1 消えた記憶
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1. 痕跡を追う
静かな電子音が事務所に響く。
エコーが端末を操作し、俺の行動履歴を検索していた。
「昨日の夕方、記録が残ってるのは16時30分まで。その時点では事務所にいたな」
エコーのホログラムが淡く光り、デスクの上に最後に記録された行動ログが映し出される。
16:12 端末で依頼の報告を送信
16:24 事務所でコーヒーを淹れる
16:30 モニタリングをオフにする
そこから──空白。
ログが再開するのは、20時45分。
俺が再び事務所に戻り、モニタリングをオンにした瞬間だった。
「で、20時45分に帰宅して、そのまま寝た、と」
「間が4時間も空いてるな」
「そりゃそうだ。お前がオフにしてたんだから」
エコーのホログラムが小さく揺れる。
「探偵、お前本当に覚えてないのか?」
「……ああ」
昨日のことを思い出そうとする。
だが、意識を向けるほど、霧がかかったように曖昧になる。
考えれば考えるほど、記憶の端が崩れていくような感覚。
「それにしても……」
エコーがデータをスクロールさせながら呟く。
「普段の仕事なら、モニタリングを切ることはないよな。しかも4時間も?」
「俺がわざわざオフにしたってことは、記録に残したくない用事があったってことか」
「でも、お前は何も覚えてない、と」
端末の画面を見つめる。
そこには、何も残されていない。
だが──この空白の時間に、俺は確かに"レムノス"という名前を知った。
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2. 公園にいた俺
「エコー、この時間帯の外部データは?」
「カメラのログは残ってるが、お前がどこにいたかまでは分からん」
「いや、都市ネットワークの監視カメラの履歴はどうだ?」
「……ちょっと待てよ」
エコーが端末を操作し、都市ネットワークに接続された監視システムの履歴を探る。
公共エリアのカメラデータはリアルタイムで解析され、必要があればアクセスも可能だ。
エコーが数秒沈黙し、そして低く呟く。
「……いたな」
「どこだ?」
「モニタリングをオフにしてから20分後、公園にお前が映ってる」
「公園?」
俺は眉をひそめた。
なぜ公園に?
映像には、俺が公園のベンチに腰掛け、じっと前を見つめている姿が映っていた。
だが、それ以外には何の情報もない。
誰かと話していたのか、何をしていたのか──それは映像だけでは分からなかった。
「どれくらい滞在してた?」
「そこまでは分からん。滞在時間のデータはない。
ただ、その後のログにお前の姿は映ってないから、しばらくして立ち去ったのは確かだな」
何をしていたのかも分からない。
しかし、俺は確かにその公園にいた。
「……なら、行くしかないな」
俺は立ち上がり、上着を手に取る。
「おい、もう決まりか?」
「手がかりがないなら、自分で確かめるしかないだろ」
映像に映った俺が、何を考えていたのか。
誰かと会っていたのか。
──そして、"レムノス"という名前を、俺はどこで知ったのか。
「よし。じゃあ、行くか」
エコーが軽快に言う。
雨音が窓を叩く。
傘を手に取り、事務所の扉を開けた。
"レムノス"の痕跡を追って、公園へ向かうために。
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3. 公園の夜
夜の公園は静まり返っていた。
雨はすでに上がり、湿った空気が肌にまとわりつく。
街灯の薄明かりが、ベンチや遊歩道をぼんやりと照らしている。
この時間帯に人影はほとんどなく、通り過ぎる車の音だけが遠く響いていた。
「……本当に何も覚えてないのか?」
エコーのホログラムが手のひらサイズの光となり、俺の隣を漂う。
問いかけには答えず、視線を地面に落とす。
昨日、俺はこの公園に来た。
それは確かだ。
だが、なぜ来たのか。
ここで何をしていたのか。
──それが、どうしても思い出せない。
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4. 違和感の正体
足を踏み出すたび、湿った土がわずかに沈む感覚がある。
俺はゆっくりと公園を歩きながら、昨日の自分の行動をなぞるように視線を巡らせた。
ここに来た理由。
ここで何かを探していたのか?
それとも、誰かと会っていたのか?
──違う。
そうではない。
そうではない気がする。
俺はここで、"何かを忘れた"。
それだけは確かだった。
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5. 沈む世界
「……っ」
突然、頭の奥が痛み、視界がぐらついた。
耳鳴りがする。
体のバランスが崩れ、思わず膝をつく。
「探偵?」
エコーの声が遠くなる。
何かが──"沈む"感覚。
足元の地面が、不自然に揺れる。
いや、揺れているのは俺の意識か?
──ズブリ。
地面が、俺の足を飲み込んだ。
暗闇が視界を満たす。
意識が、深く沈んでいく。
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6. ぼんやりとした光
──何かが揺れている。
ぼんやりとした意識の中で、青白い光が瞬いていた。
淡く、一定のリズムで点滅している。
遠くで、声がする。
「……探偵、意識はあるか?」
エコーの声だった。
反応しようとするが、体が思うように動かない。
喉が渇いたように乾き、声が出ない。
ようやく、かすれた言葉を絞り出す。
「……俺は……」
どこにいる?
何をしていた?
考えようとすると、霧のように思考が広がり、掴めない。
それでも、エコーの声に無意識に答えようとしていた。
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7. レムノスという名
「……俺は、公園にいたんだよな。」
呟くように言葉がこぼれた。
自分で言いながらも、どこか他人事のような感覚。
エコーがわずかに光を強めた。
「そうだ。お前は公園でぶっ倒れてた。正確には、自分の頭の中で迷子になってたがな」
頭を押さえる。
じんわりとした鈍い痛みが残っている。
記憶の断片が、ゆっくりと形を取り戻しつつあった。
「……レムノスを、探してた。」
口にした途端、意識が少しはっきりする。
レムノス。
その名前を確かに知っている。
けれど、その存在はどこか遠くにあるような気がする。
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8. すれ違う現実と記憶
エコーが小さくため息をついた。
「やれやれ、ようやく戻ってきたか。まったく……お前、ギリギリだったぞ。」
遠のいていた意識が、ようやく現実に引き戻される。
俺は確かに、公園にいた。
レムノスという名前を知っていた。
けれど──
「……俺は、何を見てた?」
エコーの光が、僅かに揺れる。
「さあな。お前が勝手に沈んでっただけだ。俺には、お前がただ地面に手を伸ばしてるようにしか見えなかった。」
地面に、手を伸ばしていた?
俺は、自分の指先を見つめた。
確かに、何かを掴もうとしていた気がする。
けれど、その"何か"が、どうしても思い出せない。
まるで、指の間から零れ落ちる砂のように。
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