1-4 タルシスシティ
宇宙西暦3189年────。人類による本格的な火星のテラフォーミングと移住プロジェクトの始動から800年ほどの年月が過ぎた今、タルシスシティは太陽系最大の”開放型惑星都市”となっていた。
開放型惑星都市とは、都市全体を防護する物理的な隔壁と気密性を必要としないコロニーの形態であり、地球型生命の生存に必要な大気や温度などの条件が揃ったごく一部の惑星においてのみ建設・運用が可能である。これは、かつて人類が地球上で生活していた頃の形態に最も近く、多くの場合では最低限のシールド発生装置や重力フィールドこそ必要なものの、同規模の完全閉鎖型都市に比べれば維持コストが格段に低く済むことから、理想のコロニーとされている。
もっとも、火星テラフォーミングの要となった『マリネリス緑化計画』は、マリネリス研究所の核融合炉暴走という宇宙暦史上最大の原子力事故『マリネリス・ゼロ』を引き起こした。これにより、火星における未来永劫のテラフォーミング自体が失敗に終わったかのように思われた。
しかし信じられないことに、事故直後────研究所跡地を中心として、マリネリス峡谷はおろか、タルシス周辺一帯を緑で覆い尽くすうっそうとした熱帯雨林様の植物群が出現したのだ。この超常現象としか言いようのない出来事は、事故から数世紀が過ぎた現在でも完全な解明には至っておらず、様々な仮説が議論され続けている。
結果として、マリネリス・ゼロによって出現した未知の原生植物群は、火星に大量の窒素・酸素・二酸化炭素などを含む大気をもたらし、従来の常識を完全に覆す速度で急速な温暖化が進行した────。信じられないことに、人類は事故から半世紀ほどで、生命維持装置無しで過ごせる環境を獲得してしまったのだ。
「気になっていたのだけど。どうしてクリスマスツリーには雲の飾りがついているんだろう?」
「ニナ、あれは雲じゃない。雪だよ」
サウス・アベニュー商店街区画の街角に飾り付けられたクリスマスツリーを眺めながら、レンがニナの疑問に答える。現在も火星の気候は非常に不安定であるため、四季らしい四季が存在しない。八月に吹雪でホワイト・アウトすることもあれば、十二月に激しい雷雨を伴いながら最高気温摂氏60度を観測することもある。
「雪なんだ。知らなかった」
「地球のクリスマスはさ、あちこちで雪が降る頃のイベントだったんだよ。地球じゃ、火星と違って一年中雪が降ってるワケじゃない。いわゆる、季節っていうやつがあったんだ」
「へぇそうなんだ。さすが、地球に住んでたヒトの言うことはタメになるね」
「おーい。地球人が絶滅したのは、今から何年前ですか?? 俺がそんなジジイに見えますかってんで!」
レンがニナに向き直って自身の額を指差しながら抗議する。ニナは、レンの頭を肉球でポンポンと叩く。
「だってレン、地球好きの偏屈なおじいちゃんたちも知らないような昔話ばかりするでしょ。これは私の仮説だけど、きっとレンは脳みそだけ地球人なんだよ。多分八歳くらいの地球人の男の子から移植した脳みそが入ってる」
「おい‼︎ よりにもよって、何でそんなガキの脳みそなんだよ! メイメイより歳下かぁ⁉︎」
「ふふ……レンが一番ガキだもん」
クリスマス・イヴということもあり、今日は商店街区画のどの店も普段よりも遅くまで営業している。ただし、それはサウス・アベニュー周辺のような経済活動が盛んな都会の商店や大型商業施設に限った話で、居住地区に点在する個人商店やスーパーマーケットの店主は、早々に店仕舞いをして各々家族との時間を過ごすのが普通だ。少し遅い買い出しのため街を行く人々も、幸せそうな大家族から、落ち着いた老夫婦、情熱的なカップルと、まさに十人十色といった様相である。
「やっぱりマサムネたちも連れて来てやれば良かったかな」
玩具屋の紙袋を片手にはしゃぐ兄弟を眺めながら、レンがぽつりと呟く。
「それは喜ぶだろうけど、絶対に大変だよ。あの子たち、はしゃいで何を言い出すか分からないから」
「やっぱそうだよなー。あいつらには悪いけど、連れて来なくて正解か」
──丁寧にワックスがけされたピカピカの車体に”MPD”と目立つフォントで記された高機動車で大通りを巡回しているのは、火星暫定政府の運用する地域警察部隊だ。片や、上空を旋回するサーチライト付きのVTOL(※垂直離着陸型の航空機全般を指す)や、要所要所に設置された物々しい雰囲気の検問所を塞ぐ装甲車には”UNSF”──宇宙連合軍を意味する地味なペイントが施されている。
総人口6億人を抱える太陽系最大都市の治安維持のためとはいえ、いささか大袈裟にも思えるタルシスの警備体制だが、これには近年勢力を拡大しつつある反体制派の活動が背景にあるようだ。
「ニナ。また検問だ」
「分かってる。そこの路地へ。抜けられるはず」
軍と警察の検問所を通過するためには、その地域で生活・行動する資格が記された市民IDが必要だ。善良とされるタルシスシティの一般住民は、居住・就業・交通・旅行などの目的に基づいて恒久的なエリアパスを申請することが可能であるため、買い物に出かける度に役所へ出向いて検問所を通る手続きをする必要は無い。ただし、残念なことにレンやニナのような浮浪孤児には、管理・警備の厳重な都市部への通行許可が下りることはまず無い。便利で安全な都市部で暮らせるのは、中流階級以上の身元が明らかな市民だけだ。
ましてや、宇宙暦の人類社会において、ニナのような獣亜人は激しい差別の対象だ。世間の彼女たちに対する見解といえば、隠れて人の血肉を喰らうだとか、未知の病原菌を媒介するだとか、根拠の無い様々な偏見に満ちている。だから、こんなところで獣亜人であることが知れれば、何をされたものか分からない。
「ふぃー。遠回りばかりで嫌になるぜ」
「まぁいいじゃん。せっかく来たんだし、見物して行こうよ。お金が足りればだけど、あの子たちに何か買ってあげたいし。もちろん、今日は”サンタとして”ね」
「金なら心配ないぜ! なんてったって、十八万クレジットもあるんだからな!」
「本物のお肉、あったら買うよね……? 五人分だったら幾らで買えるかな……」
「あー? まー、八万クレジットもあれば、チキンかターキーが一羽買えるんじゃないか? 随分前に市場で見かけた時は、そんなもんだったぜ」
真面目に考えているような口ぶりではあるが、レンとくれば、まさに今つまみ食いしたいがためにダイナーや自動販売機のジャンクフードばかりを気にしていた。かたや、真剣に五人分のクリスマス・ディナーの内容と、サンタクロースからチビっ子三人へのプレゼントを考えていたニナは、レンの襟を引っ張ってはオーガニック・グローサリーストア、本屋や玩具屋──たまに女性向けの洋服屋とアクセサリー屋のショーウィンドウへ彼の視線と注意を誘導しようとするのだが、まともな意見は返って来ない。
「…………はぁ。もういいや」
やがて、あきれ果てた様子で機嫌を損ねたニナは、せかせかと一人で行ってしまう。ケバブ屋の前で腕組みをしながら深刻そうに悩んでいたレンは慌ててニナを追いかける。
「おい、ニナ! 置いていくなよー!」
「レン、さっきから全然話聞いてないし。私と一緒にいる意味ないでしょ。もう好きにしなよ」
「ねぇー、ニナってば。なんで怒ってんの??」
「怒ってない。放っておいて」
訳も分からぬまま──ただ明らかにニナがかなり怒っているという事実だけを知ったレンは、本当に慌てて彼女へ追いつき、精いっぱい出来るだけの謝罪をする。
「──機嫌直してくれよ……。俺が悪かったって」
「……だからガキなんだよ。レンは」
ついには、伏し目がちのニナがレンとは視線も合わせぬまま、目元に薄らと涙を浮かべ始めてしまう。
「何か問題でも?」
唐突に、機械的な音声とエグゾスーツの駆動音が二人の背後に現れる。息を飲んでそっと振り返ると、そこには自動小銃で武装した宇宙連合軍の顔無し兵士が佇んでいた。その隣では、MPDの防寒着を羽織った警官が、遠慮がちにフラッシュライトでこちらを照らしながら寒そうに身を縮めていた────