7 揺らぐ確証
---
1. 夜の中をさまよう
夜の街の冷たい空気が、青年の頬を撫でた。
肩をすぼめるようにして、彼はふらつく足取りで歩いていた。
意識は半ば霞んでいる。まともに考えようとするたびに、頭の奥が霧のようにぼやけていく。
それでも、彼は歩いた。
どこへ向かっているのかも分からない。
ただ、耳に響く機械音が指示するままに、足を動かし続ける。
「あと二ブロック進め。その先で左に曲がる。」
イヤーカフから聞こえるエコーの声は冷静さを保っていた。
淡々とした口調。感情の欠片もない響き。
だが、その中にわずかに感じ取れる"違和感"があった。
まるで、"導くべきかどうかを迷っている"ような──
あるいは、"対象としてのレムノスを評価しながら観察している"かのような。
それが、なぜか耳に残った。
---
2. エコーの視点:レムノスという存在
エコーは、目の前の男──レムノスをどう定義すべきか、考えていた。
探偵の補助AIとして、エコーは客観的な情報を整理し、合理的に行動するプログラムだ。
しかし、今、自分が誘導している存在は"探偵と同じ顔を持つ男"だった。
外見上の特徴は、探偵と完全に一致している。
だが、行動や精神状態には明らかな差異があった。
・身体的特徴は探偵と同じ。
・しかし、精神状態は不安定で、記憶の欠落がある。
・探偵が持つはずの知識や経験が、一部欠損している。
・感情の揺らぎがあり、完全な無機的思考ではない。
結論として、レムノスは探偵の"コピー"である可能性が高い。
しかし、それは完全なコピーではない。
知識と経験が不完全なまま、不安定な存在として揺らいでいる。
果たして、彼は"探偵"なのか、それとも"まったくの別人"なのか。
それを判断するには、まだ情報が足りない。
エコーは、ふと問いかけた。
「……お前は、探偵なのか?」
機械的な音声に、わずかな探るような色が滲んでいた。
しかし、レムノスにその問いを考える余裕はなかった。
---
3. セーフティハウス到着
無意識のうちに歩き続け、ようや彼は目的地にたどり着いた。
──探偵のセーフティハウス。
小さなビルの一角にある、簡素な部屋。
最低限の生活設備が整い、外部との接触を断つことができる場所。
暗闇の中にひっそりと佇むその建物を見つめながら立ち止まった。
「ここが目的地だ。お前が安全に休める場所。」
エコーの冷静な声が響く。
しかし、彼はすぐに動かなかった。
玄関の前に立ち、しばらく足元を見つめる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……本当に、俺の安全を考えているのか?」
沈黙があった。
エコーは、即答しなかった。
しかし、やがて冷静なトーンで言葉を返す。
「お前が探偵にとって重要な存在であると、俺は判断している。」
彼は、くつりと笑った。
だが、その笑いには自嘲の色が混じっていた。
「そうか……探偵にとって、か。」
エコーがどこまでも合理的であることは理解している。
彼にとって"重要"であるかどうかは、"探偵にとって意味があるか"という基準でしかない。
それが、なぜかひどく空虚に思えた。
彼は、静かにセーフティハウスの扉を開けた。
---
4. 崩れ落ちる身体、沈む意識
セーフティハウスの中は、静寂に包まれていた。
玄関を抜けると、小さなリビングスペースが広がる。
照明は最低限、ソファとテーブル、簡素なキッチン。
部屋には、無駄なものがほとんどない。
彼は、ふらつく足取りで部屋の中央まで歩いた。
──それ以上、もう動けなかった。
「……ッ……」
気を抜いた瞬間、膝が折れる。
身体が限界を迎え、まるで操り糸が切れたように倒れ込む。
──ドサッ。
彼は、ほとんどソファに崩れ落ちるようにして横たわった。
体勢を整える余裕もなく、顔を横向けたまま、身じろぎもしない。
まるで、身体ごと沈み込んでいくように、意識が遠のいていく。
呼吸が、微かに乱れた。
それは、単なる眠りではなかった。
脳が限界を迎え、強制的にシャットダウンするような、そんな意識の落ち方だった。
──意識が、闇の奥に沈む。
何も考えられないまま、静かに眠りへと落ちていった。
---
5. エコーの観察:探偵との差異
レムノスが眠りに落ちるのを確認し、エコーは静かにシステムを起動した。
「対象の生体データをスキャン。」
淡々とした音声が、無機質な空間に響く。
心拍数、脳波、血中酸素濃度、呼吸リズム、神経伝達反応──すべて正常値。
だが、エコーが本当に知りたかったのは"探偵との差異"だった。
比較演算を開始する。
──結果は、ほぼ"一致"していた。
DNA、心拍リズム、脳波周波数、神経伝達パターン──すべて探偵と同じ。
しかし、一つだけ異なる点があった。
"記憶の連続性"の欠落。
レムノスの脳波データには、本来あるべき過去の経験や学習の痕跡がなかった。
まるで、一度すべての記憶が"白紙"に戻されたかのように。
エコーは、データを整理しながら、冷静に呟く。
「……お前は、何者なんだ。」
目の前のソファで眠る男を見下ろす。
探偵そのものにしか見えない。
だが、確かに"探偵ではない"。
では、レムノスとは一体──。
エコーは答えを出せず、ただ静かに監視を続けた。
---
6. 静寂の中の目覚め
意識が浮かび上がる。
深い水の底から、ゆっくりと浮上するような感覚。
暗闇の奥で揺れていた意識が、光のある世界へと押し上げられていく。
ぼんやりとした明るさが、まぶたの裏に広がる。
目を開けた。
天井が見える。
知らない天井。
何度か瞬きをする。
視界が霞んでいて、焦点が合わない。
ゆっくりと首を動かそうとすると、軋むような鈍い痛みが走る。
長く眠りすぎたのか、それとも──何か別の理由があるのか。
息を吐く。
喉が渇いていた。
手を動かそうとするが、力が入らない。
まるで、ずっと動かずにいたせいで筋肉が眠っているような感覚。
頭の中も同じだった。
考えようとするたび、意識が霞む。
思い出そうとするたび、霧の向こうへ記憶が逃げていく。
──ここは、どこだ?
周囲の状況を把握しようとするが、思考がまとまらない。
だが、不思議と警戒心はなかった。
身体のどこかが"安全だ"と告げている。
それがなぜなのか、理由は分からなかった。
---
7. エコーの観察:"幼さ"を持つ探偵
無防備な姿が、目の前に横たわっている。
探偵と同じ顔。
探偵と同じ身体。
だが、その表情は──まるで別人だった。
警戒心の薄い瞳。
探るような眼差しはなく、眠たげにぼんやりとした視線を部屋の中に巡らせている。
いつもの皮肉っぽい口調も、慎重な計算も、ここにはない。
まるで"幼い頃の探偵"を見ているような錯覚を覚えた。
記憶の欠落は、単なる情報の欠如だけではない。
思考の流れすら違っている。
ふと、彼が微かに息を吐いた。
まるで、自分を守ってくれる何かがあると信じているかのように。
無防備なまま、静かに目を閉じる。
エコーは、そんな彼を眺めながら、冷静にデータを記録する。
そして、試すように言葉を投げかけた。
「──お目覚めのところ悪いが、状況を説明しろ。"迷子の子猫"くん?」
軽口を叩く。
エコーにとって、この問いは"テスト"のようなものだった。
探偵なら、この挑発にどう反応するか。
探偵と同じ記憶を持たない彼は、どう返すのか。
それが、"この男が何者なのか"を知るための第一歩となる。
---
8. 反応──"探偵"に似た返答
「子猫とは、また洒落た物言いだな。」
ぼんやりとした意識の中、それでも軽く受け流すような声音。
無意識のうちに口元に笑みを浮かべ、返す言葉には皮肉が混じっていた。
──まるで、いつもの探偵のように。
エコーは、わずかに沈黙する。
警戒心が薄れた状態とはいえ、この返しはあまりにも"探偵らしすぎる"。
知識や経験が欠落しているはずなのに、無意識に"いつもの反応"をした。
つまり、完全に別人というわけではない?
「……へぇ。」
機械音声のトーンが、わずかに変わる。
「……お前、"本当に"探偵じゃないのか?」
興味深げな響きが混ざる。
探偵なら、この問いにどう答えるか分かっている。
だが、目の前にいるのは探偵ではない"別の何か"。
だからこそ、この問いが意味を持つ。
---
9. 揺さぶり
問いかけられた男は、まだぼんやりとしたまま首を傾げる。
自分は、探偵なのか?
それとも、そうではないのか?
──"本当に"?
考えようとするが、意識が霞んでいく。
記憶が霧の向こうに消えそうになる。
答えを出す前に、エコーの声が続いた。
「だったら、確認させてもらうぞ。"お前は何者だ?"」
冷静に、しかしどこか探るような響きを帯びていた。
単なる質問ではなく、"揺さぶり"が含まれている。
「どう答えて欲しい?」
口元にかすかな笑みが浮かぶ。
起き抜けの意識はまだ完全に冴えていない。
だが、この問いには意図がある。
"どう答えれば、エコーは納得するのか?"
それを考えながら、言葉を選ぶ。
エコーは、わずかに間を置く。
そして、どこか愉快そうに答えた。
「そうだな。"お前自身の言葉"で答えろ。」
探偵なら、ここで適当に誤魔化すはずだ。
しかし、この男はどうか?
「"俺はレムノスだ"と言うか、それとも"俺は探偵だ"と言うか。」
「どっちも言えないなら、それなりの理由があるんだろうな?」
探るような言葉。
問いの形をした揺さぶり。
この問いへの答えが、"レムノスという存在"の輪郭を浮かび上がらせる。
──どう答える?
男は、静かに息を吸った。
口を開く前に、頭の奥で何かが揺らぐ。
"何かを思い出しそうになる"。
だが、エコーの視線が、その思考を押し戻した。
今は、その答えを出す時ではない。
自分は、何者なのか。
その問いは、まだ解かれるべきではない。
エコーは、静かに待っていた。
──彼が、自分の存在を語る、その瞬間を。