3 昨日の探偵
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1. エコーの報告
静寂の中、エコーのホログラムが淡く明滅する。
電子音が短く響き、データ整理の完了を知らせる。
「外部からの干渉は検出されなかった。少なくとも、明確な攻撃やデータ改ざんの痕跡はない。」
「ただし、"異常がなかった"とは言えない。」
探偵は少し眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
エコーは、淡々と続ける。
「お前の脳波は、通常の睡眠パターンとは異なっていた。」
「眠りに落ちた直後から、"特定の周波数のα波"が急激に増加した。」
「……それは?」
「端的に言えば、お前は"夢の中で、何かと接触していた"可能性が高い。」
探偵の脳裏に、"レムノスの声"が蘇る。
「……俺を、忘れないでくれ。」
あの言葉は、本当にただの夢だったのか?
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2. 睡眠中の異変
「お前は27分34秒間、眠っていた。」
思ったより短い。
だが、そのわずかな間に、俺の脳内では"何か"が起きていた。
「特筆すべきは、お前のREM睡眠(浅い眠り)が極端に長かったこと。」
「通常のサイクルなら90分ほどで一巡するものが、わずか27分で"不自然に短縮"されていた。」
「つまり、お前の脳は"夢の中の時間"を異常な速度で処理していた可能性がある。」
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3. 記憶の歪み
エコーは一瞬沈黙し、慎重に言葉を選ぶ。
「お前の脳波は安定している。"過度なストレス状態"は脱したと見ていい。」
探偵は深く息をつく。
「つまり、俺は今、正常か?」
「否定する。」
探偵は静かに目を閉じた。
──やはり、そうか。
「お前は"精神的な過負荷状態"ではないが、"自己認識のズレ"を抱えている。」
「言い換えれば、お前は"正常だと認識しながらも、どこかで違和感を感じ続けている"。」
「これは、"記憶改変を受けた可能性がある者"によく見られる症状だ。」
つまり──
俺の記憶は"改変された形跡はある"が、"完全には書き換えられていない"。
「現状、お前は"正常な思考プロセスを持ちながらも、認識の根幹が歪められている"。」
「今の判断力は、お前自身のものかもしれないし、"誘導されたもの"かもしれない。」
「どちらにせよ、お前はまだ"レムノスのことを覚えている"。」
「それが、唯一の手がかりだ。」
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4. レムノスの記録を探る
探偵はふと、事務所にいた時のことを思い出した。
"レムノス"という人名については検索させた。
だが、人名以外は調べていない。
「エコー、"レムノス"に関する他の記録を検索してくれ。」
エコーのホログラムが一瞬揺れ、検索プロセスが開始される。
端末上に、無数のデータストリームが流れ込んでいく。
探偵は、小さく息をついた。
「珍しく軽口がないな、エコー。」
自嘲気味に笑うが、エコーの反応は淡々としていた。
「今は、冗談を言う気分じゃない。」
探偵は一瞬だけ、目を細める。
エコーが"冗談を言う気分じゃない"と言うのは、極めて珍しい。
それはつまり、それほど"この状況が異常"だと、彼なりに判断しているということだ。
探偵が言葉を継ごうとしたその瞬間──
「……見つけた。」
エコーの光が僅かに明滅する。
「"レムノス"の記録が残っている。」
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5. "レムノス計画"
「"レムノス"という名のデータが、ノア・プロジェクトの過去の研究ログに存在していた。」
「ただし、そのデータは"削除済み"のステータスになっている。」
「ログ上では"レムノス計画"として記録されており、2ヶ月前に"抹消"されている。」
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6.情報屋ゼイン
レムノス計画──。
それがプロジェクトの名称なのか、それとも個人を指すのか、今の段階では分からない。
だが、確実に言えることは、この計画は意図的に消されたということだ。
公式の記録から削除され、関係者の証言すら曖昧になっている。
「エコー、これ以上の情報は引き出せるか?」
ホログラムが微かに揺れ、電子ノイズが走る。
「試してみたが、これ以上のデータは回収不可能だ。」
となれば、裏の情報を探るしかない。
こうした"消された記録"を追うには、通常のデータベースでは限界がある。
公的な記録には残っていなくても、非公式なルートには痕跡があるはずだ。
ならば──ゼインの出番だ。
情報屋ゼインは、都市の裏に張り巡らされた情報ネットワークの一端を担っている。
彼の手にかかれば、"表向きには存在しないはずの情報"でも手に入る可能性がある。
シェルター街の裏取引にも通じており、企業の影で動く者たちの情報も持っている。
ゼインならば、"レムノス計画"がどのようなものだったのか、何かを知っているかもしれない。
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7. ゼインとの接触
ノイズ混じりの映像が、カフェ・ロスティの個室のモニターに映し出された。
画面の向こうには、カウンター席でグラスを揺らすゼインの姿。
暗い照明の下で、相変わらずの気怠げな笑みを浮かべていた。
「おやおや、こんな時間に俺を呼び出すとはな。急に酒の付き合いでもしてくれるのか?」
「……あいにく、俺の手元にはコーヒーしかない。」
探偵がそう答えると、ゼインは肩をすくめ、グラスを持ち上げた。
「そいつは残念だ。酒はな、"適度な酔い"が最高の情報フィルターになるってもんさ。」
「酔いが回りすぎると、情報も価値を失うんじゃないのか?」
「そこが難しいところでな。適量なら情報が整理されるが、過ぎればデタラメが増える。」
グラスの中で琥珀色の液体が揺れる。ゼインはそれを一口含み、軽く指を鳴らした。
「で、探偵さん。何の用だ?」
探偵は無駄話を省き、単刀直入に切り出す。
「ノア・プロジェクトについて知りたい。"レムノス計画"、あるいは"レムノス"の名前に心当たりは?」
ゼインの目が、一瞬だけ細まる。
「へえ……"レムノス計画"か。お前がそれを聞いてくるとはな。」
探偵は静かにゼインの反応を観察する。
ゼインの顔は相変わらず飄々としているが、僅かに酒を転がす指の動きが変わった。
──知っている。
ゼインは間違いなく"レムノス計画"について何かを知っている。
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8. ノア・プロジェクトの概要
ゼインは軽く笑い、ゆっくりとグラスをカウンターに置いた。
「ノア・プロジェクトは、"ノア・システム"って企業が立ち上げた、一大プロジェクトさ。」
「正式名称は"ノア・インテグレーション・プログラム"。」
「簡単に言えば、"死者の記憶をデジタル上で再構築し、仮想人格として復元する"ことを目的とした計画だ。」
探偵は静かに聞きながら、エコーと視線を交わす。
予想していた話ではあるが、確証が取れたことは大きい。
ゼインは続ける。
「ノア・システムの本社はシティ・セクター09にある。表向きは、AI技術とバーチャルリアリティを扱う企業。」
「ただし、"ノア・プロジェクト"に関しては、一般にはほぼ知られていない。内部の人間か、裏の情報を持つ者しかアクセスできない領域だ。」
探偵は腕を組む。
「……それで、"レムノス計画"は?」
ゼインは軽く笑い、指でグラスの縁をなぞる。
「レムノス……お前が見つけた"レムノス計画"って名前のデータのことだろ?」
「それはノア・プロジェクトの初期段階で進められていた研究の一つだ。」
「だが、詳細なデータは2ヶ月前に削除され、関係者の証言も曖昧になっている。」
「つまり……"消された"可能性が高いってことさ。」
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9. もったいぶる情報屋
ゼインは一度話を区切り、グラスを軽く回した。
沈黙が落ちる。
探偵は、その動きを見逃さなかった。
ゼインはまだ何かを知っている。
だが、それをすぐには話そうとしない。
グラスの底を見つめるゼインの表情は、微かに楽しんでいるようにも見えた。
「……やけに素直に話すな。」
探偵が言うと、ゼインは笑った。
「そりゃあな。俺は"情報の価値"ってやつを知っている。だから、"時期が来た情報"は、惜しまずに流すもんさ。」
「つまり、お前は"今なら話してもいい"と判断した?」
「ま、そんなところだな。」
ゼインは探偵をじっと見つめる。
「ただし……"レムノス計画"の話をここで終わりにしちまうのも、つまらないだろ?」
「……?」
「お前が"本当に知りたいこと"は、まだそこじゃないはずだ。」
探偵はゼインの目をじっと見つめた。
──何かがある。
ゼインは、"もっと重要な情報"を持っている。
それは単なるノア・プロジェクトやレムノス計画の話ではなく、"探偵自身に関わる何か" だ。
探偵の指が僅かに動く。
「……俺が知りたいこと?」
「そうさ。」
ゼインはゆっくりとグラスを持ち上げる。
「お前は、レムノス計画について情報を求めた。」
「だが、本当に重要なのは……"昨日のお前"の話じゃないのか?」
探偵の喉が乾いていくのを感じた。
──"昨日の俺"?
ゼインは軽く指を鳴らした。
「お前は、昨日も俺にこの話を聞いている。」
「そして……その時のお前は、"今の自分"とはまるで違う奴だった。」
探偵の心臓が、僅かに跳ねる。
──俺は、昨日、ゼインにこの話を聞いた?
──なのに、その記憶がまったくない?
もしゼインの言うことが本当なら──
"俺の記憶は改変されている"ことが、完全に証明された。
10. ゼインの語る「昨日」
静寂が、通信越しの空間を満たした。
探偵は、モニターの向こうにいるゼインの表情を睨むように見つめる。
ゼインはグラスを回しながら、まるで"待っていた"かのように笑った。
「……お前が"昨日"のことを聞かないなら、俺から話してやろうか?」
探偵は僅かに眉をひそめた。
ゼインは、情報の流し方を心得ている。
──昨日、俺がゼインの元を訪れていた?
──それなのに、その記憶がまったくない?
それが本当なら、俺は何者だ?
「……聞かせてもらおう。」
ゼインが指でグラスの縁を軽く叩く。
それを合図に、彼はゆっくりと話し始めた。
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11. 昨日の探偵の様子
「まずな、"昨日のお前"は、今のように迷ってはいなかった。」
ゼインはグラスを傾けながら、探偵の目を見つめる。
「妙に冷静で、妙に合理的で、そして"目的を持っていた"。」
「目的?」
「ああ。"レムノス"について情報を集めること。それだけを考えていたようだった。」
ゼインの語る"昨日の俺"は、今の俺とはまるで違う存在のように聞こえる。
「俺はどんな風に話していた?」
「必要なことだけを聞き、無駄な会話は一切しなかった。」
「いつものお前みたいに、慎重に疑問を挟んだり、俺の言葉の裏を読もうとはしなかった。」
「それに、"レムノス計画"についても、俺が話す前からある程度の情報を持っていたようだったな。」
探偵の喉が乾く。
「つまり、昨日の俺は……答えを知っていた?」
「そんな感じだったな。」
ゼインは軽く肩をすくめる。
「今のお前みたいに"レムノスとは何なのか?"と探りを入れるんじゃなく、"レムノス計画はどうなった?"と聞いてきた。」
「お前自身、レムノスが何者なのか、すでに知っていたかのように。」
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12. 俺は、何をしていたのか?
探偵は、無意識に拳を握る。
──昨日の俺は、"今の俺"よりも情報を持っていた?
──だが、今の俺には、その記憶がない?
「俺は、昨日何をしていた?」
ゼインは一瞬だけ目を細めたが、すぐに軽く指を鳴らす。
「夕方、お前は俺の店に来た。エコーは連れていなかったな。」
探偵は、エコーと視線を交わす。
エコーもまた、今の話を整理しながら黙っている。
「ノア・プロジェクトとレムノス計画について聞いてきた。」
「俺はお前に、今話したのと同じような情報を教えた。」
「……俺は、それを聞いてどうした?」
「お前は、それで満足したみたいだったよ。」
「満足?」
「ああ。"これで、もう迷わない"って言葉を残して、店を出て行った。」
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13. ゼインの問い
「さて……」
ゼインはゆっくりとグラスを回し、探偵を見つめた。
彼の目は、まるで何かを試すように細められている。
「お前は"昨日の自分"と"今日の自分"、どっちが本物だと思う?」
探偵は何も答えなかった。
この問いは、あまりにも単純で、あまりにも厄介だ。
ゼインは、それを知っていて聞いている。
「昨日のお前は、迷わなかった。」
「今日のお前は、迷っている。」
「どっちが"探偵"らしいんだろうな?」
ゼインは楽しそうに笑うが、その奥には何か鋭いものがある。
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14. 答えない選択
探偵は、視線を少しだけ伏せる。
──昨日の俺は、何かを知っていた。
──だが、今の俺はそれを知らない。
ならば、昨日の俺のほうが"正しい"のか?
あるいは、昨日の俺は"作られた何か"だったのか?
答えが出るはずもない。
「……答えないのか?」
ゼインが僅かに眉を上げる。
探偵は、ゆっくりと息をついた。
「答える価値がない。」
そう言って、端末の接続を切った。
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15. 静寂の中のエコー
通信が途切れ、個室には静寂が戻った。
探偵は、深く椅子に沈み込む。
疲労が重くのしかかる。
どちらが本物かなんて、今は考えても仕方がない。
ただ一つだけ確かなのは──
"俺の記憶は、何者かによって操作されている。"
それを、突き止めなければならない。
探偵が目を閉じると、ふわりとエコーのホログラムが揺れた。
エコーは何も言わない。
ただ、探偵を見つめていた。
──必要な時に、必要な声をかけられるように。
探偵の選択を見守るように、ホログラムの光が静かに瞬いていた。