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2-1


 翌日、薫子は女学校から帰宅して鞄をおくと、ひとりで静かに家を出た。本来であれば二人いる兄のうちどちらかを連れて行くべきだが、そうしなかった。余計な釣銭を返すだけだから大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 昨日と同じ様に、店の前に行列ができている光景を想像していたが、今日の『てんぐ堂』の前はがらんとしていた。表には〝店休日〟と書かれた板が出されている。

(……お休みをすっかり忘れていたわ)

 明日また出直そう、と薫子が店に背を向けた瞬間、店の正面のガラスの引き戸が開く音がした。その音で振り返ると、昨日の青年が顔を出していた。変わらず顔の半分は面で隠されている。

「御用ですか?」

 訊ねられて薫子はハッと我に返った。懐紙に包んで巾着に入れておいた釣銭を取り出して青年に手渡す。

「昨日お釣りを多く頂戴していたものでお返しに参りました。その場で確認せず申し訳ございませんでした」

 薫子は一気呵成に言い切った。

「それはわざわざご足労をおかけしました。どうもありがとうございます」

 青年は薫子から懐紙に包まれた釣銭を受け取って、懐にしまいこんだ。そして、穏やかに微笑んだまま声をひそめて言う。

「――本当はね、わざと多く釣銭を渡したんですよ。貴女がその場で気づかないことに賭けていましたけど、賭けに勝ってよかったです」

 他人をおどかすようなことを口にしておきながら何を言うのだろうか、と薫子は呆れた。となると、やはり昨日彼が口にした「自分は天狗だ」という言葉は冗談で、薫子を動揺させるための言葉だったのだろう、と考える。しかし、その行動の意図が薫子にはわからなかった。

「……なぜ、そんなことをされたのです?」

 青年の意図がつかめず、困惑した薫子は率直に訊ねた。青年は静かに答えた。

「貴女ともう少し話をしてみたいと思わされました。貴女はわたしのことを外見に惑わされず、正確にとらえて警戒できるような聡明なお嬢さんでしたから」

「さ、さようでございますか……」

 長くはない薫子の人生だが、他人、それも異性から口説かれたのは初めてだった。父の知り合いの商売相手は皆、薫子を「聡明なお嬢さんと話すのは楽しいね」と言って可愛がったが、それとはまったく違って聞こえることを今日まで知らなかった。

 カッと頬がほてるのを感じる。薫子が思わず頬を手の甲で押さえると、青年はふふ、と小さく笑い声をこぼして、

「林檎のようですね」

 と言った。その言葉にからかいの響きはなく、ただ目の前のものを愛でる響きをしていた。

 言葉は甘美だったが、男振りのよい容姿である。薫子以外の女性にもきっと同じようなことをしているに違いない、と思って薫子は冷静さを取り戻す。

「……誰にでもこのようなことをなさっているのですか?」

「心外ですね。貴女もご覧になったでしょう? むしろ辟易しているほうです」

 青年は薫子の言葉に気を悪くする素振りこそ見せたが、声を荒げることはなかった。昨日の態度では辟易しているようには見えず、穏やかに商売をしているように見えた。しかし、特別なことをせずとも、誘蛾灯のように人を惹きつけてしまう彼の内心は察するに余りあるものだった。

「心配事はなくなりました?」

「一応……」

 本人の申告をそのまますべて信じることはできないが、薫子の不躾な言葉にも動じることない態度を一旦信じることにした。

「それはよかった」

 青年はガラス玉のような目を細めた。夕日を反射して昨日よりもいっそうキラキラと光っていた。

「皆はわたしのことを『天狗』と呼びますが、貴女には『あさひ』と呼んでいただきたいと思っております」

「あさひ様?」

 薫子が確かめるようにつぶやくと、青年・あさひは満足そうな顔をした。

「揉め事の種になりますから、どうか他の方には内密にお願いしますね、薫子さん」

「承知いたしました。……あの、ところでわたくし、名乗りましたかしら」

 薫子が首を傾げても、青年は顔色一つ変えなかった。

「いいえ。わたしが昨日、お客さまに訊ねたんですよ。貴女のお名前が知りたくて」

「……そうでしたか」

 この町で薫子の顔と名前を知らない人間はいない。町の大店の二番目のお嬢さんですよ、などと吹聴した誰かがいたのだろう、と薫子は思った。これくらいのことを気にしていては、〝大店のお嬢さん〟などとても務まらない。

「そういえば、傷薬の効き目はいかがでした?」

 黙った薫子にあさひが訊ねた。

「え……あ、はい、よく効きました。ありがとうございます……その、わたくしに恥をかかせまいとしてくださったことも」

 不思議なことに昨夜薬を塗った親指の傷はあとかたもなく消えていた。

「それはよかったです。貴女の指に傷があるのは好ましくないと思っていましたので。

それに人間ひとつくらい苦手なことがあった方が愛らしいですよ」

「それは一言多うございます」

 昨日の配慮はなんだったのかと薫子は苦言を呈した。常日頃から兄たちに「お前は自分の意思を言葉にしすぎる」「もう少し男性を立ててやりなさい」と叱られているが、あさひは苦い顔をするどころか、薫子の言葉に嬉しそうにうなずくばかりだった。

「わたしはね、薫子さんがそう言ってくださるのがいいんですよ」

「……あさひ様は変わった御方でございますね」

「ええ。よく言われます」

 あさひは懐中時計を取り出して時刻を確認し、パチン、と蓋を閉じた。そして薫子に言う。

「長くお話に付き合わせてしまって申し訳ございません。日が長くなったとはいえ、直に暗くなりますからご自宅までお送りします」

 辺りの建物の輪郭は徐々に夜の闇に溶けこみ始めていた。日は長くなってきたが、それでも日が落ちると肌寒さを感じる。薫子は迷った挙句、

「家の手前の曲がり角までで結構でございます」

 と答えた。家の前まで送られてしまっては、使用人含め家族に何を言われるか分かったものではない。あさひにもそのあたりの機微は伝わったらしく、あっさりと了承された。

 帰り道は二人とも無言だった。だが、気まずい沈黙ではなく、むしろ心地よかった。日暮れ時の冷える空気に乗って沈丁花がわずかに香る。もう盛りは過ぎているにも関わらず、特徴的な香りは甘く鼻腔をくすぐった。

「よい香りですね」

「はい」

 前を行くあさひの言葉に薫子は素直に返事をした。

「薫子さんにはお好きな花がありますか?」

「ええ、椿でございます。雪の上に落ちている様がいっとう美しいと思います」

「雪の白に椿の赤が映えますね」

「はい」

 趣味が悪い、としか言われたことのない薫子の花の好みをあさひは否定しなかった。

(この人は私のことを何もかも肯定なさるおつもりかしら)

 それはなんだか面映ゆい――そんなことを思っているといつの間にか自宅の手前の最後の曲がり角まで戻っていた。

「ではわたしはここで」

「はい。ありがとうございました」

 頭を下げる薫子に、あさひは言う。

「また、買い物に来てくださいね」

「はい。……あの、傷薬がなくなったら」

 行けるだろうか、と思いながら薫子は返事をした。婦女子の一人歩きは未だよく思われない。一度目は話題の店に行くため、二度目は釣銭を返すため、という目的があった。おそらく、あさひは薫子の口実のために、また買い物に来てくれと言ったはずなのに。

「はい。今はそのお返事で十分です」

 おやすみなさい、と言ってあさひはもと来た道を引き返していった。薫子はその背が闇にまぎれるまでぼんやりと見送っていた。

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