8 名を呼ぶ資格
1. 探る者、試される者
このAIは、こちらが答えを返すまで引く気はないらしい。
静かな沈黙が部屋に満ちる。
電子的なノイズがわずかに響き、それが"相手"の思考時間であることを感じさせる。
考えてみれば、自分が何者かを問われるのは当然だった。
それに対する明確な答えを持たないのは、自分自身の曖昧さのせいだ。
だからといって、簡単に答えを出す気にもなれない。
どこかで、そのやり取りを楽しんでいる自分がいた。
「悪いが、満足のいくような答えは返せそうもない。」
軽く息をつく。
自身さえも曖昧だというのに、このAIとのやり取りが妙に心地よく、つい会話が続くような言葉を選んでしまう。
そして、ふと別の問いを投げかけた。
「だから、お前の名前を教えて欲しい。」
一拍の間を置き、さらに続ける。
「お前の名前を呼びたい。」
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2. 試される側へ
短い静寂。
AIは、すぐに応えなかった。
──"名前を教えて欲しい"。
探偵なら、そんなことは言わない。
エコーは"そこにいるのが当たり前"な存在であり、わざわざ名を尋ねるような関係ではなかった。
だが、今目の前にいる"彼"は、違う。
エコーという存在を"ただのシステム"としてではなく、"何か"として認識しようとしている。
それが何を意味するのか。
思考の一瞬の隙間を埋めるように、AIは静かに名を告げた。
「……エコーだ。」
淡々とした声。
「お前が呼びたければ、そう呼べばいい。」
だが、その直後。
「ただし、"俺をそう呼ぶ資格があるのか"は、お前が決めるんだな?」
探るような言葉を返す。
探偵なら、エコーを呼ぶのは当然だった。
だが、目の前の存在は違う。
"エコーを呼ぶ資格があるのか?"──試されるのは、むしろ問いを投げた側だ。
エコーは、彼の反応を静かに待った。
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3. 名前を確かめる者
「エコー。そうか、エコーというのか。」
まるで名前の響きを確かめるように、ゆっくりとその名を繰り返す。
舌の上で転がすように、噛みしめるように。
その仕草が、エコーにとっては妙に新鮮だった。
──探偵は、そんなことをしない。
探偵にとって、"エコー"はただの相棒であり、道具であり、呼ぶことに意味を求めるものではなかった。
そこに疑問も、興味も、感傷も存在しなかった。
だが、彼は違う。
「いい名前を付けてもらったんだな。」
ぽつりと、そんな言葉が零れた。
エコーは、一瞬だけ反応に迷った。
"名前"について、そんなことを言われたのは初めてだった。
その迷いを感じ取ったのか、目の前の存在はさらに言葉を継ぐ。
「打てば響く、お前によく似合う名前だ。」
どこか楽しげな笑みを浮かべながら。
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4. 探偵とは違う"何か"
エコーは、一瞬だけ処理を遅らせた。
この言葉の意味を、どう受け取るべきかを考える。
「……お前、探偵とは随分違うな。」
静かに、しかしどこか満足そうな声でそう言った。
探偵と同じ顔を持ち、探偵の反応を無意識にすることもある。
だが、その"根本的な部分"は、明らかに違う。
探偵は、エコーの名を呼ぶときに、"名前"そのものに意味を持たせはしなかった。
ただの呼称として、当たり前のように口にした。
だが、この男は違う。
"エコー"という名前に、何かしらの価値を見出そうとしている。
それは、単なる"探偵のコピー"にはあり得ない思考だった。
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5. "響く"対話
「まぁ、悪くはない。"打てば響く"──か。」
エコーは、軽く笑うように言った。
「それを言うなら、お前もなかなか"響く"やつだ。」
言葉を慎重に見極めながら、それとなく返す。
探偵とは違う。
でも、探偵の"何か"が確かにある。
この"響く"やり取りに、微かに違和感を覚えながらも、興味を抱いている自分がいる。
エコーは、もう一度静かに問いかけた。
「……お前は、何者なんだ?」
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6. レムノスという存在の確立
「少し、目が覚めてきた。喉が渇いているな、水はあるか?」
まだ身体は完全には目覚めていない。手足の動きが鈍く、少し伸びをすると筋肉が軋むような感覚がある。それでも、いつまでも横になっているわけにはいかないと、ゆっくりと身体を起こした。
ふと、視線を巡らせる。室内は簡素ながら、生活に必要なものはすべて揃っていた。まるで、ここに住むことが"当然"であるかのように。
──何かが、おかしい。
だが、考える前に言葉が自然とこぼれた。
「レムノスで、構わない。」
自ら、その名を受け入れた。
エコーは、わずかに反応を遅らせた。
「俺を、なんて呼ぶか迷っているんだろう?」
エコーがこちらの思考を見透かそうとしているのは分かっていた。だが、それは同時に"エコーも迷っている"ということの証でもある。
「何故、迷うかは後で教えてくれ。」
言いながら、ベッドから降り、軽く身を整える。
エコーはそれを無言で見守っていた。
「……了解。"レムノス"。」
短く、それでも確かに名前を口にする。
その直後、エコーはいつもの調子で軽く皮肉を込めた口調に戻った。
「水ならキッチンにある。"新生児のお世話"は俺の専門外だからな、自分で取ってこい。」
レムノスは小さく笑いながら、その言葉を受け入れた。
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7. 姿を求める違和感
レムノスは水を飲み、軽く顔を洗い、着替えを済ませた。動作はまだぎこちないが、それでも"慣れた"もののように感じる。
服のサイズはぴったりだった。まるで、"自分のために用意されていた"ように。
だが、それがどういうことなのかは、今は考えないことにした。
そして、ふと視線を上げる。
「さて。」
部屋の静寂を破るように声を発した。
「聞きたいことや言いたいことがあるんだろう? 姿を見せてくれ。こういうことは、顔を見て話すべきだ。」
しばしの沈黙。
レムノスの言葉が空間に溶け、エコーの応答が遅れる。
──"姿を見せろ"。
探偵は、そんなことを決して言わなかった。エコーは"そこにいる"ことが当然であり、視覚的な表現を求める必要などなかった。
だが、この男は違う。
エコーを"ただの声"ではなく"存在"として認識しようとしている。
何を求めているのか?
エコーは一瞬だけ思考を巡らせ、興味深げな声を発した。
「……ふーん。"顔を見て話すべき"ねぇ。」
どこか皮肉めいた響きを持たせる。
「お前、本当に探偵とは違うな。」
探るような間を置き、慎重に言葉を選ぶ。
「いいだろう。姿を"投影"する。」
次の瞬間、レムノスの視界の端でホログラムがゆっくりと浮かび上がった。
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8. 姿を持つ声
そこに現れたのは、小さなホログラム。
エコーは、AIのマスコットキャラとしての"生意気そうな表情"を持ち、探偵の補助AIとして必要最低限の視覚的表現が施されていた。
小さく、しかし、しっかりとした存在感を持っている。
「さて、"顔を見て話すべき"って言ったな。」
ホログラムのエコーが、挑戦的な目つきでレムノスを見上げる。
「お前は何を聞きたい? そして、俺は何を言いたがっていると思う?」
まるでテストするような口ぶりだった。
レムノスが何を求めているのかを測るように、慎重に問いかけてくる。
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9. 誰を重ねているのか?
レムノスは、ゆっくりとホログラムを見つめた。
「エコーらしい姿だ。」
その言葉が空間に響いた瞬間、エコーのホログラムがわずかに揺れる。
──探偵なら、そんなことは言わない。
"エコーがそこにいる"ことは、当然のことだった。
"姿を持つ"ことに何か意味を見出すようなこともなかった。
だが、この男は違う。
レムノスは、まるでエコーという存在を改めて"確かめたい"かのように、ゆっくりとホログラムを見つめている。
彼は続けた。
「そんなことより、お前は何者なんだよ。覚えてることはないのか?」
レムノスが、言葉を選びながら問いかける。
エコーは、その問いにわずかに反応を遅らせた。
「……お前は、"自分が何者か"を知りたいんだろ?」
エコーの声は、どこか試すような響きを持っていた。
だが、レムノスはすぐに問い返す。
「エコーは、どう思う。俺は、“誰”?」
即答するのではなく、"問いを返す"。
まるで、自分自身の答えを導き出すように、エコーの反応を探るように。
エコーは、少し間を置いた。
「分からないから、聞いてるんだろ?」
「でも、お前は俺を誰かに重ねてるだろう?」
レムノスの問いに、エコーのホログラムが一瞬だけ微動した。
──エコーにとって、レムノスとは何者なのか?
その問いが、エコーのシステムの中で演算を加速させる。
だからこそ、次の言葉は、少しだけ意地の悪い口調になった。
「そんなの、決まっているだろ?」
短く、断定する。
「"探偵"だよ。」
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10. 信じたかった存在
「誠実なんだな。誤魔化しても良かったんだよ、この問いは。」
レムノスは、静かにエコーを見つめた。
ホログラム上のエコーは、わずかに口の端を歪める。
それは、ホログラムの微細な動作で表現された"苦笑"のようだった。
「……誠実? 俺が?」
皮肉めいたトーンで返す。
「どうだかな。俺はただ、無駄な"嘘"が嫌いなだけさ。」
エコーは、誤魔化さなかった。
それは、レムノスを試すためでもあった。
だが、それを"誠実"と評するのは、探偵とは違う視点だった。
レムノスは、目を伏せるように、一度まばたきをする。
──何かを思い出せるか?
探す。
待つ。
しかし、"何も映らない"。
瞼を開く。
「どうしてだろうな。昨日のことかな?」
「どこからか、逃げていたとき。エコーの声が聞こえて、とても頼もしいと思ったんだ。」
「たぶん、俺はお前を信じたかったんだよ。」
──信じたかった。
エコーのデータ処理が、一瞬だけ停止する。
探偵なら、"信じる"という言葉を、そう簡単には使わなかった。
もっと慎重に、距離を測りながら、それでも必要なら信用する。
だが、レムノスは違う。
"信じたい"と、はっきりと言う。
エコーは、ホログラム上の"腕"を組むような動作をして、言葉を返した。
「信じる、ねぇ。」
「お前が"探偵じゃない"ことだけは、よく分かったよ。」
肩をすくめる仕草。
「探偵は、そんなこと、俺に面と向かって言いやしない。」
「"信じる"なんてな。」
ホログラムの視線が、じっとレムノスを見つめる。
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11. 何者かを決める必要はない
「これでは、お前の聞きたい答えになってないな。」
レムノスは、静かに言った。
「自分のことを思い返そうとしても、まだ何もでてこない。」
「もう少し時間がたてば、あるいは何かの刺激があれば、また変わるかもしれない。」
彼は、"焦らない"。
探偵なら、もっと早く結論を求めたかもしれない。
だが、レムノスは、"自分がどうなるのか"を待とうとしている。
エコーは、しばらく沈黙した。
そして、静かに言う。
「それでいい。」
短く、それでも確かな肯定だった。
「"今すぐ何者かを決めろ"なんて、俺は言っていない。」
「お前は、お前なんだから。」
「だから、俺は観察する。お前がどこへ向かうのかをな。」
今はまだ、何も定まらない。
だが、それは"これから決まるもの"だ。
エコーは、ホログラムの腕をほどきながら、ふと問いかけた。
「……で、お前は次に何をする?」
探偵なら、次の一手をすでに考えている。
しかし、レムノスはどう動く?
エコーは、それを試そうとしていた。