16 邂逅
1 静寂の部屋で
ほんの一瞬の隙。
散り散りに移動するスタッフたちに紛れ込むようにして、彼は目的の部屋へと滑り込んだ。
そこはまるで**"思考を沈める"**ために作られたかのような無機質な空間だった。
壁は淡いグレーで統一され、視覚的刺激を排除するように計算されている。
温度は一定に保たれ、外界の気配を感じさせない。
ただ、無音の冷気が静かに支配しているだけだった。
部屋の奥。
椅子に座り、中空をぼんやりと見つめる探偵の姿があった。
薬物催眠状態──それは、ひと目で分かった。
呼吸は一定で、身体は拘束されていない。
だが、その目は焦点を結ばず、虚空を漂うように揺れている。
意識がどこか遠くへ置き去りにされたような状態だった。
思わず舌打ちする。
だが、同時に安堵もした。
拘束がないということは、まだ本格的な実験が行われていないという証拠だ。
今なら、まだ間に合う。
彼は静かに探偵の肩に手を置き、慎重に声をかけた。
「……聞こえるか、探偵?」
しかし、返事はない。
手のひら越しに伝わる微かな体温。
それが、彼がここに"存在している"という唯一の証だった。
だが、探偵の意識はこの部屋にない。
「……おい、聞こえるか?」
もう一度呼びかけ、探偵の手を握る。
すると、探偵の指がわずかに動いた。
──反応がある。
ほんの微細な動きだが、確かに"触覚刺激"に対して応じている。
完全に意識を失っているわけではない。
―――
2 エコーの分析
ホログラムの光が静かに揺れる。
エコーは探偵の周囲をスキャンし、即座に状況を分析した。
「……まずいな。」
その声には、これまでにないほどの冷静さが宿っていた。
「探偵は完全に薬物催眠状態にある。下手に刺激を与えれば、かえって精神が不安定になる可能性がある。」
エコーの解析が続く。
「薬の成分は特定できないが、強力な精神安定剤か、催眠誘導剤の類いだろう。
おそらく、深層記憶や潜在意識を探るために使用されている。」
エコーの言葉は静かに響く。
「今は無理に覚醒させるよりも、少しずつ刺激を与え、意識を回復させるのがいい。」
それが、最適な手順。
しかし──
「選択の余地はない。」
彼は、探偵のIDを首にかけ、自分が着ていた白衣を彼に羽織らせる。
「ここから離れることが最優先だ。スタッフが戻る前に動くぞ。」
―――
3 撤退準備
探偵の手を取り、肩を支える。
「さあ、立て。俺と一緒に来るんだ。」
──ゆっくりと、探偵が立ち上がる。
しかし、その動きは"自発的なもの"ではない。
膝がガクンと折れ、体が揺れる。
「……っ!」
反射的に彼は探偵の腕を引き、倒れるのを防ぐ。
探偵はかろうじて立っている。
だが、まだ"ここがどこかも理解していない"。
唇が微かに動く。
しかし、その声はあまりに小さく、何を言っているのかは聞き取れなかった。
"まだ夢の中にいる"。
エコーのホログラムが、静かに光を揺らしていた。
普段の軽口はない。
代わりに、わずかにため息のようなノイズが響く。
「……これは"歩ける"とは言えねえな。」
探偵の意識はまだ曖昧だ。
完全に回復するまでは、まともに歩くことすら難しい。
今は"支えながら移動する"しかない。
「……だが、時間がねえ。移動ルート、探すぞ。」
エコーは即座に施設のハッキングを継続する。
ドアロックの状態、警備の動き、スタッフの移動経路──すべてを分析する。
そして、一つの答えを導き出した。
「聞け。」
エコーの声が、いつになく真剣だった。
「"現時点で、一番安全に出られるルート"を見つけた。」
―――
4 唯一の脱出経路
それは、地下搬入エリアを経由し、外部の搬出用シャトルに紛れ込むルート。
スタッフの移動によって警戒が分散している今なら、ギリギリ抜けられる可能性がある。
「だが……お前、"探偵を運べるか?"」
エコーのホログラムが、淡く明滅する。
探偵の意識はまだ戻らず、移動のたびにバランスを崩す可能性が高い。
ここから抜け出すには、"探偵の負担を最小限にする方法"を考えなければならない。
エコーのホログラムがわずかに揺れ、低く呟く。
「……こっちでサポートできることがあれば、言え。」
その声には、わずかに焦燥が滲んでいた。
探偵を連れて、ここを脱出する。
それが、今の最優先事項だ。
時間はない。
選択もない。
「行くぞ。」
彼は探偵の腕をしっかりと支えながら、足を踏み出した。