変調テンプレート・ラブストーリー
窓ガラスを打つ、ザアアアアという激しい吹き降りの音が聞こえてきた。
ようやくエアコンで涼しくなった部屋の中にいても、天気の急変はハッキリ判った。
「おお、ヤバいヤバい。」
入力途中の報告書はそのままにして、慌てて干したばかりの洗濯物を取り込む。
「今夜は降らないって、天気予報、出てたのになぁ。」
四階のベランダから見下ろす地面は、濡れて漆黒なはずのアスファルト舗装が、遠い街灯を反射して波打ちながら鈍く光り、早くも水浸しなのが分かる。
外気温も急激に下がっているようだ。
「スゲー雨じゃん。線状降水帯かよ。冗談じゃねぇ。」
シャツや下着をハンガーごとカーテンレールに吊るしていたら
ドンッ! ドンッ!
とドアが大きく二度叩かれた。
「はい、ハァイ! ちょっと待ってて!」
頭にきたが大声で応答だけしておく。
ドア越しだが声は届いているだろう。
――こんなに間が悪いタイミングで押しかけて来るんだから、どうせ大学時代からの腐れ縁の誰かに違いない。
――たぶん、小降りになるまで雨宿りをさせろとかいう、しょうもない理由で。
――しかもドアを叩くなっつうの! 近所迷惑だろうが。普通にチャイム鳴らせよ。
急ぎ室内干しを終え、ドアの鍵を開ける。
が、一応は用心のためにドアチェーンはロックしたままだ。
こっちは持ち帰りの残業だというのに、酔っぱらった馬鹿に干したばかりの下着を見られたり、散らかった部屋をアポ無しで更に荒らされても困る。
不機嫌さが伝わるように「何?」と低い声を出す。
しかし予想に反して外に立っていたのは、昭和レトロか大正浪漫かという古めかしいジャケットにハンチング帽のイケメンで、登山にでも向かうかのようなニッカボッカを穿いている。
「突然の吹雪で、道に迷ってしまいました。もし良ければ、納屋にでも一晩宿を貸していただけませんか。なに、朝まで寒さをしのぐ場所さえあれば良いのです。」
時代外れのイケメンは『夏場に』それも『公団住宅団地の』一室をアポ無し訪問したのにしては、どう考えても場違いで非常識なことを言い出す。
しかも男は、真っ青な顔で髪を振り乱した美女を背負っている。
いや、背負っているのではなく……女の方が背後からしがみついている……のだ。
同時にドアの隙間からは、Tシャツ一枚では身震いするほど厳しい冷気と雪片も吹き込んできた。
やばい。
これは変だ。
どう考えても普通じゃない。
「おぅわああ!」
悲鳴が思わず口から飛び出た。
感情は部屋の奥へと逃げるよう激しく命じてきたが、男――いや男女?――がチェーンカッターでも用意していて、踏み込まれたら逃げ場が無い。
いや、ベランダに逃げて隣室への仕切り板を蹴破れば皆無ではないが、サッシを開けたりマゴマゴしているうちに後ろから襟首をつかまれてしまうかも知れない。
なにより外は何故か吹雪だ。今の服装では一瞬で凍えてしまう。
すぐに逃げたいという本能を押し殺し、震える手で乱暴にドアを閉め、鍵をかける。
「泊める部屋はありません!」
『そんな不人情な! 助けると思って開けて下さい。』
ドア越しに男の叫びが響く。
『ここでも追い返されたら死んでしまう!』
再びドアが激しく叩かれる。
「警察、呼ぶぞ!」
男に負けない大声で怒鳴り返して、ふと気付いた。
そして声のトーンを落として
「お困りなら、交番に行けば良いんじゃないですか?」
と呼びかけてみる。
「四つ角のコンビニの斜め向かいにありますから。お巡りさんはパトロールに出てるかも知れないけど、中に入って待っていても文句は言われないでしょう。」
『警察?』
男の声は動揺していた。
『近くに駐在が在るのですか?』
駐在所とはまた古風な、と緊急時にはそぐわない感想が頭を過ったが、「ええ」と素早く肯定する。
「感じの良いお巡りさんだから、親切に相談にのってくれるはずですよ。」
お巡りさんには悪いが、この変な男女とは関わり合いたくない。
『糞ッ!』
絶望に満ちた絶叫とともに、蹴りつけられたドアが悲鳴を上げる。
『ああチクショウ! ……なんてザマだ。この先いったいどうすれば……』
ドア越しの嘆きは、よろめきながら次第に遠ざかって行くようだった。
這うようにしてドアから離れ、まだ震えの収まらない手でテレビのリモコンを握る。
番組はなんでもいい。
怒鳴り声やドアが叩かれる非日常から、とりあえず”日常の音”の世界に戻りたかっただけだからだ。
ちょうどニュースの時間だったらしくて
『今入った情報ですが××区の一部で、急速に発達した積乱雲により、突風とともに激しく雹が降った模様です。幸い雹は小粒で窓ガラスが割れるなどの被害の報告はまだ入っていませんが、10分ほどの間に地面は氷のツブに覆われ、普通タイヤの自動車はスリップを怖れて動けず、交通渋滞が起きています。』
とベテラン女性キャスターが、自然災害の発生を告げる際に用いられる型通りの心配そうな顔で、しかしカメラに向かって表情とはかけ離れた無表情な声で呼びかけていた。
――吹雪じゃなくて雹だったのか!
キャスターの無感動さが、逆に落ち着きを取り戻させてくれた。
カーテンを開けると、団地の直上からは積乱雲が移動したようで、風はだいぶ凪いでいた。
思い切って少しだけサッシを開ける。
通り雨の通過で気温は下がっているようだが、隙間からは夏の夜らしい温気が流れてくる。
と同時に、お隣さんのものらしい歓声が聞こえてきた。
「凄い、すっごーい!」
ベランダに出て、外の景色を眺めているようだ。
大声を出した弁解をしておかなくちゃ、と同じくベランダに出る。
足裏が冷たい物を踏んだが、降り注いだ氷のツブだろう。テレビでは雹と言っていたが、霰サイズのようだ。
「あの……申し訳ありません……。」
すると仕切り板越しに「あ! ごめんなさい。うるさかったですか?」と焦った声。
「外、真っ白なんですよ。ビックリしちゃって。まるで雪が積もってるみたいなんです。気まぐれな雪女でも出たような感じで。」
見下ろすとお隣さんの言葉通り、アスファルトは真っ白になっていた。
「いえ、謝らないといけないのは私の方で」と、なるだけ”しおらしい”声を作る。
「先ほどは、つい大声を出してしまって。」
「いえ~、気が付きませんでしたよ?」とお隣さん。
「風がすごかったし雷も鳴ったから、私も耳塞いで声上げてましたし。」
「そうですか。それなら良かった。ホッとしました。」
と胸を撫でおろすが――
視野の端から強烈な視線を感じた。
視線が送られてくる方に目を凝らすと、階下の道路の先、街灯の下に人影が立っている。
――こちらを見上げている。
あのジャケット男に間違いない、と直感した。
逆光だし距離もあるが、顔が見えなくてもハンチングにニッカボッカの特徴的なシルエットは間違えようがない。
目に力を込めて睨み返すと、人影はクルリと向きを変え、足早に歩き去って行った。
闇に紛れてゆく男の背中に、女の姿は無かった。
◇ ◇ ◇
「アッハッハッ。なるほど『猟犬』の役割を振られたのか!」
◇
「怖いことがあった」と連絡を受け、僕は約束通りに馴染みの喫茶店で彼女と落ち合った。
彼女とは学生時代からのトモダチ付き合いで、今でもたまに呼び出しを受ける。
彼女はいわゆるボーイッシュな美人で、彼女に想いを寄せる野郎共は後を絶たなかったが、結局は誰にも靡かなかった。
それだけに同性からは目の敵にされる事も多く、無責任な噂で『セクシー担当』とか『世に言う悪役令嬢』といった損な役回りを振られる傾向があり、少数の腐れ縁(と彼女が呼ぶ)親友以外には、同性の友人も少なかったように記憶している。
そんな彼女だが、なぜだか僕には一度だけキスを許してくれたことがあった。
抱きしめた手を腰の方に動かそうとしたら「それ以上は、だめ。」と静かに窘められてしまったから、それ以上でも以下でもないハナシなのだけど、異性に縁遠かった僕にとっては彼女に恩義を感じるには充分だった。
約束した時間の10分前キッカリに入店したにも関わらず、入り口からすでに彼女の短髪が見えた。
彼女はいつも通り最低限の化粧で、飾り気の無い綿シャツとスキニージーンズを身に着け、おそらくテーブルの上では淹れたての二人分のコーヒーが湯気を立てているのは間違いない。
一応「待たせた?」とテンプレになった挨拶を言い、向かい合わせの椅子に腰を下ろす。
心理学的には、対象となる相手の心臓がある左隣に座るのがよい、という説を――たしかバラエティ番組で――観た記憶があるが、いまさらだから学生時代通りの位置取りだ。
しかし彼女は「待ってないよ。」という”お約束”を排し、わずかに頷くと前置き抜きで『昨日、雹が降った時に遭ったこと』をメモを参照しながら滔々と語り始めた。
昨晩のうちに概略は電話で聞いていたが、その時の感情が昂っている彼女の話は判り辛く
「おおまかな時系列ごとに事象とその時の感覚とを整理して、メモを作って欲しい。ちょっと思い付いたことが有るから、今から参考になる本を探す。直ぐこっちから掛け直すよ。」と言うと
『ありがとう。明日はノー残業デイだから、お互い遅くなっても8時には落ち合えるでしょう。いつもの喫茶店でどう?』
と少し落ち着いた様子で返事が戻ってきた。
「了解。でも、もし身の危険を感じるんであれば、今からそっちへ向かうけど。今夜はビジネスホテルにでも泊まったら良い。ホテルまでは護衛付きでどう? 僕だけじゃ心許無いのなら、剣道有段者の先輩にも付き合ってくれるよう声をかける。……ああ、それとも叔父さんの家まで送ろうか? キミの実家だと他県で遠いけど、子供のときから可愛がってくれている親戚なら、確か隣の区に居るんだったよね?」
そう伝えると『だいじょうぶ。アリガト。』と電話の先で彼女は少し笑った。
『氷で道が通れないってニュースで言ってる。心配してくれるのはとても嬉しいけど、物理的に難しそう。』
それに、と彼女は申し訳なさそうに続けた。
『部屋が汚いんで、恥ずかしいし。』
◇
電話でおおよそ予想がついていた事ではあるが、彼女が対面で話してくれた詳細は『山の怪談』の中でも”非常によく知られた”テンプレートの一つを、まるで裏側から複雑な形でなぞったような事象だと思われた。
もちろん彼女が僕を担いでいる可能性が皆無ではないけれど、そうしなければならない積極的な理由が全く思い浮かばない。
ただ逢いたいという理由なら、久しぶりに飲もうよとか、ちょっと愚痴を聞いて欲しい、とでも言ってくれれば僕は喜んで飛んで行く。
だから彼女の身には本当に――怪異現象に属するものなのか空想科学の範疇に入れるべきものなのかは判断が付かないけれど――超自然現象と言い慣わされている現象が起こったのだ、として話を進めて問題は無さそうだった。
身を入れて報告に聞き入っている僕の表情を見て安心したのか、彼女が話を終えた時、僕が少し笑って「猟犬の役割を振られたのか!」と評したことに、彼女は「どうせ信じてくれていないんでしょう。」とか「ホントウなの。作り話みたいに聞こえるかも知れないけど。」みたいな余計な合いの手は挟まず
「猟犬?」
と首をかしげただけだった。
「うん。そこは幼子・猟犬もしくは飼犬・銃口ごしに覗いた猟師みたいに幾つかのバリエーションが有るのだけれど、吠えて追い返したのだから猟犬か飼犬の見立てが一番ピンと来るんだ。」
そう返事をして、カバンから一冊の本を取り出す。
『山怪実話大全 岳人奇談傑作選』というアンソロジーで、2017年に「山と渓谷社」から出版された一冊で編者は東雅夫氏。
読み比べて欲しい四話の掌編には付箋を貼っている。
岡本綺堂の『炭焼の話』
白銀冴太郎の『深夜の客』
杉村顕道『蓮華温泉の怪話』
岡部一彦『一ノ倉の姿無き登山者』
の四編だ。
彼女は次々と読み進め、次第に困惑した表情になった。
「場所や登場人物、幕切れに差はあるけれど……」
「そう。どれも小説の骨格が同じなんだよね。」と、口籠った彼女の言葉を引き取る。
「真冬か初冬の山奥の一軒家。そこに訪問者が訪れる。訪問者は一夜の宿を乞うが、家の幼子が酷く怖がるか飼犬が吠え掛かるかして訪問者は去る。その後、一軒家に巡査が訪れて訪問者が逃亡中の殺人犯だったことが分かる。おおざっぱに纏めてしまえば、そんな”あらすじ”になるだろうね。」
そして「子供に怯えたわけを質すと『怖い女の人が背中にしがみついていた』と答えが返ってくる、というわけだ。柳田国男も『遠野物語拾遺』か『山の生活』だったかに、同じ話を書いてるね。」と付け加える。
「とりわけ重要な部分は、殺人の動機が例外なく別れ話の縺れだということ。『身分差が理由の婚約解消もしくは婚約破棄』が引金になっている。金銭トラブルとか政治上の対立なんていう動機ではなくて。一時は良い仲になった男女だが、女を疎ましく思うようになった男が、女を殺して逃げるんだね。そしてもう一つの注目ポイントは、殺人を犯した男は結局は警察に逮捕される。一件だけ例外があるけれど、犯人の奇妙な自殺が幕引きだ。ロクな登山装備も持っていない犯人が冬山に逃げるというのに、凍死や沢への滑落といった可能性が高そうな事故死エンドは許されていない。同じく行方不明という結末も採用されない。」
「女の人が背中にしがみついていたのだけは昨日と同じなんだけど……でもウチは山の中の一軒家なんかじゃないよ? よく知ってるはずだけど、山地・山脈からは遠く離れた平野部のド真ん中。どこが参考になるのかが判らない。」
彼女の疑問はもっともだ。僕はデータを羅列しただけなのだから。
クレバーな彼女なら、データを見比べれば容易に結論を導き出すだろうと考えたのだが、現象に巻き込まれた当事者で――それも昨日の今日という動揺が収まり切れていない状態なのだから――少し詳しく考察のためのヒントを付け加える必要がいるのだろう。
◇ ◇ ◇
僕が初めてこのテンプレートに属する怪談を読んだのは、たぶん柳田国男の本だったと思うんだけど、その時は単に、罪を犯した者は報いを受けるという因果応報をテーマとした怨霊譚だとしか思わなかった。
雪深い山暮らしの中、退屈しのぎに囲炉裏端で語られる昔話のような、ね。
確かに『物語の進行中、目に見えていなくても常にその場に怨霊は居たのだ』という事実が、最後になって幼子の証言によって明かされる展開は秀逸だし、ショッキングでもある。
けれど怪談や幻想文学の巨匠や山岳文学のベテラン作家が、そのテンプレートを繰り返し取り上げたのには”だけじゃない”理由が有ったはずなんだ。
だって怪談好きなら”知っていて当然”なオチなんだからね。
だから”後から書かれた類話”には、当初のシンプルな勧善懲悪・因果応報に加えて、文豪やベテラン作家が付加したかったテーマが盛り込まれていると考えられる。
「自分なら、こう表現する・したい」という、作家魂を突き動かすだけの積極的な動機が。
僕はそれを初めは文体か構成だと思っていた。
ある作品は情感を豊かに、別の作品ではルポルタージュのように状況を詳細に、みたいなね?
だから色々な怪談集でこのテンプレに出会っても「う~ん、またこれか……」ぐらいに軽く読み飛ばしていたんだよ。
オカルト話好きなんて人種が怖い話に求めるものは、新しい切り口とか未経験なオチといった所なのだから。
けれどもこの『山怪実話大全』という本で、テンプレ作品が一纏めにされているのを一気に読んで、目から鱗が落ちたんだ。
この幽霊、怨霊にしては信じられないほど優しいんだ、ってね。
それまでの僕の読み深めが、圧倒的に足りなかったんだよ。
まあ、原型となる話に接した文豪たちが簡単に見抜いた『男女間の情』ってヤツに気付くには、僕には経験値が圧倒的に足りなかったし、怪談を渉猟しているばかりで別に”読み巧者”ってわけでもなかったんだから。
◇
「怨霊が優しい? ずうっと背中に張り付いている怨霊が?」
それが彼女の反応だった。
たぶん彼女も、僕と同じくらいに男女間の感情の機微に疎い。
だから僕は先ず「この幽霊、極力第三者に影響を及ぼさないというか、迷惑がかからないよう振舞っているだろう。」と解りやすい部分から説明に入る。
「ほら怨霊って、おしなべて目的のためには手段を選ばずってところが有るじゃないか。無関係な人間にまで害を及ぼしても仕方がないみたいなね? それに比べてこの幽霊は、居る気配すら隠しきって第三者が怯えないよう努力している。普通だったら悪寒がするとか、嫌な気配を感じるとか負のオーラを出しているものなんだけどね。」
彼女は「うーん」と唸ると
「でも子供や犬には、最初から見抜かれているよね。」
と反論してきた。
けれど「まあ『神の内』である幼子と人ならざる犬とは、世俗にまみれたオトナたちより感覚が優れているからだって言われたら、そうだねって応えるしかないけど。」と反論は保留する。
「じゃ、そういう事で納得してもらおう。」と僕は少し笑顔を作り
「被害者女性は幽霊と化したあと、シロウトさんに迷惑をかけないよう最大限の努力を怠らなかったが、力及ばず結果を残せなかったんだって事で。」
と付け加える。
「幼子や犬の邪魔さえ入らなければ、殺人犯すら危険な冬山を逃げ回る事無く、この暖かい一軒家で早くも御用になってたんだからさ。犯人の予測以上に、司直の手は近くまで迫っていたんだよ。」
「妙に持って回った論理の展開をするね。」というのが彼女の反応だった。
「まるで怨霊が、加害男性を気遣って危険な冬山に向かわせたくなかった、って言っているみたいじゃない? 『恨ミ晴ラサデオクベキカ』って憑り付いているというより、出来の悪い息子か弟を心配して見守っている母親か姉みたい。」
「正に”そこ”なんだよ。」と僕は彼女に頷いてみせる。
「仮に『復讐』や『ざまぁ』を強調したいのであれば、男は無残な墜死体で発見されるとか、恐怖に目を見開いたまま凍り付いていたという結末でよい。男の手に震える手て書いた『怨霊が、怨霊が追って来る』というようなメモでも握らせていたら、むしろホラーとしてならキレイな幕引きの仕方と言えるかも知れないね。ジェイムズの『マグヌス伯爵』みたいにさ。警察署の取調室で罪を悔い、泣きながら終わる、みたいな結末はホラーだったら減点対象じゃないかな?」
「”ホラーだったら”ってフレーズを、やけに繰り返すね。」
彼女はコーヒーを一口含むと、微苦笑した。
「怨霊の復讐譚じゃない、と言いたいんだね。これは自分を殺して逃げたバカな男を助けようとした、優しい幽霊の話なんだ、って。」
そして苦笑を本物の微笑に替えた。
「ホラーではなく、愛情、少なくとも情の物語なんだって。」
「単にホラーを書きたかったのなら、季節を初夏から初秋までの間に変更したはずだと思うんだよ。その季節なら、まだ山慣れない人物が深山に逃げて生き延びても不自然さが少ない。無灯火だったら足元が危ないけれどけれど、そこは空に満月でも上らせていたら、なんとか大丈夫だ。」
と僕もカップに口をつける。
「だって書いているのが、雪や寒さの厳しさ怖さを知り尽くしている作家さんばかりなんだからね。死亡フラグが林立している冬山行は選ばないよ。そこには怨霊よりも簡単に人の命を奪う、リアルな現実が待っているんだ。」
「じゃあ……どんな風にして、幽霊は犯人を寒さから守ったのかな? そこには何の言及も無いよね? 憎むべき、しかし一度は情を通じた男を。女は死んでしまっているのだから、身を寄せ合って体温で、というのは無理でしょう?」
彼女はそう言ってから、あっ! と小さく声を上げ
「幽霊がピッタリ背中に張り付いていたのは、そのため?」
と僕の目を覗き込んできた。
「少なくとも背中側からの風を、いくぶんかでも遮ろうと?」
「幽霊が、薄皮一枚分にでも相当する防壁たり得るかどうかは分からないけどね、それだけでは冬山の夜を越すのは難しいだろう。だから、その辺はテンプレートでも曖昧に省略されて『なんだかワカラナイ偶然か幸運が重なって』くらいにボカされているんだろうね。とにかく犯人は命に別状なく逮捕された、それで充分なのだと。人を殺して逃げている悪役にしては、やけに悪運が強い印象になっちゃうけどね。」
彼女にそう応えて
「だから僕は『怪談・ホラージャンル』では許されない、SF的な解釈を敢えて採ることにした。」
と宣言する。
「雪山だったら助からないが、夏山だったら生き延びられる。幽霊は愛した男を凍死させないために、一緒にタイム・リープしたんだ。強引に夏への扉をこじ開けたんだよ。」
◇
彼女は僕の暴論にしばらく絶句していたが
「昨日の雹は……」
とようやく言葉を絞り出した。
「違う時代・違う場所の冬山の物とでも?」
「霰や雹じゃなく、本当に雪だったんじゃないのかな? 冬の日本アルプスの物だか、東北や伊豆直送なのかは判らないけど。後にテンプレートと成るオリジナルの事象が起きた場所を僕は知らないから。降った直後に顕微鏡で見たら、氷ではなく雪の結晶が見えたかも、だね。もう融けちゃっているから、今更どうしようもないけど。」
彼女は「でも……私の家は……平地にあるんだよ? アルプスじゃなく。」と少しだけ不満そうだった。
「時間跳躍だけじゃなく、瞬間移動も起きたってこと? ご都合主義過ぎない?」
「幽霊がどんな超能力を使ったか、はたまた神仏の力を借りたのかは知らないけど、結果として”そういう事”が起きたとしか考えられないじゃないか。だってキミの家に来た男は、あからさまに時代遅れの恰好をしていたんだろう? それにキミのメモが正しければ、言動も令和の人間としてはおかし過ぎるし。幽霊はここ一番、火事場の馬鹿力で時間跳躍には成功したが、不慣れゆえに移動先の照準がブレてしまったのかも知れない。まあ無理も無い。初体験なんだからさ。ご都合主義と切って捨てるのは、それこそ幽霊初心者のポテンシャルへの過大評価だろう。」
そして、一時避難先が日本国内で済んで良かったね、と付け加える。
「だって時間跳躍抜きの瞬間移動だけで暖かい場所、例えば当時のオーストラリアとかパプアニューギニアに跳んでしまっていたとしたら、言葉が通じなくて男は更に混乱し、自暴自棄になって罪を重ねることになっていたかも知れない。」
「まあ、夏場の国内、それも平野部であれば『凍死を免れることは出来るから』という理由は、百歩譲って認めるとして」
と彼女は一旦ためいきを交えて言葉を切り、少し間をおいてから
「殺人犯が私の部屋のベランダを、じっと見上げていたのは何故? 交番が近くに在るのは教えたんだから、一刻も早くその場を離れたいと考えるものじゃないの? 手配犯ならば。」
と呟くように声を出した。
「私の部屋がどれなのか、覚えておくため?」
「無下に殺人を繰り返すようなサイコパスタイプや、最初の事件の発覚を恐れて連続殺人に手を染めるようなパーソナリティではないから、犯人の『時空を超えた復讐』は心配しなくても良いと思う。」と、僕は彼女を安心させる。
「彼が本当に見ていたのは多分、お隣さんだったんじゃないのかな? 昨晩キミが声を交わし合った、お隣さん。逆光で男の顔はよく見えなかったんだから、キミが”自分が見られている”と誤解したのも無理は無い。仕切り板を隔てて、すぐ近くにお隣さんは立っていたんだから。」
「まさか。」
彼女が口にしたのはそれだけだったが、彼女が僕の意図を汲み取ったのは明らかだった。
「そう。男はずっと背中に張り付いていた”かつての恋人”が、急にどこかへ去ってしまったことに気が付いた。吹雪は止んで気温も高いから、一時的にだけど危機的状況は回避されたんだ。」
けれど、僕は続ける。
「周囲は見知らぬ土地で、見たこともないようなビルディング――いや時代的にはビルヂングとでも言ったほうがふさわしい――が規則正しく林立している。地上に帰って来た浦島太郎よりも、淋しく心細かっただろうね。どうしたら良いのか見当もつかない。いざという時のための玉手箱も渡されてないんだからさ。」
「だから幽霊に救いを求めたってこと? 自分が殺した相手に?! いくらなんでも身勝手過ぎるよ。」
声が大きいよ、と声を潜めて彼女に注意する。
周りの席の客が驚いて、こちらを目を皿のようにして見ている。
僕はぺこぺこ周囲に頭を下げ、咄嗟の思い付きで「四谷怪談をテーマにした、古い映画の話です。」と弁解した。
すると隣席で一人紅茶を楽しんでいた初老の紳士が
「ああ『忠臣蔵外伝』か『魔性の夏』だね。うん、どちらも良い映画だ。」
と相槌を打ってくれて、なんとかその場は治まった。
僕は一度老紳士に最敬礼し、再び彼女に向き直る。
「おそらくキミの言う通りだ。犯人はどうしようもなくて、ずっと寄り添っていてくれた相手を探したに違いない。街灯の下にションボリと立ちすくんで、捨てられた子犬みたいにオドオド周囲を見回しながらね。そして、今や唯一の救いの手にように思える相手を、ビルヂングのベランダに見つける。目を離すことは出来なかっただろうね。しかしその後自分がした事を思い出し、一点の救いも無い絶望の中で、全てを諦め背を向けたんだ。」
「女の人はなぜ、彼の背中から外れたのかな。どうせ危険な逃げ場も無いし、ここは暖かいからもう大丈夫って、思ったのかな。」
彼女は囁くように言い、それとも、と口を噤んだ。
昨日の”お隣さん”との会話を反芻しているのだろう。
だから僕も「気遣いの人だからね、彼女は。」と、なるだけ静かに彼女の『それとも』を引き取る。
「”お隣さん”は、キミを酷く怖がらせてしまったことを申し訳なく感じたんだろう。だから一時的にでも彼の傍らを外れ、『何も無かったんだよ、天候の急変がもたらした単なる気の迷いだよ』とキミを言いくるめようと頑張ったんじゃないのかな? まあ成功したとは言い難いんだけれどね。」
「それじゃ彼女は、私が部屋へ引っ込んだあと、すぐに彼の元へと飛んで行ったのかな。雪山を彷徨っている時より、心細く絶望しているであろう彼のところへ。」
”お隣さん”の事を語る彼女の声は、優しく暖かかった。
だから僕も同じトーンで
「背中に再び彼女を見出したとき、彼は死んでもいいくらいホッとしただろう。その時ようやく悟ったんじゃないだろうか。ここまで自分の事を想ってくれる女性は、もう二度と現れないだろうって。」
と応じる。
けれど彼女との間に奇妙な空気が生まれてしまったことが気に掛り、殊更に明るい声で
「さて、見てきたような講釈はここまでだ。」
とシメに入る。
「以上がキミの証言を基にして僕が組み立てた推論さ。でも推論だけど既に結果は出ているんだ。だって彼は100年以上も前に、逮捕されてしまったんだからね。彼女と再会を果たした時、彼は再び一緒に元の時空へとタイムリープするのを拒まなかったんだろう。いや、彼の方がより積極的に、刑に服して罪を償うのを選んだのかもしれない。」
僕は一発ヘタクソなウインクを決め
「だからキミが怖がらなければいけない理由は、もう何一つ残ってはいない。僕の保証で良ければ、覚書を書いて署名捺印してもいい。」
とお道化でみせた。
◇
一件落着、と済ませようとしていた処に、思わぬ横槍が入った。
老紳士が、音を立てないよう拍手しつつ「ブラボー。」と小さな声で話しかけてきたのだ。
僕と彼女とが会釈をすると、老紳士は
「いや、盗み聞きをするつもりは無かったのですが、あまりに興味深い話題だったもので、つい聞き入ってしまいましてね。」
と会釈を返してきた。
「冬山の一軒家怪談に関する、新解釈ですな。いや面白かった。」
老紳士は彼女に「お嬢さん」と笑顔で呼びかけると
「彼氏の突飛な謎解きが正しかったのかどうか、ひとつ確かめてみる手段が有りますよ? なに難しい事ではありません。」
と人差し指を立てる。
彼女は、社交辞令なのか興味をそそられたのかは分からないけれど
「面白そうですね。どういった方法でしょう?」
と続きを促した。
老紳士は一つ頷くと
「手土産でも持って、お隣を訪問してみれば良いのです。この前は失礼しました、とでも口実を付けて。」
とサラリとアイデアを開示した。
「彼氏の推理が正しければ、貴女が会った”お隣さん”とは違う人が出て来なければならない。逆に貴女が会った”お隣さん”が出て来たのだとしたら、彼氏の推理が間違っていたということです。」
老紳士はそう告げると、彼女に向かって――僕がしたのよりはるかにソフィスティケートされた――ウインクを贈り、手品師のように鮮やかな早業でテーブルの伝票を手中に収めた。
「いや、思いもかけない退屈しのぎが出来ました。ここはお礼に奢らせて下さい。それでは御機嫌良う。」
■ ■ ■ ■ ■
――読者さま宛ての挑戦状――
ここまでブラウザバックなさらずに、退屈な拙作にお付き合い頂いた心優しき読者様へ。
実は小生、当初ここで『了』とするべきか、と考えておりました。
ちょうどストックトンの『女か虎か』の真似事みたいな、投げっぱなしジャーマンスタイルの幕引きですね。
しかしリドルストーリーというのはモヤモヤが残って、得てして読後感が気持ち悪いものです。
しかも自分で書いてみたら、すでに世にある傑作群と比較して我がポンコツさが際立ち、小生と致しましても――まあ不出来であるのは当然として――なんとも寝覚めが悪い。
ですから、尚更つまらなくなるかも知れませんが蛇足として、敢えてささやかな決着を付けるのをお許し下さい。
彼女が隣室を訪問した時、出て来たのは『”お隣さん”か別人か』。
推理していただくのも一興かと思い至り、恐る恐る手袋を投げさせていただきます。
それともう一つ、フェアプレイであるのを御了解いただくために、この物語が一種の叙述トリックに類する作品であることを、ここに注意喚起しておきたく申し添えておきます。
■ ■ ■ ■ ■
「読者への挑戦状を書き加えたのはキミかい?」
と、僕の部屋の卓袱台で”自分の”ノートパソコンを使っている彼女に訊ねた。
まあ、僕のアパートに出入りできるのは僕と彼女の二人きりなのだから、疑う余地は無い。
彼女はニッコリ笑うと
「机の上にある点けっぱなしのキミのデスクトップ見たら、『変調テンプレート・ラブストーリー』って面白そうな文書ファイル見つけちゃったんで、つい読んじゃった。いくつか気になる点は有ったけど、挑戦状以外には手を加えて無いよ?」
と白状した。
「特に気になったのは、フェアプレイを徹底するというならば、『隣の区に住んでいる親戚』を『叔父』と表記するのはどうかな? ってトコかな。親戚が父より年上か年下を話したことは無いから、年上の『伯父』の可能性も有り得るんじゃない? 片仮名で『オジ』としておくのが、一番正確だよね。」
◇
彼女が僕の部屋に転がり込んで来たのは、喫茶店で『雹が降った夜の彼女の体験』について考察を交わし、隣席の老紳士から『彼女が遭遇した”お隣さん”が幽霊だったかどうかを確かめる方法』についてサジェスチョンを貰った翌日のこと。
その夜、彼女は着替え少々と僅かな身の回り品、それに愛用のノートパソコンだけを抱えて僕の部屋の前に立っていた。
事前に連絡は貰ってなかったからビックリしたのだけれど
「イチゴを買ってお隣さんを訪ねたら、お婆さんが出て来たの。一人暮らしなんだって。」
と青い顔で言うものだから、慌てて部屋に迎え入れた。
「幽霊も殺人犯も既に時空の先にリープして、もう戻って来ることは無い、って教えてくれていたけど、やっぱり色々怖くなって。」
と、彼女はカーペットの上に横座りになって、ウイスキーを垂らしたアイスココアを啜った。
「気持ちが落ち着くまで、構って欲しい。他の人には信じてもらえそうもない事だから。」
僕は即座に「いつまででも、気が済むまで居てくれて構わない。」と断言し、決意の証拠として合鍵を渡した。
「シーツは予備が有るからベッドはキミが使って。僕には寝袋があるから。それと……会社は、ここからでも大丈夫? それくらいかな? 問題があるとしたら。」
◇
彼女が白状してくれた『挑戦状』についてコメントに、引っ掛かる所が一つある。
文書ファイルは、僕にとっては”あの不思議な夜”についての伝聞情報に関する遣り取りを残しておくために書いただけのもので、題名は赤の他人の興味を引かないよう注意して付けた恋愛小説風の記号に過ぎない。
現在僕たちは、傍目だと表面上は『同棲』状態のように見えるだろうから、彼女がファイルに興味を引かれたことに不思議な無いのだけれど、始めの10行くらいを読めば”もう充分”と投げだすのに違いない怪現象の記憶なのだ。
けれども彼女は退屈な記録を最後までを読み通し、「オジ」の表記に拘った。
拘りには、何らかの意思と意図がなければならない。
それは、思うに――
◇
『挑戦状に対する読者様への回答編』
まずは、こう切り出さなければならない。
彼女が挑戦状に記した”読者”は僕を意味するが、僕がこれから書く文章を読むのは”彼女”になる。
彼女が挑戦状の中で、『退屈な拙作』『ポンコツ』という言葉を使って不満を表明していることから、今の状況は”読者”の期待する結末には至っていない、という事だ。
さて彼女は何が不満なのか?
ヒントは『オジは叔父で有り得るが、伯父である可能性を捨ててはいけない』という彼女の示唆にある。
考えられるのは、時の氏神よろしく二人の討論に介入してきた老紳士の存在以外に思い浮かばない。
隣席で紅茶を飲んでいた老紳士は”彼女の仕込み”であり、彼女の”特に親しい伯父”である、と結論付けて間違いない。
すると『雹が降った夜の出来事』が180度違った構図で視えてくる。
僕はそれを考察するにあたり『超自然現象と言い慣わされている現象が起こったのだ、として話を進めて問題は無さそう』とロジックを構築したが、そもそもその立脚点が間違っていた、というわけだ。
彼女は幽霊を見てもいなければ、タイムスリップした殺人犯に遭遇したわけでもなかった。
ただ、僕と『急に雹が降って怖かったんだよぉ!』と、会話をしたかっただけだと考えられる。
けれども単に天候の急変だけでは、僕に電話をかける踏ん切りが付かなかった。
「雷雲なら気象レーダーのデータを見ても、15分内外で直ぐに抜けるよ。」と云った日常会話で、僕が会話を終えてしまうかも知れないからだ。
彼女は、僕が彼女から誘いを受けたら『喜んで飛んで行く』人間だとは考えていなかったというのが分かる。
だから季節外れの雪景色を奇貨として、とっさの思い付きで『嵐の夜に不審者が訪ねてくる』という怪談に、『訪問者の背中に女幽霊がしがみついている』という”よく知られたテンプレート”をフュージョンさせたのだろう。
僕の応対も不味かった。
ビジネスホテルか親戚の家まで護送しよう、と提案した点である。しかも先輩まで動員して。
そこは「シッカリ鍵を掛けて少し待ってて。すぐに行く。」で良かったのだ。
それだけで僕は彼女の部屋に迎え入れられたに違いない。
彼女には、終始ジェントルに振舞わなければならない、という思い込みと自己規制とが仇になったという馬鹿なハナシである。
僕の唐変木さには、温厚な彼女も流石に切れた。
電話を続けていても、鈍感な僕からは望む結果が得られないと判断したわけだ。
そこで善後策を練るために会話を終了させた。
次の機会を待っても良さそうな気もするが、騎虎之勢なのか、それともプランBは既に頭に在ったのか、『隣の区に住んでいる伯父』に連絡を入れる。
彼女はクレバーだし、その彼女が傾倒しているくらいなのだから、伯父さんも相当にソフィスティケートされた人物であるのは間違いない。
伯父さんはたぶん「面白そうな趣向だね。明日の対決には私も立ち会おう。」と彼女に告げた。
腹の中では『可愛い姪っ子の対決相手、一つこの目で確かめてやろう。どうしようもない愚物なら、完膚なきまでに叩き潰してやる』くらいの心づもりは含んでいるとしてもだ。
けれども彼女と伯父さんとに相対する対決相手は、姪を心底信じているのか怪談実話集など持ち出し
「来ていたのはタイムリープした殺人犯と幽霊。しかし両者とも再び心を通じ合って、既に時空の先に去った。もう何の問題も無い。」
などと、想像の遥か斜め上を行くトンチンカンな結論を披露する。
彼女は呆れたかもしれないが、伯父さんにはその度外れたオッチョコチョイさが逆にウケた。
お眼鏡に適った、と言って良いのかも知れない。
それで伯父さんは一つの案を提示する。
彼女が手土産を持って隣家を訪問する、というアイデアだ。
別に本当に訪問する必要など無い。
対決を終えて、姪っ子――彼女のことだ――が、まだ僕に対して”なにがしか”の好意を維持しているか、を再考させるための一手分の余裕を稼いだ、という妙手である。
すると『隣室には”お隣さん”がちゃんと住んでいた』という選択肢は消える。
それだと全てが”スタートに戻る”になり、収拾が付かなくなってしまうから。
彼女は正体不明の不審者に怯え、引っ越すか親戚の家に身を寄せるかしなければ、話の辻褄が合わなくなってしまう。
警察にも通報しなければならないだろう。彼女がしなくても、姪の言い分をまるで疑わないスットコドッコイの彼氏(僕のことだ)が勝手に警備強化を願い出てしまうかも知れないのだから。
さて『”お隣さん”は幽霊に非ず』という選択肢が消えたところで、ここから先が彼女が下す本当の選択になる。
ひとつは「住んでいたのは別人だった。”お隣さん”は幽霊で間違いなかった。ありがとう。キミの言う通りだったね。もう何の心配も無いんだね。安心したよ。」と、鈍感者の僕を切り捨ててしまう選択。
今後も相変わらず、ただのトモダチとして遇するという結論だ。
僕が”やらかした”数々のヘマを思えば、そう愛想尽かしされても仕方が無かったと、今にして思う。
けれど、君は僕を見放しはしなかった。もう一方の選択肢を選んでくれたんだ。
君が選んでくれたのは、君の方から僕の部屋にやって来る、という決意表明だった。
ああ! 僕はあの愚かな殺人犯と同じくらい、君の情というものが分かっていなかったんだね。
トウヘンボクの僕にも、今が決断の時だ、という事は既に否応なく解っている。
これまでの想いを全て打ち明け、求愛しなければ後が無い。
君に見放されてしまったら、僕には何も残っていないのだから。
君と出逢ったときから、僕はずっと君のことが好きだった。
これからは君の手を離さず、君と一緒に歩いて行きたい。
叶うことなら時空を超えた先の先、いつまでも、どこまでも。
さて、僕からの求愛に対する君の答えは――
女か虎か?
了