6 喪失の夜
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1. 交わされぬ問い
月明かりに照らされた倉庫の裏路地。都市の喧騒から隔絶されたその場所で、探偵は目の前の男を見つめていた。
──レムノス。
その名が、適性テストエリアのデータベースに記されていた被験者番号と一致していた。
抑制衣を着せられ、機械に繋がれたまま拘束されていた男──それが、探偵が今こうして目の前にしている"彼"の正体だった。
レムノスはまだ完全には意識が戻っていない。目隠しを外したときに現れたのは、探偵と寸分違わぬ顔。
しかし、表情はどこか曖昧で、焦点の合わない瞳が夜の闇を彷徨っていた。
「……お前は──」
探偵が言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
「侵入者、確保しろ!」
鋭い声が闇を切り裂く。
探偵は即座に背後を振り返る。倉庫の向こう、警備員の影がこちらへ向かってきた。
──想定よりも動きが速い。
──予測していたよりも多い。
警報の作動が、ノア・ラボ全体に警戒を促していたのだろう。
このままでは、レムノスと共に逃げ切るのは不可能だった。
探偵は一瞬、視線をレムノスに戻す。
彼はぼんやりと探偵を見つめていた。自分の置かれている状況すら、まだ把握しきれていない様子だ。
自分がどこにいるのか、何をされているのか、目の前の"探偵"が何者なのか──すべてが曖昧なのだろう。
──だが、時間がない。
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2. 探偵の決断
逃がすしかない。
探偵は決断を下し、手早くイヤーカフの片方を外した。
そして、それをレムノスの手に強く押しつける。
「……エコー、レムノスを頼む。」
レムノスは微かに目を見開く。
探偵の顔と同じ輪郭の彼が、何かを感じ取ったように口を開こうとする。
だが、その問いは音になる前にかき消された。
探偵はすでに背を向け、警備員の方へ向かっていた。
──これでいい。
警備員の意識が自分に向くことで、レムノスが逃げる隙が生まれる。
それ以外に、この場を乗り切る手段はない。
「探偵の行動を無駄にするな。」
イヤーカフ越しに、エコーの冷静な声が響く。
その瞬間、レムノスの心の奥で、何かが僅かに揺れた。
──"探偵"?
どこかで聞いたことがある。
どこかで……確かに、呼ばれていたはずだ。
だが、記憶は霞がかかったように曖昧で、掴めない。
今は、思い出している場合ではなかった。
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3. 囮となる探偵
「侵入者、確保しろ!」
警備員の声が再び響く。
探偵はすでに動いていた。
路地の隅に視線を走らせ、一瞬で周囲の状況を把握する。
──退路は二つ。
一つは、レムノスが逃げる方向。
もう一つは、自分が誘導しなければならない方向。
「くそっ……逃がすか!」
警備員の一人がスタンガンを構え、もう一人は至近距離まで走り寄ってくる。
さらに後方には、防犯ドローンが静かに飛行しながらこちらをロックオンしていた。
──最悪の状況だった。
「探偵、まずい。混乱が足りない!」
エコーの声が鋭く響く。
「このままじゃ、お前が捕まる!」
探偵の心拍がわずかに速くなる。
今ならまだ逃げられるかもしれない。
だが、それではレムノスが確実に捕まる。
警備員の一人がスタンガンのトリガーを引こうとした、その瞬間。
探偵は、視線の端にあった金属製のバレルを蹴り飛ばした。
鋭い音が夜の静寂を破る。
転がったバレルがドローンの進路を塞ぎ、警備員たちの足が一瞬止まる。
「……ちっ!」
だが、それだけでは足止めにならない。
ドローンが障害物を回避し、再びロックオンしようとする。
──この状況で、打開策は?
探偵は、即興で混乱を引き起こす手段を探した。
だが、わずかに逡巡したその隙を、警備員は見逃さなかった。
「動くな!」
警備員の一人が叫び、探偵に向かって飛びかかる。
避ける暇はなかった。
次の瞬間、探偵の腕が強く捻られ、地面に押し倒される。
「……クソッ!」
探偵は歯を食いしばる。
耳元でエコーの声が響く。
「探偵、抵抗するな。」
「レムノスは、逃げた。」
探偵は、僅かに目を閉じた。
──ならば、これでいい。
次にすべきことは、自分がここで何を知れるかだ。
警備員の手が探偵の肩を押さえつける。
「身元を確認する。……貴様、何者だ?」
探偵は薄く笑った。
「……お前たちが、知りたい情報じゃないか?」
警備員の顔が僅かに歪む。
エコーの声が、低く、冷静に響いた。
「……ここからは、お前次第だな。」
探偵は、静かに目を閉じた。
このまま、ノア・ラボの内側へと連行される。
だが、それは新たな情報を得るチャンスでもある。
──後は、レムノスが無事に逃げ切ることを願うだけだった。
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4. 手の中に残されたもの
耳元に響いていた喧騒が、突然遠のいた。
レムノスの意識は、まるで海底に沈むように、ゆっくりと深く沈降していく。
頬に冷たい夜風を感じた。だが、それが何を意味するのか、すぐには分からなかった。
寒い? 違う、ここがどこなのかが分からない。
足元がぐらつく。まるで、自分の身体が"自分"ではないかのように──。
その時、指先に何かが押しつけられた。
小さな装置。耳にかけるもの──イヤーカフ?
レムノスは無意識にそれを握りしめた。
握った感触が、やけにリアルだった。それだけは"確かに存在している"と理解できた。
「……エコー、レムノスを頼む。」
声が聞こえた。
耳に残る響き。
どこか、聞き覚えのある声だった。
レムノスは顔を上げた。視界の端に、"誰か"の姿が見えた。
──自分と同じ顔の男。
男は、すでにこちらに背を向けていた。
なぜか、無性にその後ろ姿を引き止めなければならないような気がした。
だが、足が動かない。声も出せない。
──待て。お前は誰だ?
その問いかけが、喉の奥で詰まり、結局言葉にならなかった。
次の瞬間、暗闇の中へ引き込まれるような感覚に襲われた。
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5. ゆがむ世界
レムノスは、ふらつく足取りで歩き出した。
身体が重い。いや、それ以上に、何かが自分の中でぐらついている。
──これは現実か?
道の両脇に並ぶ建物の輪郭が、ぼんやりと滲んで見えた。
街灯の明かりが、まるで水面に映る光のようにゆらゆらと揺れる。
自分がどこにいるのか、本当に歩いているのか、それすらも曖昧だった。
──歩け。
誰かがそう言った気がする。
"誰か"とは、誰だ?
「探偵の行動を無駄にするな。」
突然、耳元で響いた機械の声に、レムノスははっと意識を引き戻された。
探偵──?
その単語が、頭の中に引っかかる。
知っている。確かに知っている。
けれど、それが何を指しているのか、思い出せない。
まるで、自分の記憶の中から"肝心な部分"だけが欠けているようだった。
すぐそこにあるはずなのに、手を伸ばしても触れられない。
"俺は……"
"俺は、誰だ?"
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6. 消えゆく境界線
レムノスの足取りは、不安定だった。
何かが、おかしい。
呼吸をするたびに、肺の奥がひりつく。
心臓の鼓動が、妙に遠く感じられた。
歩く。歩く。
けれど、どこへ向かっているのか分からない。
──本当に、この道で合っているのか?
ふと、立ち止まりそうになる。
だが、その瞬間。
「その先だ、レムノス。」
冷静な、機械音が響いた。
レムノスの身体が、びくりと震えた。
──エコーが、自分の名前を呼んだ?
何の感情もない、淡々とした声。
それなのに、その言葉は妙に"重み"を持っていた。
……なぜだ?
レムノスは、自分が何かを"思い出しかけている"ことに気づいた。
だが、その直前で、意識が深い霧に包まれたように曖昧になる。
記憶の奥底から、何かが浮かび上がりそうになる。
だが、それを認識する前に、別の何かにかき消される。
──何かが"改変"されている。
それが直感的に分かった。
俺の記憶は、何者かによって書き換えられている。
俺の"過去"が、何かに塗り替えられている。
だが、それが"いつ"なのか。"誰によって"なのか。"どのように"なのか──
すべてが、曖昧なままだった。
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7. 進むしかない
エコーの声が再び響く。
「すぐに動け。」
「10分以内に、安全な場所へ到達する。」
レムノスは、もう一度握りしめたイヤーカフを耳に当てた。
その小さな装置が、今の自分を支える唯一の"繋がり"のように思えた。
──俺は、本当に逃げるべきなのか?
──"探偵"は、どうなった?
考えようとするたび、頭の中が霞む。
このままでは、何も分からないまま、流されてしまう。
しかし、今の自分にできることは、一つしかなかった。
──"生き延びること"。
それ以外に、道はない。
「……分かった。」
掠れた声で呟く。
たとえ記憶が欠けていても、目の前の現実は変わらない。
今、自分が立っているこの道を進むしかないのだ。
レムノスは、再び歩き出した。
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8. 夜の中へ
夜の空気は冷たい。
それが、自分がまだ"生きている"という証拠なのだろうか。
だが、その感覚すら、今のレムノスには不確かなものだった。
何を信じるべきかも分からない。
けれど、イヤーカフから響くエコーの声だけは、確かに耳元に残っていた。
それが"信じるに足るもの"なのかどうかも、分からない。
けれど、今は、それにすがるしかなかった。
レムノスは、闇の中を進んでいく。
自分が何者なのかを知るために──
"探偵"という名前の意味を思い出すために──
たとえ、その先に何が待っていようとも。
彼は、ただ"歩き続ける"しかなかった。