺が望んだ状況だ。
だがしかし、想像を遥かに超える事故物件だぞ、これは。
俺はその夜、震える手でスマホを開き、久しく連絡を取っていなかった幼馴染の名前を探した。
――牧寺 要。
今や『カナメ先生』の名で知られる、地雷系霊媒師インフルエンサーだ。この地雷系というのは、服装が地雷系だから、らしい。
カナメ:【……わたしに何の用?】
及川:【頼む……助けてくれ。ガチでヤバい】
カナメ:【……場所は?】
即レスだった。
翌日、彼女は現れた。
さらさらのツインテールの黒髪。けれど理知的な顔立ちと、感情を感じさせない目。昔とあまりに違う雰囲気に俺は少し複雑だったが、安堵もした。
「久しぶり、紫雨。顔色、ひどいね。まるでドザエモンみたい」
「そこまで酷いか。まあそりゃ……幽霊と一緒に住んでいれば生気も吸われるわ……」
「この部屋に入っただけでわかる。……これは非業の死を遂げた幽霊ね」
「マジか」
牧寺は手際よく香を焚き、紙札を貼り、呪符を壁に打ち込んだ。手際がいい。
静かな祈祷の声が部屋を包み、空気が重くなっていく。
天井の染みが微かに蠢いたかと思うと、何かが剥がれ落ちるような音とともに、息苦しさがスッと消えた。
「……終わり。今の霊は祓えた。わたしにすれば“中級レベル”だったから、問題ない」
その言葉に、ようやく俺は安堵の息をついた。
だが、牧寺はふと顔を曇らせた。
「そりゃよかった」
「……けれど、紫雨。あなたの部屋に残っている気配……全部がさっきの霊だとは思えないの」
「どういうことだよ」
「好奇心よ。“幽霊に会いたい”っていうあなたの熱。それに引き寄せられたものが、まだいる気がする」
言葉に詰まる俺を見て、彼女は肩をすくめた。
「もし、また何かあれば……。いえ、わたしでは無理かも」
おいおい、カンベンしてくれ。
◆
夜。
午前二時。
押し入れの戸が、静かに、だが確かに、勝手に開いた。
中には何もない。――そう思った瞬間、畳に落ちた黒い液体の染みがじわじわと広がった。
音もなく、そこから“何か”が這い出てくる。
焦げた肌。ただれた頬。骨が浮き出た手指。
その全身から立ちのぼる、湿った焦げ臭さ。
声はない。ただ、這い寄る音。
そして、隣に沈み込む体温の気配。
視線を感じた。
目を閉じても、開いても、そこに“いる”。
◆
それから数日後。
俺はアパートの五号室で頻発する霊障やらに相変わらず悩まされ続けていた。
だけど、俺は思ったんだ。
あの部屋をもっと多くの人に利用してほしいと。
俺と牧寺は、アパートの五号室で新たな動画配信シリーズを始めた。
タイトルは――『事故物件シリーズ』。
管理人さんの許可も得た。
妹の無念を多くの人に知ってもらえるのなら、構わないと。どうやら、妹を捨てた恋人を特定して罰を与えたいという気持ちがあるらしい。だから、利害が一致した。
牧寺の強力なインフルエンサー力もあって、動画および配信はすぐにバズった。
映像の中には、天井の黒い染み、押し入れの中の影、相変わらず俺を呼ぶような不可解なノイズも記録された。
そして今、五号室は無料の事故物件宿泊体験サービス――その名も『宵闇』として提供している。
泊まりに来たリスナーは、配信者として一夜を過ごし、体験談を動画にして投稿する。
中には、朝になっても目を覚まさない者もいたが、それもまた、視聴数を押し上げる理由になった。
今宵も、誰かが五号室に泊まりに来る。
そしてまた――
恐怖の悲鳴が、アパートの廊下に響き渡る。