2 記憶の歪み
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1. 揺らぐ自己認識
意識の奥が靄のように曖昧だった。
公園のベンチに腰掛けながら、俺はぼんやりとした思考の中で、自分が何を考えているのかすら分からなくなっていた。
今、自分は正しい判断ができているのか?
いや、そもそも"正しい"とは何なのか?
頭の奥が鈍く痛む。
目の前の景色が、どこか遠くにあるように感じられた。
「……エコー。」
無意識に、相棒の名を呼んでいた。
それは、今の自分が正しく動けていないと悟った証拠だった。
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2. エコーの判断
エコーのホログラムが僅かに光を揺らし、短く応じる。
「分かってる。お前は、今自分の判断を信用できないんだろ。」
俺は黙って頷いた。
そうだ──自分自身を疑っている。
この状況で、俺が頼れるのはエコーしかいない。
エコーは少し間を置き、冷静な声で言った。
「だったら、まずは"お前自身の状態"を確認するべきだ。」
「お前の記憶に何かされた可能性があるなら、それを先に解析しろ。」
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3. 記憶ログの解析
エコーのホログラムが強く輝き、探偵の脳波をスキャンする準備に入る。
デジタルノイズが微かに響き、光が俺を包み込んだ。
「少し時間がかかる。じっとしていろ。」
エコーの指示に従い、俺は目を閉じた。
脳内に、かすかな電子音が流れるような感覚が広がる。
──しばらくの沈黙の後、エコーのホログラムが僅かに揺れ、解析結果が表示された。
「……お前が倒れていた時間は、約5分32秒。」
意識が飛ぶ瞬間は一瞬だったはずなのに、思ったより長い。
時間の感覚が曖昧だった。
「バイタルは異常なし……とは言えないな。」
エコーの光が淡く揺れる。
「お前の心拍数は、通常時の約1.5倍まで上がっていた。脳波も不規則な変動を繰り返していた。」
「特に、3分を過ぎたあたりから"α波"が急激に低下し、"意識の同期エラー"が起きていた。」
「意識の同期エラー?」
眉をひそめると、エコーは慎重に言葉を選びながら説明する。
「簡単に言えば、お前の脳は"二つの現実"を同時に処理しようとしていた可能性がある。」
「どちらが本当の世界なのかを判断できなくなりかけていたんだ。」
──だから、あの時、公園の地面が沈む幻覚を"現実"として受け入れかけたのか?
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4. 周辺環境の異常
エコーはさらに続ける。
「外部の異常は特になし。公園の監視カメラも通常通り動いていたし、ノイズもなかった。」
「お前が突然倒れた以外は、すべて"正常"だった。」
──つまり、俺自身に"何か"が起きていたということか。
「それと、もう一つ。」
エコーが慎重な口調になる。
「お前が倒れる直前、"レムノス"という名前を口にしていた。」
「そして、それを口にした直後、脳波に一気にノイズが走った。」
レムノス──。
その名前を口にした瞬間に、俺の脳は異常を示した。
「お前がレムノスの記憶にアクセスしようとするたびに、"何か"が反応している可能性が高い。」
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5. 解析から分かったこと
エコーのホログラムが僅かに揺れ、少しの間、沈黙が続いた。
それは、珍しく慎重に言葉を選んでいる証拠だった。
「……お前の異常に気づいたのは、公園に来る前の時点だ。」
エコーの声は淡々としていたが、冷静さを意識しているようにも感じられた。
「最初に違和感を覚えたのは、お前が"いつもなら慎重に動くはずなのに、ほぼ直感で公園に向かった"ときだ。」
「お前は本来、慎重に情報を集め、裏を取るタイプの人間だ。」
「だが、今回は妙に焦っていた。推理の過程をすっ飛ばして、"とにかく公園に行く"という決断を下した。」
エコーの光が僅かに明滅する。
「だから、その時点で"お前が何かに引っ張られている"と判断した。」
「次に決定的だったのは、公園で"何もないのに異常を感じた"ことだ。」
「俺には何の異常も見えなかったのに、お前の認識だけが歪んでいた。」
「それに、お前は"自分が沈む"と感じていたが、実際は何も起きていなかった。」
「つまり、"お前自身の認識"が書き換えられていたか、何かによって誘導されていた。」
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6. エコーの結論
「そして極めつけは、お前が"レムノス"の名前を口にした直後の反応だ。」
「脳波のノイズ、思考の乖離。"レムノス"という存在に触れた途端に、お前は本格的におかしくなった。」
「おそらく、お前は"レムノスの記憶を保持し続けること"を拒絶されている。」
エコーは一瞬だけ間を置いた。
「……お前の"記憶"が、改ざんされている可能性が高い。」
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7. 変えられた記憶
探偵の異常は、公園に向かう前から始まっていた。
"本来の探偵"なら慎重に行動するはずなのに、妙に焦っていた。
公園では、"現実には存在しない異常"を見ていた。
"レムノス"の名前を口にした途端に、意識が大きく乱れた。
探偵の記憶が何らかの形で改変されている可能性が高い。
エコーは僅かに光を揺らしながら、淡々とした声で言った。
「お前の異常の原因は二つ考えられる。」
「ひとつは、"お前自身がレムノスの記憶を封じ込めようとしている"可能性。」
「もうひとつは、"外部から記憶を操作されている"可能性だ。」
「どちらにせよ、お前の"記憶"が最大の鍵だ。」
レムノスの真実を知るために──俺は、さらに記憶を追う必要がある。
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8. 公園を離れる決断
湿った夜の空気が、肌にまとわりつく。
公園に来てから、俺は幻覚を見た。
地面が沈むような感覚、レムノスという名を口にした瞬間の意識の乱れ──。
これは、偶然ではない。
もし俺の記憶や意識に外部から干渉が入っているのなら、この幻覚も"仕組まれたもの"だと考えるべきだ。
そして、それがこの公園に来てから発生しているのも事実だった。
「探偵、お前は焦りすぎてる。」
エコーの声が冷静に響く。
「俺もさっきのログを見返したが……お前が公園に行くと判断した時点で、違和感があった。」
「どういうことだ?」
「お前は本来、慎重に動くタイプだ。なのに今回は、ほぼ直感で公園へ向かった。」
確かに、推理の過程を飛ばして"とにかく公園に行く"と決断したのは、今思えば異常だった。
まるで、ここに来ることが"決まっていた"かのように。
「……俺は、誘導されていたのか?」
「可能性はある。お前がこの場所に来るよう、何らかの形で判断を歪められていた。」
この場所に留まるのは危険だ。
何かが俺をここへ引き寄せ、そして記憶に干渉している。
次に起こることは予測できない。
「エコー、次に行くべき場所を決めてくれ。」
俺は、今の自分の判断を信用できなかった。
だからこそ、エコーに選択を委ねるしかなかった。
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9. カフェ・ロスティへ
「了解。今すぐここを離れる。」
エコーのホログラムが強く明滅し、視界に簡易マップが投影される。
「事務所は避けるべきだ。お前が今、"どこにいるべきか"を判断できないなら、俺が指示を出す。」
「……頼む。」
エコーは即座に行動した。
周囲の監視カメラの死角、交通データ、人の流れを分析し、最適なルートを割り出す。
「東側の裏路地を抜けろ。そこから地下の通路に入れる。監視の網を抜けるには最適だ。」
考える間もなく、俺は足を動かした。
ここにいること自体が、危険だった。
ようやく、それに気づいたのだ。
エコーが次の行動を指示する。
「目的地は……"シェルター街のカフェ・ロスティ"にする。」
「カフェ?」
「情報の交差点だ。今の状況を整理するのに最適だし、客の多い場所なら外部干渉も受けにくい。」
カフェ・ロスティ。
そこは情報屋やフリーランスの技術者、裏社会の人間まで入り混じる場所だった。
人の出入りが多く、特定の個人を追跡しにくい。
「お前が一息つくのにも適してる。」
エコーの言葉に、俺は小さく息をついた。
今は、ひとまず安全な場所へ移動しなければならない。
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10. カフェ・ロスティの風景
地下通路を抜け、シェルター街に出ると、いつもの喧騒が広がっていた。
カフェ・ロスティは、まさに"情報の交差点"そのものだった。
広々とした店内には、客が絶えず出入りし、低いざわめきが空間を満たしている。
モニターが壁一面に設置され、ニュースや株価、裏社会の取引情報まで流れていた。
客層も多様だ。
ビジネススーツを着た交渉人、データ解析に没頭するハッカー、何かの取引をしている男たち──。
この場所では、誰もが情報を売り買いし、互いに監視し合っていた。
俺は、受付の端末にアクセスし、個室を借りる。
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11. 個室の静寂
案内された個室は、薄暗い照明とモニターに囲まれた空間だった。
ネットカフェのような作りで、通信設備も整っている。
ここなら、外部の干渉を受けることなく、一人で思考を整理できる。
椅子に腰を下ろした途端、疲れが一気に押し寄せてきた。
公園での出来事、記憶の乱れ、エコーの分析──すべてが重くのしかかる。
思考が追いつかない。
眠気が容赦なく襲いかかる。
──そして、俺は眠りに落ちた。
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12. 眠りの中で
──何かが聞こえる。
声だ。
「……俺を、忘れないでくれ。」
それは、どこか懐かしく、しかし儚い響きを持っていた。
「俺は、ここにいたんだ……」
意識の奥深くに、"何か"が残っていた。
消えていく記憶の断片を、わずかに掴んでいる感覚。
「……レム……ノス……」
寝ている間に、記憶が消されることはなかった。
それどころか、眠る前よりも"レムノスの存在"を少しだけ強く感じていた。
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13. 目覚め
ゆっくりと目を開ける。
個室の暗い天井が視界に入る。
時間はどれくらい経ったのか?
体は重いが、意識は先ほどよりはっきりしている。
──レムノスは、確かに"いた"。
誰かがそれを消そうとしている。
だが、まだ完全には消えていない。
俺が覚えている限り。
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