3. 私の髪型の理由
高二の新学期を迎えるその日の朝、私は焦っていた。
余裕を持って目を覚まして、しっかり身支度を整えてから家を出るはずだったのに。
目覚まし代わりに使っているスマホのアラームを無意識のうちに完全に止めてしまったらしく、お姉ちゃんに「智~佳~、今日は早く起きるって言ってなかったっけ?」と声をかけてもらわなければ、間違いなく遅刻するところだった。
朝ごはんを急いでかきこんでから丁寧に歯磨きをして、洗面台に向かう。薄くメイクしてくる同級生もいるけど、私はまだすっぴん派だ。
鏡の前で上半身を左右にひねって変な寝癖がついていないかどうか確認してから、不揃いの前髪に触れる。「変」だとか「インパクトがある」とか「名前と顔は忘れても髪型見れば思い出す」とか、中学の時から散々な言われようのこの髪型。
それでも、私はあの日以来の付き合いのこのスタイルが、それなりに気に入っている。
──あれは、中三の生徒会活動が始まる日、その朝のできごと。
昨日カットしてもらったばかりだというのに、前髪がイマイチ気に入らなかった私は、よせばいいのに登校直前に少しだけ自分でカットしようとしていて……。洗面台の鏡を見ながら、慎重にハサミを入れる瞬間。「智佳~?」ってお母さんに呼ばれたときに、素直にハサミから手を離さなかったのがまずかった。
「ジャキ」ってハサミを閉じる音がしたのと「しまった」と思ったのがほぼ同時。
おそるおそる鏡を覗き込んでみると、一部だけが切り揃えられた前髪パッツンという、恐ろしい姿になった私がいた。
でもあとから冷静に振り返ると、そこで諦めておけば、まだマシだったのだ。ムキになった私はさらにズブズブと深入りしてしまい、不揃いどころか、段差がついた凸凹の前髪という、中三の女子には耐えられない髪型になってしまった。
結局その日は髪全体を無理やり左右に分けて、おでこを丸出しにするスタイルで授業時間をやり過ごした。そこまではまだ良かったんだけど、放課後の生徒会の会合で熱の入った議論をしているうちに、前髪がだんだんと落ちてきて……。
生徒会のみんなの視線がおでこの辺りに集まっていることが気になって、私はようやく今朝の惨劇を思い出した。必死に笑いをこらえる人、気の毒そうな顔をして励ましてくれる人がほとんどだったんだけど、その日はじめて声を交わした会計担当の岩崎くんだけは、少し違った反応をしてくれた。
「失敗は失敗なんだろうけど、古川さんの元気なキャラには似合ってるような気がする」
お世辞や社交辞令の類だってことはもちろんわかってたけど、どん底まで落ち込んでいた私の気分が救われたというか、私の性格とあわせて褒めてくれたのがとても嬉しかった。彼への好感度が爆上げしたのは言うまでもない。
それ以来、私の前髪は不揃いの凸凹パッツンだ。
もちろん「それなりに見える」ように、美容師さんが工夫してくれてるけど。
「寝坊したなら、普通に遅刻すればいいのに」っていうのが、いまどきの女子高生。
わかってはいるのだけれど、そういう考えかたにどうしてもなじめない私は、必死に自転車のペダルを踏む。まったく、生真面目なのか昔気質なのか。
「だからいつも損してるのかな」
そんなネガティブな思いを頭の片隅に押し込めて、これから挑むのは通学路の最難関。女子高生のプライドと羞恥心を投げ捨てて、鬼神のような形相で阿武隈川にかかる文知摺橋の坂道を何とか登りきり、ようやく下りに入って重力の恩恵に身を任せ……。
橋を過ぎたところにある公園スペースに差し掛かったところで、私はいつも待ち合わせている友人の姿を探す。
「いつもより十分近く遅い。連絡なかったからただの寝坊だろうし、もう先に行こうかと思ってたところ」
「ごめん、目覚まし、止めちゃってて」
新学期早々なにやってんの? という顔の親友、五十嵐由希の冷たい視線に、息を切らしながらどうにか答える。いつもは自転車を止めてベンチで文庫本を読んでいるのに、今日はもうサドルに跨っている。「先に行こうかと」というのは、どうやら本当だったらしい。
それにしても、朝っぱらから必死に自転車を漕いだせいで髪はボサボサ、汗だくという姿になっている私に対して、マイペースの由希は本当に優雅だ。
中学の時は肩につくかつかないかくらいだった綺麗な黒髪は、もう肩甲骨を少し超えるくらいまで伸びている。そして全体的に細身ながらも、メリハリのある体型。
うちの高校の制服は色気も可愛さもないという評判だけど、由希の姿はなぜかこの制服の良さを引き立てているようで……。出会ったころはカワイイ系だったのに、いまやすっかり美人系にクラスチェンジを果たしていて、実のところちょっと羨ましい。
二人とも吹奏楽部で、帰る方向も一緒で、そしてなによりもお互いの考えかたが似ていたせいもあって、中学校で初めて出会った私たちはすぐに仲良くなった。
中学生のうちに同じクラスになることはなかったけれど、そのあとも生徒会活動で一緒になったり(由希が副会長、私は書記)、中学のときはいつも一緒にいたような気がする。二人とも同じ高校に進学することになっても関係は変わらず、由希は私の親友だ。
「少しは褒めてよ。家を出たときは十五分は遅れてたんだよ?」
「言い訳はいいから、早く出発しましょ」
私の必死のアピールを軽く受け流して、由希は走り出した。まだ遅刻は余裕で回避できる時間のはずなのに、ペースが気持ち速い気がする。
「ちょっと、由希! なんでそんなに急ぐの?」
「少し早めに着いて、身だしなみどうにかしたほうがいいと思う」
「え、いま私そんなに酷い?」
髪が酷いことになっているのは予想がついていたのだけれど……と、自転車を漕ぎながらも私は焦る。でも、由希の答えは常識的なものだった。
「新学期の印象って、結構大切。クラスも変わるし」
あ、遅刻しないかどうかに気を取られていて、そのことをすっかり忘れていた。そうだ、新学期だからクラス替えがあるんだった。今度こそ、由希と一緒のクラスになれればいいんだけど。そして実はもう一人、一緒のクラスになりたい人が……。
いつもの時間から五分程度の遅れまで挽回して学校に到着した私たちは、指定の自転車置き場に自転車を止め、昇降口まで小走りで急ぐ。
クラス名簿の掲示場所は多少混雑していたけれど、小柄な私にはどうってことはない。無意識のうちに前髪に触れながら「古川智佳」という自分の名前を必死に探し始めて……。あった、二組だ。
「私、二組だった。由希は?」
「残念、八組」
「またダメかー」
「仕方ない、来年のラストチャンスに期待」
「でもクラス替え五回目でもダメって、かなり引きが悪いよね」
あまり時間の余裕がなかったこともあり、私たちは自分の名前だけを確認して、すぐに靴箱に足を向ける。
でもやっぱり心の準備のためにも、せめて自分のクラスメイトはよく確認しておきたい。呆れる由希を先に行かせて私はクラス名簿の前に足を戻し、二組の名簿を先頭から順にゆっくり確認して──。
先に行ったはずの由希は、靴箱の前で待っていてくれていた。
「どうしたの? なにかいいことあった?」
「別に、なんでもない」
「ホントに?」
そこで由希は腕時計に目をやり、顔を曇らせる。
「あ、いけない。じゃあまた放課後、音楽室で」
「うん、あとでね!」
小走りで階段を上っていく由希と別れてから、お手洗いで身だしなみをチェックしているうちに本当に遅刻ギリギリの時間になってしまい、私は慌てて教室に滑り込む。
そしてお目当ての彼が、背の高い好青年風の男子と話し込んでいるのを発見した。
中学時代から変わらない、サイドと襟足を短く刈り上げ、柔らかい髪を自然に流す髪型。優しそうな目と、頑固そうな眉。たぶん男子の平均身長よりちょっと高いくらいの背丈だけど、それ以上に感じさせるしっかりした姿勢。
「なんだ、古川さんか。驚かさないでくれよ」
智佳って名前をド忘れされていたのは結構なショックだったけど、岩崎くんと同じクラスになれて、私は本当に嬉しかった。
実際のところ、彼が気にしているのは由希だってことくらい、私だって知ってる。でもそんなことは、私にとってどうでもいい。
ずっと気になっていた彼と初めて同じクラスになれたからということ以上に、おそらく彼がこの街で過ごす、最後の半年を一緒に過ごすチャンスを射止めることができたということ。そのことになにか運命を感じてしまう。
中学のころ、彼が生徒会活動の合間の雑談でこう言ったことを、私は覚えている。
「俺、親の都合でだいたい三年ごとに転校してるから、故郷とか幼馴染とかそういうの全然縁がなくて。みんなの話聞いてて、そういうのすごく羨ましい」
彼が転校してきたのは中二の十月だったから、今年の十月がタイムリミットになるはず。
本当に今年でお別れなの?
担任がやってきて始まったホームルームをよそに、私は彼の背中をずっと見つめていた。




