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次の日、登校した薫子が教室に入った瞬間、一斉に学友に取り囲まれた。突然のことに何事かと薫子が戸惑っていると、みな誰が口火を切るのかと互いに顔色を窺っている。
「一体どうされたの?」
薫子が問いかけると意を決したように顔を上げた美世子が口火を切った。
「薫ちゃん、昨日、『てんぐ堂』に行ったって本当?」
「ええ。一昨日のお買い物のときにいただいた釣銭が多かったからお返しに」
大きくはない町のため、瞬く間にうわさが広がっていること自体は薫子も気にしていない。事実だけを淡々と述べると、落胆の声が周囲から上がった。
「……なんです?」
「だって、『天狗』様と一緒に仲睦まじい姿を見たって聞いたから」
仲睦まじい、という表現に自分の心が一瞬でも揺れたことを見透かされたのではないか、と焦ったが、それ以上に無責任なうわさを信じないでほしい、という気持ちが勝った。しかし、吹聴する前に本人に確認するところが学友たちの可愛らしいところでもあった。
「お金をお返しするときに無言というのもおかしいでしょう? 事実私が多くお金を持ち帰ってしまったのですし、謝罪しませんと」
商家の娘として真面目であろうとする薫子の気質は学友たちによく知れており、薫子が動揺も見せないとなると、途端に彼女たちは興味を失ったようだった。
その様子を見ながら、誰にもあのときの会話を詳細に聞かれていなくてよかった、と薫子は胸をなで下ろす。あの短い時間は間違いなく、甘く、美しく、きらめいていた。その時間を薫子はしっかりと自分の中にしまっている。宝石のように時々取り出して眺めるくらいでちょうどいいものだ。
「薫ちゃん、ちょっと」
休み時間になって美世子に手招きされた。やっぱり、と思いながら薫子は美世子の手招きに応じる。他の学友たちは薫子の態度に騙されてくれるが、幼いころから一緒にいる美世子ばかりはそうはいかない。
適当な空き教室に入ると、美世子は「薫ちゃん」と薫子の名を呼んだ。使っていない教室は少し湿っているうえに埃っぽく、窓から差しこむ光に埃が舞っていた。
「私には正直に話してほしいのですけど、昨日のことでまだ、話していないことがあるのではなくて?」
薫子を心配しているのだという気持ちが伝わってくる美世子の言葉に、薫子はどうしたものか迷う。だが、あれは他人に言うものではなく、薫子が大事に取っておくべきものだった。
「大丈夫よ。美世ちゃんが心配するようなことは何も起きていませんから」
「はあ……まあ薫ちゃんがそう言うなら……」
話さない、という薫子の決断に美世子が折れた。一度こう、と決めたときの薫子の意思が固いことは美世子もよく知っている。そうなればどんなに説得しようと、なだめすかそうと、薫子の意思を覆すことは難しい。
「でも、一つだけ私の話を聞いて。あの人がお顔を面で隠しているの、どうしてかご存じ?」
美世子の言葉に薫子は首を傾げた。顔を面で隠している理由など様々あるだろうが、そこを一々詮索するつもりはなかった。美世子も薫子がそのあたりに頓着しないことを知っている。外見の美醜に振り回されないのは好ましい気質であったが、同時に危機感が薄いことも示していた。
「色々言われていますけど、無頼漢のお尋ね者だから人前で顔をさらせない、という理由も否定できなくて……私、薫ちゃんに危ない目にあってほしくないだけなの」
「ええ」
「一番もっともらしいのは、先の露西亜に行かれていてお怪我の痕を隠されている、というお話だから、私もそうであってほしいと思っていますけど」
確かにそうであればいいだろうが、そうなると今度は――。
「それにしてはお若く見えましたけど……」
「人は見かけによらない、といいますでしょ」
露西亜との争いは十年近く前だった。当時出征できる年齢であれば、今は三十路か、少し超えたあたりだろう。
「そうなると今度は妻帯されていないのもおかしいでしょう? 何か理由があるのかもしれませんが、あまりいい理由があるとは思えませんし」
現在妻帯者ではないからといってすぐに不審人物扱いするのはあんまりではないか、町にも妻に先立たれた独居の男性がいるのだし、と薫子は思ったが、ここで美世子の話の腰を折ると更に話が長くなることは目に見えていた。
「ね、お願いだからあんまり危ないことしないでくださいまし。どんなに良い方に見えても本当のところはまったくわからないのですから」
「ええ。心配してくださってありがとう。本当に大丈夫よ」
にこり、と薫子は美世子に向けて笑顔を見せる。美世子はまだ何か言いたげに薫子を見ていたが、やがて小さくため息をついて「わかったわ」と短く言った。
「あら?」
その日の夕方、薫子はいつもの様に、家の横にある小さな祠の手入れをしていた。小さな鳥居まで設えてあるこの祠は、薫子の父曰く、高祖父がきちんと京都の稲荷神社に許可をもらい、商売繁盛を願って建てたらしい。百年以上前のことを〝きちんと〟と言ってよいものか薫子は疑問に思っていたが、祖母、母、姉と引き継がれて手入れをしていた祠のことを蔑ろにはできなかった。
榊の水を変えようと手を伸ばして、榊に紙が結びつけられていることに気づいた。不審に思いつつ、榊から紙を外す。外した紙を手に取ったところで、紙からほんのりとたばこが香った。
(――あ、)
兄や父が吸っているものとも異なる香りに、これはあさひから薫子に向けられた手紙なのだと直感した。年頃の娘である薫子を店に頻繁に通わせるとよくない、と昨日の会話から判断してのことだろう。よく誰にも見つからずにこの時間まであったものだ、と感心しつつ紙を開くと、流水のような手で書かれた短文があった。手紙というよりは日記に近い内容に薫子は無意識のうちに笑みをこぼす。
『庭の藤の花がそろそろ咲きそうです。藤はお好きですか?』
とくとくと血の巡りの速さを感じて、薫子は大きく息を吐き出した。
なんと返そうか、と考えながら薫子は手紙を丁寧にたたみ、懐にしまう。まずは榊の水を変え、その後すべての用事を終わらせてからゆっくり返事を書こう、と思った。すぐに返事を書いてしまうのはなぜかもったいない気がした。
そして食事や身の回りのことを済ませて、布団に入る前に薫子は筆を執った。ほんの一行しか書かれていない手紙への返事を書くのは思ったより難しかった。散々悩んだ末に、
『淡い紫色を好ましく感じます。花房が長く、近くで鑑賞できるのもようございますね』
と書いた。問いかけに対してはい、と答えるだけではあまりに素っ気なく、かといって好ましいと思う理由をつらつらと書くこともはばかられた。
(同じようにしたら、私の返事に気づいてくださるかしら)
あさひが返事に気づくときを想像しながら、祈るように紙を折りたたむ。ガラス玉のような目を細めたのち、丁寧に榊から紙を外し、持ち帰るに違いない、と薫子は思った。
あまり危ないことしないでくださいまし、と言った親友の声はすっかり頭から抜け落ちていた。