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5.(後) みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに

「あ、そうそう。ここに来たならアレ見ていかないと!」


 こっちこっちと手を引かれて連れてこられたのは、周辺をさっき掃除したばかりだった、入口付近に鎮座している苔生した巨石の前だった。


 古川さんが俺の手を引いていたのは無意識にだったようで、手をつないでいたことに気づくと、慌てて振り払うようにして手を解いてしまった。

 彼女なりに気を使ってくれたんだろうけど、なんというか、振り払われるのは俺も傷つくからもう少し、こう、なんというか……。




「なにこれ?」


「ここに来る前に話した、万葉集のアレ。もう千年以上前の話。都から偉い人が視察に来て、この辺に住む虎さんって女の人と恋仲になって帰りたくなかったんだけど、仕方なく帰ることになって。手紙出すねって約束したんだけど、いつまで待っても手紙は来なくて」


 ああ、例の和歌のいわゆる聖地ってことか。それよりも離れ離れになってしまった二人の境遇に、俺は想いを馳せる。


「いまも昔も、やってることはあんまり変わらないんだな……」


「ん?」


「ほら俺、転校常連だから」


 手紙出すからとか電話するからとかメール送るからとか、そういう別れは何度も経験した。


 でも実際のところ、人間はそこまで勤勉じゃないし、その人がいない生活というものにも慣れていってしまう。それにお互いがまったく知らない新しい環境をイチから説明して、話題を共有して盛り上がる、というのはそもそも難しい。


 自分の意思で距離を埋める手段(金銭とか交通手段とか通信手段とか)を持つ大人なら話は変わってくるのかもしれないけど、子供にはどうしようもない。


 それに万葉集の時代だったなら、いくら大人だって言っても、実際にできることは現代の俺たちと似たり寄ったりのレベルだったに違いない。


「ああ、そういう……」


 俺を気遣ってくれるように、古川さんは曖昧な相槌を打つ。


「で、その二人はどうなったんだよ?」


「結局、もう二度と会えずじまい。会えない間、虎さんはそこの観音様に百日参りの願掛けしたんだけど、結局ダメで。悲しみのどん底でそこの石を眺めていたら、その男の人の姿が映ったんだって。そこまでがこの石の伝承」


「そっか」


「でも、物語には続きがあって。虎さんが絶望で病に臥せってしまっている間に、ついに手紙──歌が一句だけだけど──が届いたんだって。それが河原左大臣作と伝えられる、『みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに みだれ染めにし我ならなくに』。一年の時に古文でやったはずだけど、授業聞いてなかったでしょ?」


 ジト目で俺の方を睨んでいた古川さんだったけど、なぜか表情がだんだんと辛そうに変わっていく。しまいには、じっと地面を見るように俯いてしまった。


 あれ? 俺なんかやらかしたっけ? と焦りまくっていると、古川さんはどう見ても無理やりいま作りました! というような笑顔を浮かべて、顔を上げた。


「ごめん、急用思い出しちゃった! 今日は私、帰るね」


 そう言って立ち上がった彼女は、そのまま出口の方に駆け出した。


「あ、おい! ちょっと!」


「ごめん、掃除道具さっきの場所に戻しておいて! また明日、学校でね!」


 引き止める俺を振り払うように、背中越しに手を振りながら、そのまま古川さんは走り去っていった。


「なんなんだよ、いったい」


 訳わかんねえとブツブツ呟きながら掃除道具を片付け、寺の職員の方に一声挨拶を入れる。そして文知摺観音手前の駐車場まで戻ってきたところで、極めて憂慮すべき事態に陥っていることを俺は認識した。


 ここまで古川さんの自転車二人乗りでやってきて、彼女がさっさと家に帰っちまったってことは……。


 やべ、どうやって家に帰ろう。本格的に夕焼けが始まった美しい空の下で、途方にくれる俺だった。




 ──ところが、救いの手はすぐにやってきた。


 というか俺が本格的にゲンナリする間もなく、「ごめーん、忘れてた!」と叫びながら、古川さんがあっさり駆け戻ってきた。


 忘れないでいてくれたのはありがたいけど、こいつ一体なにやってんだよってか、なにがしたいんだよ。こんなにアップダウン激しい人だったっけ?


 なんか今日の古川さんは、やっぱりどこかおかしい。


「また自転車二人乗りして、岩崎くんの家に戻ろう」


 バカじゃねえの? その前に古川さん、まだ中学の学校指定ジャージのままじゃん。


「そのあと古川さんだけ暗い中また戻ってこなくちゃならないし、却下。バスにでも乗って帰るから、大丈夫だよ」


「この辺、そんな都合よくバスなんて来ないよ?」


 お互い意地になってそんなこんなと言い争っているうちに、妙に野太い排気音が、遠くから俺たちの耳に響いて来た。


 険悪な雰囲気を示すように眉間にしわを寄せていた古川さんの表情が、この音を聞きつけた瞬間、パッと明るく変わる。


「あ、お姉ちゃん帰ってきた! 送ってもらえないか聞いてくる!」


 え。古川さんのお姉さん、あんな音立てて走る車に乗ってるのかよ……。


 前に住んでたところでは絶滅危惧種だったある種の人たちのイメージが、不安とともに俺の脳裏をよぎる。




 手を振った古川さんに答えるように方向を変え、一般車とは思えないような排気音を轟かせながら駐車スペースに停止したのは、表面上は普通に見えなくもない、白い軽自動車だった。


 運転していたのはこちらも至って普通に見える女の人で、確かに姉と聞かされただけあって、顔立ちにどことなく古川さんを思わせる面影がある。


 でも、アンダーリムの眼鏡に眉毛まではっきり見えるくらい前髪をカットした髪型という組み合わせのせいか、すっきりした美人という印象を受けた。古川さんもあと何年か経ったら、こんな感じになるんだろうか。


 ところでそんなことより気になるのが、リアハッチの目立つ場所に貼られた、赤紺水色のストライプに赤丸の酒造会社のロゴを被せた、間違いなくどこかで見たような記憶のあるデザインのステッカーだ。


 それと、白い車体なのになぜかそこだけ黒く塗りつぶされているルーフスポイラーとリアバンパーが、俺の記憶の中の、とある車を強く想起させるんだが……。


 ひょっとしてこの人って、もしかして、そっち系の趣味をお持ちなんだろうか?


「これ、うちのお姉ちゃん」


 お姉ちゃんと紹介された女の人は、美人という印象とは裏腹に「ニシシ」という笑い声が似合いそうな、意味深で下品な笑顔を浮かべながら声をかけてきた。


「あなたが岩崎くん? よろしく、噂は智佳からいろいろと」


「余計なこと言わなくていいから!」


 猛烈に嫌な予感がしたけれども、余計なことを言わず、ここはスルーする一手だ。古川さんの表情、かなりヤバいことになってるし。


「はいはい。じゃあ乗って乗って。狭いけど我慢してねー」


 ぐいぐいと運転席後方のスペースに押し込まれ、隣に古川さんが乗り込む。小柄な古川さんでも気持ち窮屈そうなんだから、高校生男子の平均身長より若干大きめな俺の状態は、推して知るべし。


 ところが運転席の主は、そんな状況をまったく気にしていないような調子で、シート越しに俺に尋ねる。


「ところで岩崎くん」


「はい」


「さっきこの車のリアをジロジロ見てたけど、何か気になることでもあった?」


 やべ! いろいろガン見してたのバレてら!


「いえ、別に」


 涼しい顔で、俺は言い逃れを試みる。


「なんか格好良いステッカー貼ってあったのと、ルーフスポイラーとバンパーだけ黒く塗装してるのって不思議だな、とか……」


 顔は見えないのに、ニヤリと笑ったような気配をシート越しに感じる。捕食者と目が合ってしまった草食獣の気持ちって、こんな感じなんだろうか。


「ふーん。ちなみに、岩崎くんはS4ってどう思う?」


 やっぱりそっち系の人だった!


 たぶん「なんですか、それ?」って、すっとぼけるのが正解だったんだと思う。


 でも最近、赤紺水色のストライプを車体全体に纏った#7の白い車体が、ヨーロッパの雪道を縦横無尽に駆け巡る……という映像をネットで見たばかりだったせいか、俺はつい「結構好きです」と口に出してしまった。


 マズいと思ったけれども、後の祭り。


 いや、好きなんだよあのクルマ。


 写真とかで停まってる姿だけ見て不恰好だってケチつける人もいるけど、走り出すと問答無用で格好良いじゃん。あの無骨さ、男子のツボをガッチリつかんで離さないだろ?


 まあとりあえずは、「だよね、最高だよね! キミとは話が合いそう!」と良い反応が返ってきたから、結果オーライとはいえ、初見で好印象を与えることには成功したらしい。


 もう勝手にやってればって感じで、古川さんは首を左右に振っていたけど。




 排気音がちょっとアレで、乗り心地が若干硬めなことを除けば普通の軽自動車は、二人乗りの自転車が辿ったルートを逆方向に疾走する。


「え、大学四年生なんですか」


 古川さんのお姉さんの年齢を聞いて、俺は驚いた。雰囲気的に、てっきりもう社会人なんだとばかり思っていた。


「そう、来年の四月からは小学校の先生」


「うまくいけば、でしょ? 教員採用試験の出願書類用意するの面倒くさいって、このまえ言ってたばかりじゃない」


 その言いかたは容赦なさすぎだろ。俺だったら泣くぞ、きっと。


「それにもし受かったところで、この車で通勤は無理だってば」


「大丈夫だって。マフラーだけでも元に戻しておけば、普通の人にはわからないし」


 やっぱりこのクルマ、あちこち手を入れてんのか……と俺は苦笑いを浮かべる。確かに一部児童からは熱狂的な支持を得られるんだろうけど、同僚や保護者からはクレーム出まくるのは、火を見るより明らかだろうしなあ。


 姉妹のそんな身の上話を十分ちょっと聞かされている間に、車は俺の自宅マンション前に到着した。二人乗り自転車と比較しても仕方がないけど、さすがに車は速い。


「どうもありがとうございました。助かりました」


「いいええ。智佳、結構抜けてるところ多いから、気が付いたらフォローしてくれると嬉しいというのが、姉としてのお願い。あと、今度ぜひ昔のラリーカーの話を個人的に」


「そういうのはいいから」


 またしても姉の発言をピシャリと遮る妹。こんな場面だけ見てると、この姉妹の力関係は古川さんの方が強いように見えなくもない。でもきっと、こんな風に古川さんが甘えられる、しっかりしたお姉さんなんだろうな。妹がいるだけの俺には、少し羨ましい。


「じゃあ岩崎くん、今日はありがと。また明日ね」


「ああ、じゃあな」


 そしてやっぱり一般車とは思えないような排気音を発しながら、古川さん姉妹を乗せた軽自動車は軽やかに走り去っていった。


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