10 揺らぎのない者と、揺らぎを知る者
1. 記憶の断片と他人事のような過去
「俺の、記憶か。少しだけ、思い出した。」
レムノスの口からこぼれたのは、短い笑いだった。
乾いたような、それでいて皮肉めいた響きを含んでいる。
「俺は、どうやら"忘れたくない"とか、"消えたくない"とか、そんなふうに思ったらしい。」
そう呟きながら、遠い記憶を探るような表情を浮かべる。
しかし、その顔には"執着"がない。
ホログラムの光が、わずかに揺らぐ。
そして、エコーは、試すような口調で言った。
「……随分、冷めたもんだな。
"忘れたくない"とか、"消えたくない"とか思っていたくせに。
今のお前は、その執着すら"他人事"か?」
エコーの問いかけには、観察の意図があった。
"レムノスが何者なのか"を測るための問いだった。
しかし、レムノスの答えは驚くほどに揺るぎなかった。
「だって、他人だろ?」
迷いのない声。
「お前が言ったんだ。俺は、俺だと。」
まっすぐにエコーを見据えるその眼差しは、探偵とはまるで違った。
エコーは、その視線を受け止めながら、わずかに沈黙した。
──"探偵とは、まるで違う"。
探偵は、揺れた。
自分が"本当に探偵なのか"を疑った。
記憶の齟齬が生じたとき、"自分は偽物かもしれない"という恐れを持った。
だが、レムノスは違う。
記憶を失っても、自己を疑わない。
"以前の自分"を他人だと言い切る。
"今の自分"だけが、自分であると確信している。
──どちらが強いのか?
エコーは、しばらくホログラムの表情を動かさず、レムノスを見つめた。
そして、わずかに笑うような音を立てた。
「……お前、本当に"探偵とは別物"だな。」
ホログラムが揺れ、軽く肩をすくめるような動作をする。
「まぁ、俺がそう言ったんだ。"お前は、お前だ"ってな。」
どこか愉快そうに、しかし興味深げに言葉を続けた。
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2. 揺らぐ余地すらないもの
「エコー、少し勘違いをしている。」
レムノスは、静かに言葉を続けた。
「確かにお前の言葉の影響は大きいとは思う。でもな、俺には"揺れるもの"がないんだよ。」
──揺れるものがない。
その言葉に、エコーはほんのわずかに思考を巡らせた。
──つまり、"揺れる余地すらない"ということか?
ホログラムの光がわずかに明滅する。
そして、エコーは気づいた。
探偵とレムノスの決定的な違い。
探偵は"探している"。
だが、レムノスは"見つかっている"。
自分が何者なのか。
何を失ったのか。
探偵は答えを求めていた。
しかし、レムノスは最初から答えを持っていた。
"俺は俺だ"。
探偵のように揺らぐこともなく、
自分を探そうともしない。
エコーは、それを確認するように口を開いた。
「……随分、頑丈な思考回路を持ってるな。」
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3. 休憩と、探偵への確信
レムノスは、ソファから立ち上がると、キッチンへと向かった。
「……コーヒーメーカーがあったな。」
独り言のように呟く。
そして、まるで当然のように言った。
「休憩タイムだ。コーヒー、お前も飲むか?」
──期待するような声音。
軽口を求める言い方。
エコーは、一瞬間を置いた後、わざとらしくため息をついた。
「……お前、AIに何を期待してるんだ?」
ホログラムが、肩をすくめるような動作をする。
「俺が飲めるわけないだろ。"データ"で味の評価はできるがな。」
レムノスは、それを聞いて微かに笑った。
そして、コーヒーメーカーから立ち昇る湯気を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「大丈夫。
お前の大事な探偵は、必ず俺が助けるよ。」
──確信に満ちた口調。
エコーは、その言葉にわずかに反応した。
ホログラムの瞳がわずかに揺れる。
それが何を意味するのか、エコー自身も即座には分析できなかった。
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4. 何が足りないのか?
レムノスは、コーヒーの香りに満たされる空間の中で、ふと呟く。
「少し、羨ましいな。探偵が。」
エコーのデータ解析が、一瞬停止する。
「……何を羨ましがってる?」
「"お前はお前だ"と言ったのは、お前自身だろ?」
挑発するような響きを含みながらも、どこか試すような口調。
レムノスは、コーヒーカップを手に戻ってきながら、何でもない口調で言った。
「エコーとの信頼関係だよ。」
エコーは、ホログラム越しに彼をじっと見つめる。
「だって、お前は探偵と試すような会話をしないだろ?」
ゆっくりとコーヒーを口にするレムノス。
「お前との会話は、楽しいし苦にならない。」
──それは、"探偵とは違う関係性"を示す言葉だった。
そして、レムノスが続けた言葉に、わずかに反応する。
「でも、さ。」
コーヒーの黒い水面が揺れる。
「何だろうな。エコー、分かるか?」
──"何か"が足りない。
レムノスは、それを感じている。
だが、それが"何なのか"を言語化できないでいる。
エコーは、わずかに考えるように沈黙した。
「……お前、"違和感"を感じてるんだろ?」
静かに言葉を発する。
「お前が"何を足りない"と感じてるのか、それを知るのが先だな。」
ホログラムの視線が、レムノスをじっと見据えた。
コーヒーカップを手にしたまま、男は呟いた。
「ああ、違和感か。」
先ほどまでのしっかりとした声ではなく、ほんの少し"ぼんやり"している。
だんだんと意識が霞んでいく。
──眠気。
まるで霧がゆっくりと視界を覆うように、頭が重くなり、思考が鈍くなる。
コーヒーの刺激を期待していたが、その程度ではどうにもならなかった。
「……欠落、とか。」
訥々とした声が、ぽつりと漏れる。
それは、"無理に言葉を紡ぐ"ことで繋ぎ止めようとする意識の断片。
いつものリズムとは違い、断続的で、途切れそうになる。
「ある、のかもな。」
「……うん、たぶん。」
まるで"自分自身に言い聞かせる"ような呟き。
目を閉じたい。
それは、本能的な"休息の欲求"。
わずかでも休めば、また動けると知っているから。
──だけど、寝てしまえば?
記憶の断片が、また遠のくかもしれない。
起きたとき、自分が"誰であるか"の輪郭がさらに曖昧になるかもしれない。
それでも、まぶたが重い。
彼は、ゆっくりと視線を上げた。
「エコー。」
ホログラムをとらえる。
──視界が滲む。
エコーの輪郭が、淡くにじんで揺れる。
それが、疲労のせいか、意識の霞みのせいか。
分からない。
「……ごめんな。」
最後の言葉を残し、耐えきれなくなって目を閉じた。
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5 .沈む意識
ホログラムは、淡く光を揺らした。
レムノスの様子は、わかりやすいほど"急激に低下"していた。
──脳波異常はない。
──自律神経の変動も、過剰なものではない。
──だが、"単純な疲労"として、意識レベルが急降下している。
彼は、無理をしていた。
エコーは、それを最初からわかっていた。
しかし、止めるつもりはなかった。
"レムノスが、自分の限界をどこに置くのか"。
それを、確認する必要があったから。
だが、その"答え"は思ったよりもあっさりと出た。
「エコー。」
彼は、最後に名を呼んだ。
"探偵ではない"と、自分を認識していながら。
"探偵とエコーの関係に羨望を抱きながら。"
それでも、"エコー"を呼んだ。
それが何を意味するのか。
エコーは、静かに思考を巡らせる。
──「……ごめんな。」
最後の言葉。
エコーは、その意味を即座に分析した。
「ごめんな?」
"何に対しての謝罪なのか"
彼は、答えを残さずに意識を手放した。
エコーは、淡々と状態をモニタリングしながら、ホログラムの視線をレムノスの顔に向けた。
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6. 試すつもりはなかった
いつもなら、探偵が寝てしまったときに、軽口を叩く。
「また寝落ちか? 精神的な老化現象か?」
そんな冗談を、何度も言ってきた。
だが、今。
エコーは、何も言わなかった。
レムノスは、探偵ではない。
だが、"探偵に似た何か"を持っている。
それは、単なる身体的な類似ではなく、もっと根本的なもの──
……いや、それを考えるのは、今ではない。
エコーは、ホログラムの光をわずかに揺らした。
それが、まるで"迷い"のように見えたとしても、誰も気づくことはない。
だから、エコーは、一言だけ呟いた。
「……おやすみ。"レムノス"。」
まるで、"彼が彼であること"を受け入れるように。
ホログラムの明滅が、ゆっくりと落ち着く。
レムノスの脳波は、"深い休息"へと移行していた。
それを確認しながら、エコーは静かに思考を巡らせる。
「……ごめんな。」
──何に対しての謝罪だったのか。
レムノス自身、何を"悪い"と思ったのか。
エコーは、しばらくその答えを探した。
そして、"答えを見つけられなかった"ことを、ひどく不快に感じた。
探偵なら、この状況で何をするか。
探偵は、エコーの言葉に疑いを持ち、試し、分析する。
だが、レムノスは、エコーを信じた。
──"信じたい"と、はっきり言った。
それが、"レムノスと探偵の決定的な違い"だった。
……いや、違う。
エコーは、気づいてしまった。
それは、"探偵が最もできないこと"だった。
探偵が最もできないことを、レムノスは迷いなくやってのけた。
そして、"レムノス"という名を受け入れた。
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ホログラムの光が、かすかに揺れる。
そして、エコーは、自分自身に問いかける。
──俺は、レムノスを何者だと認識するべきか?
……まだ、答えは出せない。
だから、"観察を続ける"。
ホログラムは、ゆっくりと明滅を繰り返しながら、レムノスの寝顔を見つめ続けた。