青木善右衛門の切腹
温厚君子然とした青木善右衛門は田地の測量に従事した泥だらけの足を自邸の玄関で払った。出迎えたのは、妻と十四の嫡男であった。
「お帰りなさいませ」
と型どおりに出迎えた後、善右衛門の妻は善右衛門の顔をしげしげと眺めながら
「検地が始まってから随分とお疲れのご様子でしたが、今日はなんだかすっきりしたお顔に見えます」
と言った。
「左様か……」
善右衛門は素っ気ない返事をしたが、やはり妻が指摘したようにその表情はすっきりと晴れやかであり、どこかにこやかでさえあった。
時代は泰平の世を謳歌していた。農耕技術の進展や新田開発に伴って、石高の上昇はめざましいものがあった。検地はその変化を把握する目的でおこなわれる国家事業であった。前回までの検地では下田或いは下下田として登録され、収穫高が低いと見做されていた土地が、検知の結果上田に登録しなおされることもあったし、隠田が摘発されることもあった。収穫高が高く算定されたり副収入が露見すれば増税につながる。そして増税こそが検地の目的には違いなかったのだが、それだけに百姓の検地に対する抵抗感は強いものがあり、これをきっかけとして百姓一揆が発生することもあって、検地を実施する為政者の側にも慎重な取扱いが求められるナーバスな事業であった。
生来の気質として真面目一辺倒、几帳面を絵に描いたらこのような男に仕上がるのだと余人をして思わせる青木善右衛門はその性質を見込まれたゆえか、検地奉行佐藤十左衛門の預かりとされて検地に従事することとなった。いうまでもなく検地は恒常的にではなく必要に応じて随時おこなわれる事業であったから、奉行は検地を実施するごとに指定された。佐藤十左衛門は今回の検地で奉行に任じられ、青木善右衛門もまた佐藤十左衛門と同じく今回の検地で急遽その与力に付されたのである。普段は勘定方に属していた青木善右衛門は、勘定方の名誉に賭けて遺漏なく検地事業に精励するつもりであった。
ここに細見竹という検地用具がある。先端に藁の束を付けており、一見してこれが細見竹だと分かるように工夫されてある。検知対象の田畑の四隅に立てて測量の際の目印にする用具である。細見竹との中間地点には、先端に藁束ではなく剪紙を付けた梵天竹と呼ばれる検地用具を立てる。細見竹も梵天竹も検地に従事する者が把持しており、その間に水縄を渡して田地の面積を測量するのであるが、青木善右衛門はやれ細見竹が傾いているだの水縄が撓んでいるだのと細かく指摘しては逐一これを正し、そのために検地は遅々として進まなかった。最初は善右衛門のいうことに嫌な顔ひとつしなかった同心衆も、次第にいい加減うんざりという表情をあからさまに示すようになった。また先述したとおり、その田地を耕す百姓にとって検地は迷惑きわまりない事業であったから、懸命に検地に従事する善右衛門の横で、百姓達はしかめた顔を隠すことがなかった。善右衛門が微に入り細に入り測量するので余計である。
同心衆のうんざりした表情にも顔をしかめる百姓の表情にも、善右衛門は気付かぬふりをした。気付かぬふりをしたが、自分が誰からも歓迎されていないことなど善右衛門をして百も承知だったことだろう。人から嫌われる役は、生来温厚だった善右衛門の如き性質には殊更辛い業務だったかもしれない。だが勘定方を代表して検地に従事していた青木善右衛門が田地の測量に際していい加減な取扱いをすることは断じて許されることではなかった。少なくとも善右衛門自身は固くそのように信じていた。
善右衛門は朝早くから日没を迎えて検地結果を記す野帳が見えなくなる時間まで検地に従事した。このような勤務が連日続いた。善右衛門の妻が指摘したように、検地が始まって以来善右衛門はみるみるうちにやつれて、次第に疲弊を隠せなくなっていった。
青木善右衛門が自邸において切腹したのは、妻が善右衛門の表情を、なんだかすっきりして見えると指摘した日の真夜中のことであった。