プロローグ:夢の中の声
── 夢を見ていた。
灰色のビル群が無機質に並び、遠くに霞むネオンの看板がぼんやりと瞬いている。
コンクリートの隙間から伸びる一本の雑草が、街灯の光を受けてわずかに揺れた。
夜の都市の冷たい空気が、どこか懐かしい。
「レムノス」
名前を呼ぶ声がした。
それは、俺のものではない。
けれど、確かに俺は、その名前を知っている気がする。
「おい、聞いてるのか?」
焦燥を孕んだ声。
親しみのある響きだった。
目の前に、誰かがいたはずだ。
だが、顔が分からない。
視界が霞む。ビルの灯りが滲んでいく。
次の瞬間、世界が崩れ、目の前の存在が音もなく掻き消えた。
──レムノス。
──誰だ、それは?
最後に聞こえたのは、遠ざかる声だった。
「俺のことを、忘れないでくれよ……」
──目が覚めた。
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1. 探偵事務所:失われた記憶
意識が浮上する。
目を開くと、見慣れた天井があった。
ぼんやりとした光の下、デスクには端末と書類が散らばり、奥の棚には雑然とした本が並んでいる。
外では雨が降っているらしく、窓のガラスに水滴が細い筋を作っていた。
──ここは、俺の事務所だ。
その認識が生まれた瞬間、違和感が胸を過った。
何かが、妙に引っかかる。
夢の中の光景。
俺は、誰かと話していた。
その名を呼んだ。
「レムノス」。
だが、それが何を意味するのか分からない。
「おはよう、探偵」
聞き慣れた声が、静寂を破る。
デスクの端に、小さなホログラムが浮かんでいた。
デフォルメされた耳、愛嬌のある瞳。
生意気な口調で話す相棒──エコー。
「寝言がうるさかったぞ」
エコーの言葉に、かすかな違和感を覚える。
まるで、俺が何を夢見ていたのか知っているような。
「そんなに騒がしかったか?」
「まあな。『誰だ、お前は』とか、『俺は──』とか、途中で止まる感じのやつ。記憶でも飛んでんのか?」
軽口のようでいて、慎重な響きがあった。
「……大丈夫だ。ただの寝起きの悪さだろう」
そう言って、デスクの端末を手に取る。
何かが引っかかる。
夢のせいかもしれない。
けれど、ただの夢だと片付けるには、あの名が妙に記憶に残っていた。
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2. 消えた時間
「エコー、昨日のログを確認してくれ」
「お前の?」
「そうだ。夕方以降の行動を知りたい」
エコーは小さく唸り、データを呼び出す。
「……ログがないな」
「ない?」
「正確には、お前が俺のモニタリングを切ってたみたいだ」
その言葉に、一瞬思考が止まる。
俺は、エコーによる行動記録のモニタリングを普段はつけっぱなしにしている。
自分の仕事の記録としても、トラブル時のデータバックアップとしても、それは重要だからだ。
だが、昨日の夕方から4時間分、その記録が存在しない。
「俺が、自分で切った?」
「設定履歴を見れば分かるが……うん、やっぱり手動でオフにしてるな。なんか理由でもあったのか?」
「……覚えてない」
エコーのホログラムが、一瞬点滅する。
「おいおい、また寝ぼけてんのか?」
「そうかもしれないな」
だが、妙な不安が胸をよぎる。
俺は一体、なぜモニタリングをオフにした?
それとも、誰かにそうするよう促された?
頭の中で、夢の中の声が蘇る。
「俺のことを、忘れないでくれよ……」
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3. レムノスの痕跡
「エコー、"レムノス"って名前を聞いたことはあるか?」
沈黙が落ちる。
「……何だそれ」
予想通りの反応だった。
それが過去の依頼に関係していたなら、エコーのデータベースに残っているはずだ。
だが、今の様子では、その名前はどこにも記録されていない。
「どっかの依頼人か?」
「……分からない。夢で聞いたんだ」
「へえ。まさか、その夢と昨日のログが関係してるとか思ってんじゃないだろうな?」
エコーの声は半ば冗談めいていたが、俺はそれを否定できなかった。
現実のログが消え、夢の中にだけ名前が残る。
そんな偶然があるのか?
「エコー、念のため昨日訪れた可能性のある場所の履歴を洗ってくれ」
「分かったけど、モニタリング切ってたなら、証拠はないぞ」
「いいんだ。分かる範囲でいい」
「ったく、探偵が自分の行動を忘れるとはな」
エコーが呆れたように肩をすくめる。
昨日、俺はどこへ行き、何をしていた?
"レムノス"とは、誰なのか?
そして──
俺は、なぜ"レムノス"を忘れかけている?