7. 彼女は幸せそうな笑みを浮かべて頷いた
翌日、土曜日の午後。
転勤する父親とあわせて転居する家族の見送りのために、俺は福島駅に来ていた。
午前中にすべての荷物の搬出が終わったけれど、新居での搬入作業は明日の午前中の予定になっている。だから俺の家族は、今日は新居近くのホテル泊まりだ。
「じゃあな、直。自分で決めた道だ。しっかりやれよ」
「身体には十分気をつけるのよ。あと、困ったことがあったら遠慮なく連絡しなさい」
「彼女さんと仲良くね!」
最後に余計なことを言ったのは妹の玲だが、言われても仕方がない状況ではある。
なぜなら、ただでさえ小柄な身体を緊張でさらに丸めた古川さんが、俺の隣に立っているからだ。
なんで古川さんがここにいることになったのか、詳細な経緯は思い出したくもない。
俺が言えるのは、家族全員が足を向けて寝られないくらいに、彼女が荷物の搬出とその後片付けで大活躍してくれたということだけだ。
丁寧な作業、そして細々としたことまでの気配り。古川さんなしにここまでスムーズに運ぶことは、考えられなかったんじゃないかと思う。
母親なんか、さっきみんなで遅めの昼食をとってる間に「このままお嫁さんに来てくれないかしら」だの「直を一人残しておくのは心配だったけど、これなら安心」だの好き勝手言いだして、恐縮しっぱなしの古川さんが、ちょっと可哀想になるくらいだった。
でもまあ、少なくとも俺たちにとって良かったんじゃないかと思う。一人暮らし本格化の前に、存在を家族に認知してもらえる機会ができたというのは。
だって一人暮らし後に急にアレコレモニョモニョな話が親の耳にはいったりしたら、いらぬ誤解を招くだろ? いやホントに真面目な話だってば。
改札を抜けた俺の家族が視界から消えたのを確認して、古川さんは両膝に手を付いて背中を丸めて、大きく息を吐いた。
「なんか、悪かったな」
「いや、お手伝いで役に立てたのと、岩崎くんの家族といろいろお話できたのは良かったよ? でも」
後に続く言葉は、聞かなくても想像がつく。
「本っ当に、つっかれたーーーーーっ!」
ひとまず休もうということで、古川さんと近くのコーヒーチェーン店に腰を落ち着ける。
普通のファミレスとかハンバーガーチェーン店でも良かったんだけど、引越作業への貢献で特別手当を獲得したばかりだったし。
こんなときくらい、ささやかな贅沢してもいいよな? 今日だってデートみたいなもんだし。
二人とも朝からの肉体労働と気苦労で心身ともに疲れ切っていたこともあって、極端に甘いものは取らない主義の俺ですら、生クリーム山盛りの飲み物を選択。
「ダイエット中なんだけど」と口先だけは渋っていた古川さんに至っては、さすがに女子高生だけあってか、巨大サイズ&甘物トッピング追加という、ネット上の噂でしか聞いたことがないようなものを注文。
そして満面の笑みで俺の前に座っている、という次第だ。
作業の手伝いということもあってか、今日もパンツ姿の彼女だけど、一つだけいつもと違うところがある。
俺が気付いてないと思ってるのかもしれないけど、実は今朝うちに来た瞬間から、とっくに気がついていた。
でもうまいことそれに触れるタイミングがなかったことに加えて、どういう風に触れればいいのかわからなくて……。
「古川さん」
「なに?」
ストローの先でちびちびと生クリームをすくって舐めていた彼女が、手を止める。
「その、くちびる……。か、かわいい、と思うよ?」
今日の彼女の唇には、うっすらと、ピンク色の艶がある。
少なくともこの半年の間に、こんなことはなかったはずだ。
こういうのは指摘するんじゃなくてまず褒めるべき、ってどこかで読んだ通りに行動しようと思ったんだけど、慣れない言葉を発しようとしたせいか、思いっきり噛んでしまった。
誤魔化すように、俺は飲み物をすする。
「えっと、リ、リップ塗ってみたんだけど……変かな?」
「そ、そんなことない。いいんじゃない? すごく似合ってる、と思う……」
「それなら、今度からときどき塗ろうかな。岩崎くんと会うとき、とか」
そう言って、古川さんは不揃いの前髪越しに、上目遣いで俺を見る。恥じらいとアピールが混ざったような視線にドギマギしてしまい、気の利いた言葉なんてまるで出て来やしない。
きっと顔を赤らめているに違いない俺が黙って頷くのを見て、古川さんは「へへ」と、いつものような照れ笑いを浮かべた。
ようやく人心地つき、朝からの疲れも八割がた回復してきた……と感じてきたころ。
急になにかに気づいた様子の古川さんが身を乗り出して、口元に手を当てたヒソヒソ声で俺に注意を促してきた。
「ねえ、 岩崎くんの左斜め後ろ、店の入口近くに座ってるの、宏樹くんじゃない?」
「げ。いま顔合わせたくねえ」
「彼女と一緒みたいだけど?」
「マジで?!」
「しーっ! 声が大きい」
口に指を当てた古川さんに注意された俺は、さりげない振りを装って、そっと左後ろのほうに頭を向ける。
そこには、どこからどう見ても宏樹としか言いようがない男の後ろ姿と、肩に触れる程度の髪の長さで優しい目をした、少し大柄な女の子──年の頃は俺たちと同じくらいか──の姿があった。
お互いに制服姿だけど、相手の制服は見覚えがないタイプだ。持ち物からすると、練習試合の帰りってとこなんだろう。
顔を古川さんの方に戻して、俺はひとりごちる。
「やっぱり宏樹、彼女いたのか……」
古川さんは身悶えしながら、なにか言いたそうというか悩んでいるような素振りをしていたけれども、しばらく経ってから小声でこう漏らした。
「実は、ちょっと前に聞いたことあるんだ。彼女、いるって」
絶対に秘密だって言われてたけど、もう見ちゃったし、いいよね? と悪戯っぽい表情をする古川さん。
「彼女じゃなかったら、どうするんだよ?」
「え?」
「中学のときの知り合いに会っただけ、って可能性もあるし」
古川さんは一瞬だけ狼狽した様子を見せたけれど、自信を持って言い切った。
「彼女だと思うよ。女の子の顔を見たら、わかるもの」
「そんなもんかねえ」
「そんなもんだよ」
そして、少し呆れ気味にこう付け加えた。
「岩崎くんには、まだまだ勉強が必要だよね」
「どういう意味だよ」
「そういうところ」
そう言って古川さんは俺から視線を外して、宏樹の彼女の方を控えめに、すこし羨ましそうな目で眺めている。
いったいこの会話はなんなんだ。
いかにも女の子相手って感じの謎ゲームで、煙に巻かれてごまかされたような気しかしない。
これまで仲の良い友人として付き合ってきた古川さんと、あれ以来少し関係が変わった、というか深まったあとの古川さん。
当たり前なのかもしれないけど、俺に対する接しかたが少し変わってきたと思う。
勇気を持って踏み出したことで、関係も変わってくる。
こういうことも、俺がこれから学んでいかないといけないことなんだろうな、きっと。
しばらく経って宏樹たちは席を立ち、改札の方に向かって行った。
俺たちは二人揃って狭いテーブルに突っ伏して、大きな溜息をつく。
「すっげえ疲れた……」
「緊張しちゃったよね」
「でも、別にコソコソしなくても良かったんじゃねえ?」
「岩崎くんは、いいの?」
身を起こした古川さんが、真顔で切り込んできた。
俺たちの関係をオープンにするのか? と尋ねられていることを自覚すると、みっともないけれども、まだ躊躇してしまう俺がいる。
「改まってそう言われると……」
視線を微妙に外す、情けない俺だった。
「あーあ、あの格好良かった岩崎くん、あの日限定だったのかなあ……」
微妙に失望の色を浮かべながら、古川さんがこぼす。
「いいの。どうせ別に、学校でベタベタしたりするつもりはないし」
でも修学旅行とかそういうイベントのときはやっぱり……とかそのあと古川さんは小声でなにやらぶつくさ言っていたけど、着信音に気づいたらしく、バッグの中からスマホを取り出した。
「どしたの」
「お姉ちゃん。『そろそろ迎えに行こうか?』って」
「そっか、手伝ってもらう立場でこんなこと言うのもアレだけど、終わる時間全然読めなかったから、予定も組めなかったもんな……。お姉さんにも待っててもらって申し訳ない」
「それは気にしなくていいかも。なんか、お姉ちゃんも楽しんでるみたいだし」
「はあ?」
「あの人は一回、福島競馬場の馬に蹴られた方がいいと思う」
疲れた頭ではどういうネタなのか理解するまでに時間がかかったけど、「人の恋路を邪魔する奴は」ってやつか。それにしても、投げやりな口調の古川さんの目が怖い。
まあ、それはともかくとして。
「じゃあ、今日はこの辺で終了って感じかな。本当に助かった。ありがとう」
「うん……」
疲れた顔に笑みを浮かべつつも、古川さんはいまいち不満げだ。
なんか変なこと言ったか? と考え込みそうになった俺は、逆に言うべきことを言ってなかったことに気づいた。そう、俺にとっては、こっちのほうが大切だ。
「今日一日、疲れたけどとても楽しかった。だからたまには、こうやって一緒に出ようぜ」
それでも「デート」という言葉が恥ずかしくて、どうしても口に出せない。
この期に及んでヘタレすぎだろ、俺。
「たまには?」
首を傾げながら、古川さんが訂正を要求する。
「可能なかぎり高頻度を維持すべく、前向きに善処する所存であります」
「お役所言葉禁止!」
笑顔でツッコミを入れつつも、彼女は頬を膨らまして不満を表明する。
だから俺は、今度こそちゃんと言うんだ。恥ずかしがらずに、彼女の目を見て。
「たくさんデートしようぜ。いろんなとこに行きたいんだ、古川さんと二人で」
古川さんは少しだけ目を伏せてから、思わず引き込まれてしまいそうな、幸せそうな笑みを浮かべて頷いた。
これまで俺が見たことがないような、最高の笑顔だった。




