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6. あのころのような陽だまりの中で

 昼休み中に五十嵐さんが二組の教室にやってきたのは、九月の最後の金曜だった。


 いつものメンツで昼飯をとり終わったばかりの俺の机にまっすぐに向かってきた彼女は、彼女には珍しい緊張気味な早口で、用件を切り出した。


「岩崎くん、ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」


 予想外の展開に面食らった俺は、「お、おう」と返すので精一杯で、歩き出した彼女を追う。怪訝な顔付きの宏樹、心配そうな顔付きの古川さんに見送られて、そのまま俺は教室の外に出た。


 ちょうど一週間前に俺が彼女のクラスを訪ねた時のように、また東北新幹線の高架下に連れて行かれるんだろうか?


 そんな想像が頭の隅をかすめ始めた頃、校舎の端、廊下の突き当たりで彼女は振り返った。そしてそのまま、覚悟を決めかねているように黙り込む。




 いったいどんな用件だ?


 全力で頭を働かせる俺の頭に、「由希が言ってくれるのを待ってあげて欲しい」という、古川さんからこの前聞いた言葉が蘇った。そういうことなんだろうか? 


 しばらく経って、五十嵐さんは深く頭を下げた。


「この前はごめんなさい」


「いや、俺の方こそごめん! なんか謝る機会がないままで、そのままにしちまって本当に申し訳ない」


 俺も慌てて頭を下げる。彼女を傷つけたのは、きっと俺の行動のせいだと思うから。


「ちょっといろんなことが重なってて。私らしくなかった」


「そっか……」


 あの日、激情に駆られたとでもいうような表情をしていた五十嵐さんだったけど、今日はいつも通りの、俺がよく知る彼女だった。


 ちょうど窓から射してきた昼の日差しが陽だまりを作り、柔らかく彼女を包む。




「こうやって岩崎くんと話してると、中学の頃を思い出すね」


 窓から中庭の樹々を眺めるようにしていた五十嵐さんが、俺と視線を合わせないままで口を開いた。


「うん、俺もちょっと思った」


「私、あのころ毎日がとても楽しみだったんだ。みんなと、岩崎くんと学校で会うのが」


 俺も五十嵐さんの顔を見るのが、声を聞くのが、毎日とても楽しみだったんだ、と心の中で付け加える。


「私には、勇気がなくって。そうこうしているうちに、いろいろあってね」


 ちょっと手を伸ばせば触れられるかもしれないけど、触れようとするとすぐに消えてしまいそうな幻影。それがあのころの五十嵐さんだったのかもしれない。


 今の五十嵐さんには、手を伸ばせば触れられるような気がする。でも、今の俺は触れちゃいけないんだ。なんとなくだけど、確信はあった。


「だから、勇気を持って踏み出した人は応援したい」


 そして、そのあとに言おうとした言葉を五十嵐さんは飲み込むようにして少し視線を外し、最後に付け加えた。


「私から言えるのは、これだけ」


「そっか」


 何か反応しようとして、俺が口に出せたのはこれだけだった。正直、情けなかった。


 もっと人生経験を積めば、こういうときにもっと気の利いたことが言えるようになるんだろうか。




「ところで……」


 しばらく続いた沈黙を破ったのは、五十嵐さんだった。いつの間にか、彼女の優しい視線が俺を捉えていたことに気付く。無意識に照れが出てしまったらしい俺を見て、彼女の表情に微笑が浮かんだ。


「転校しなくて済むってことは、今日でお別れってわけじゃないのよね?」


「もう一人暮らし始まってるよ。初心者マーク付きだけど」


 初心者マークという俺の言葉に、彼女の表情がもう少し緩んだ。


「私ね、自分じゃどうしようもできないことがたくさんあったんだけど……」


 そこで言葉を切って、五十嵐さんは少しだけ俯く。


「いい方向には向かってるの。ほんのちょっとずつ、だけど」 


「それって……」


 夏休み中の勉強会で彼女が見せた、寂しそうな表情を俺は思い出した。


 さっきの独白もそうだし、これが古川さんが仄めかしてたことなんだろうか。


「ごめん、まだ詳しくは言いたくない。笑って言える日が来ればいいとは思ってるけど」


 じゃあ、なんでいまそんなこと、わざわざ俺に言うんだよ。


 そんな俺の内心を見透かしたように、五十嵐さんは視線を俺に戻してから、こう続けた。


「岩崎くん、優しいから。余計な心配かけたくないの」


「余計って……」


「私は大丈夫だから。それより」


 そういって、二組の教室の方に視線を向ける。こちらを伺うようにこっそり顔を出していた宏樹と古川さんが、慌てて顔を引っ込めたのがわかる。


「智佳を大切にしてあげて。私の、とても大切な友達だから」


 細く、震えるような声だった。


「それは、もちろん」


「約束できる?」


「……約束する」


「良かった」




 そこまでで用は済んだとばかりに、五十嵐さんは自分のクラスに戻ろうと、階段に向けて歩き出した。


 けれども、数歩進んだところで足を止め、俺の方を振り返る。


「岩崎くん。もしあの日、私が……」


「え……?」


「いえ、なんでもない。またね」


 そう言って何段か階段を上がったあと、なにかを思い出した様子で振り向いた。


「そうだ。智佳の髪型の理由、今度聞いてあげてね!」


 そして今度こそ彼女は階段を駆け上がっていき、あっという間に俺の視界から消えた。




「もし、あの日」


 五十嵐さんの表情は、彼女が口に出せないこと、もう言わないと彼女が自分で決めたであろうことを俺に訴えていた。そして俺はたぶん、彼女の言わんとしていることを理解できたんじゃないか、と思う。


 あの日。


 それがあの雪の卒業式のことだったなら。


 隣の席で陽だまりの中、ふんわりと眠る彼女の姿を見ていた日のことだったなら。


 あの写生大会のあと、ドキドキしながら隣を歩いていた、教室への帰り道のことだったなら。


 もしそうだったなら、俺の、彼女の運命も変わっていたんだろうか。そんなことを考えながら、彼女の姿が消えた階段をしばし眺める。


 いや。


 俺は頭を振った。


 俺がここにいる理由、来週からもこの街にとどまる理由。


 それは俺の日々の決断、そして人との交わりの結果なんだ。仮定をいくら積み重ねたところで、自分から動かなければ、足掻かなければなにも変わらない。


 こんなことがわかった程度で偉そうにするのは憚られるのかもしれないけど、ちょっと前の俺は、こんなことすら理解していなかった。それだけでも、この一週間の経験は大きかったんじゃないか、と思う。




 そして、それから。そして、これから。


 五十嵐さんと話したことで、俺は自分が古川さんとどうなりたいのか、どうしたいのか、自分の心がようやくわかったような気がする。


 またひょっこりと廊下に顔を出した宏樹と古川さんに気付いた俺は、苦笑いを浮かべながら二人に手を振り、何事もなかったことを伝える。


 安心して胸をなでおろした様子の二人にどこまで伝えるべきかと考えながら、教室に戻ろうと俺は歩き始めた。


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