17 脱出
1 沈み込む意識の中で
ほんの僅かに、探偵のまぶたが動いた。
その目にはまだ焦点がなく、虚ろな光が揺らいでいる。
彼は、探偵の肩を支えながらゆっくりと促す。
「分かっている。探偵、俺も力を貸すが、出来るだけ歩いてくれ。お前は、エコーの『相棒』なんだろう?」
探偵のまばたきが、ほんの少しだけゆっくりになった。
彼の言葉がどこまで届いているのかは分からない。
だが、探偵の唇が微かに動いた。
「……エコー……」
音にならないほどの小さな声だった。
それでも、"言葉として"探偵が発したものには違いない。
彼は探偵の腕を掴み、ゆっくりと引き上げた。
「……出来るだけ歩いてくれ。」
探偵の身体が、僅かに反応する。
"言葉の意味を理解しているのか"は不明だったが、"動け"と言われたことは伝わったらしい。
探偵の足が、前に出る──だが、バランスが取れない。
「っ……」
膝がかくんと折れかけるが、彼が素早く支えることで何とか立っていられる。
「おいおい、しっかりしろよ……」
思わずため息を漏らす。
だが、確かに"歩こうとしている"。
"言われたから"かもしれない。
それでも、探偵は歩こうとしていた。
「……エコー……」
再び、その名を口にする。
ゆっくりと、探偵の指が僅かに動く。
まるで、"何かを探すように"。
2 エコーの観察
ホログラムの光が、一瞬だけ揺れた。
まるで、それが"懐かしい言葉"であるかのように。
ただ、その光が"探偵をじっと見ている"のが分かる。
エコーは、探偵の意識が"まだ混迷の中"にあることを理解している。
だが、"エコー"という名前を口にしたことは、何かしらの手がかりになる可能性があった。
「……少しずつでいい。だが、"確実に歩いてもらわないと困る"。」
探偵の腕をしっかりと支えながら、彼は小さく息を吐いた。
「行くぞ。」
短く告げると、探偵の身体が僅かに揺れた。
言葉の意味をどこまで理解しているかは分からない。
だが、彼の声が"次の動作を促す合図"であることは察知しているようだった。
ゆっくりと、足が動く。
左足を前に出す。
それに続くように、右足を出す。
──だが、その歩みはあまりに頼りない。
膝が不安定に震え、僅かに躓く。
「っ……大丈夫か」
彼はすかさず探偵の腕を引いた。
倒れかける探偵の体勢を立て直し、無理にでも前へと進ませる。
「歩けるか?」
探偵は、彼の問いに返事をしない。
その代わりに、彼の手を握る力がほんの僅かに強くなった。
言葉に従う歩み
彼は迷うことなく探偵の身体を支えながら歩調を合わせる。
引きずるのではなく、"歩かせる"。
探偵の身体が完全に預けられてしまえば、移動の負担が増す。
それに、"足を動かしている"ことが、催眠状態からの脱却を助ける可能性もある。
「……歩け、探偵。」
語気を強める。
これは命令ではない。
"お前は歩けるはずだ"、という彼の確信に近い意思表示だった。
探偵は、意識が混濁したままでも"言葉に従って動こうとしている"。
僅かに前へ進むペースが安定し始める。
だが、完全な回復には程遠い。
「いいか、そのまま……そうだ、そうやって歩け。」
何度も何度も、繰り返し言葉をかける。
それが、探偵を"動かし続ける"ための唯一の手段だから。
―――
3 エコーの分析
「……ルート、問題なし。今のところ"警備の動きは鈍い"。」
エコーのホログラムは、一定の距離を保ちながら先導している。
探偵の異常な歩調をじっと観察しながら、さらに分析を進める。
「……探偵の脳波、まだ深く沈んでる。
だが、歩いてる間に"反応が微妙に変化してきてる"。」
催眠状態にあるとはいえ、探偵は"完全な無意識ではない"。
歩行を続けることで、"外部からの刺激"が僅かに影響を与え始めている。
エコーは、その"微細な変化"を見逃さなかった。
「レムノス、お前の声に"反応してる"。まるで、"音を手がかりにしてる"みたいだ。」
彼は、エコーの分析を聞きながら再び探偵に声をかける。
「いいか、あと少しだ。俺の声を聞け。」
探偵の足取りが、ほんの少しだけ安定する。
それを見たエコーのホログラムが、僅かに光を瞬かせた。
―――
4 最終的な課題
エコーが示したルートを進みながら、彼は探偵の状態を注意深く観察する。
目覚める気配はまだない。
だが、"歩けている"。
警備の動きは鈍いが、スタッフがいつ戻るかは不明。
探偵の状態は依然として"不安定"。だが、"完全な昏睡ではない"。
エコーのホログラムが、薄く揺れる。
「……レムノス、"ここを抜ければ、外のシャトルまで行ける"。」
「だが、"探偵がこの状態で輸送スタッフに見られたら、怪しまれる"ぞ?」
次の課題は、"探偵をどうカモフラージュして外に出すか"。
探偵には、研究員のIDと白衣を持たせている。
だが、それだけでは不十分だった。
このままでは、搬出エリアで"輸送スタッフに不審がられる可能性"が高い。
「心配しなくてもいい。探偵、いや研究員の具合が悪くなっているから、休憩中の俺が外の空気を吸わせに行くだけなんだから」
エコーのホログラムが、淡く明滅する。
「……なるほど。"研究員の体調不良"か。」
それなら、疑われる可能性は最小限になる。
問題は、搬出エリアまで確実に辿り着けるかだ。
「……なら、それを"裏付ける"準備がいるな。」
エコーがデータベースに"研究員の軽度の体調不良報告"を登録。
「……よし、これで"お前の説明に整合性が取れた"。
あとは、お前の演技次第だな。」
彼は、探偵の身体を支えながら、"演技"を開始する。
―――
5 緊迫する瞬間
施設の搬出エリアに近づいた瞬間、警備員の視線が彼らを捉えた。
僅かな違和感を覚えたのだろう。
「……おい、お前たち……?」
低く、警戒を帯びた声が響く。
目が合う。
彼は探偵の腕を支えながら、静かに足を止めた。
探偵の虚ろな表情は、過労に見えなくもない。
だが、それだけでは警備の疑念を払うには不十分だった。
「……待て、ちょっと確認させてもらうぞ。」
警備員が近づいてくる。
すぐに拘束されるわけではないが、このままでは怪しまれるのは時間の問題だった。
耳元でエコーの声が低く響く。
「……まずいな。"ハッキングでの誤魔化し"は間に合わねえ。」
エコーの能力で施設のセキュリティに介入し、混乱を起こすことはできる。
だが、目の前の警備員に対して"直接的な対処"はできない。
今の状況は、彼自身の対応に委ねられていた。
「……誤魔化せるか?それとも"別の手"を考えるか?」
一瞬の思考。
だが、焦りはなかった。
"言葉で納得させるしかない"。
彼は、探偵の腕を支えたまま、静かに口を開いた。
「こいつ、何日も寝てなかったみたいで。」
警備員の眉が動く。
「何でも、被検体が逃走したせいで、その責任を取るために走り回ってたんです。」
"被検体の逃走"──それは、施設内で既に起きていた事実。
警備員たちも混乱の中にいたため、彼の言葉に強い違和感は抱かない。
「この間、ようやく被検体を確保したから、安心したみたいです。」
言葉に"疲れた研究員"の感情を滲ませる。
警備員が彼の顔をじっと見つめる。
「一度家に帰れと、言われたんです。」
彼の声には、わずかに倦怠感が混じっていた。
もし、警備員が納得しなければ、別の手を考える必要があった。
だが、警備員はしばらく彼を見つめた後、探偵に目を向ける。
探偵の虚ろな目。
頼りない足取り。
「……確かに、こいつ相当疲れてるみたいだな。」
ため息をつきながら、腕を組む。
「ったく……逃げられたせいで、現場は相当バタバタしてたからな。こういう奴がいてもおかしくねえか。」
納得しつつも、最後に確認を入れる。
「で、"こいつは家に帰る"ってわけか?」
彼は静かに頷いた。
すると、警備員は"ふぅん"と鼻を鳴らしながら、手をひらひらと振る。
「まあいい。……だが、お前は残れ。」
―――
6 探偵の脱出、そして
耳元でエコーの電子音がわずかに揺れる。
「……ふぅ、上出来だな。」
エコーの声には、安堵と皮肉が混じっていた。
「……まったく、ギリギリの説得だったな。」
だが、重要なのは結果だ。
"探偵は無事に施設の外へ送り出せる"。
警備員がシャトルの係員に向かって指示を飛ばす。
「"こいつ、帰宅する研究員だ。"シャトルに乗せてやってくれ。」
探偵の脱出は確定した。
だが、彼は"研究員として"施設に残ることになった。
警備員が彼を指差しながら言う。
「お前は戻れ。研究員なら、他にもやることがあるだろ?」
彼は軽く息を吐いた。
──分かっている。
今日は、忙しくなる。
躊躇わずにシャトルから離れる。
それを確認し、警備も警戒を解いた。
そして、シャトルが動き出す。
探偵は、ゆっくりと後部座席に座る。
彼の視線は遠く、まだ意識は完全には戻っていない。
それでも、シャトルは施設を出た。
彼の役割は終わった。