6.(前) 岩崎がどうしたって?
とうとう九月になった。
八月の最終週だけを残して夏休みが明け、新学期早々に開催された席替え大会。
まさかの二回連続で岩崎くんの隣の席ゲット(ただし左右の関係は逆になり、席も窓側の前列に近い位置に変わったけれど)という偉業を成し遂げたこともあり、学校生活には何の不満もない。
岩崎くんとの関係も、進展がないようなあるような、相変わらずの関係を保っている。
一部のクラスメイト(というか、香織と宏樹くんだ)から夫婦呼ばわりされているのは嬉しくもあるけど、そういうのを嫌がる岩崎くんが学校では私と微妙な距離を取りたがる理由にもなっていて、痛し痒しというところ。
でもそんなことより、私にとっていま一番大切で、気がかりなこと。
それは、そろそろ十月を迎えるというのに、岩崎くんの去就が相変わらずはっきりしないこと。
何も決まっていないのかもしれないし、今秋の異動はナシと決まったのかもしれない。いや、ひょっとすると「もう転校は決まっているけど、まだ言いたくない」という、私にとって最悪のケースすらあり得る。
でももう少し経ったら、きっと岩崎くんから教えてくれる。少なくともそう思えるだけの関係を、私はこの半年弱で築いてきたつもりだ。
男女関係では引っ込み思案だった私だけど、後悔しないように頑張ってきた。
でも、岩崎くんには迷惑だったのかな……。
思い悩みながらも、「岩崎くんが言ってくれるまで待とう」と私は決めた。
そんなことを考えているうちに、さらに一週間が過ぎた。
何も変わらない、普段通りの生活。登校して岩崎くんの隣の席に座り、挨拶を交わす。昼休みは彼と宏樹くん、香織と机を囲んでお弁当を食べて、くだらない世間話を楽しむ。
水曜日は彼の家の前まで一緒に帰って、そこから二人で(ちゃんと別の)自転車で移動して、そのまま文知摺観音の掃除の手伝い。そして、終わったらなにか飲みながら一休みをして。
本当に、夏休み前と同じ生活。
彼の一番の親友である宏樹くんも、表面上の振る舞いはこれまでとまったく変わっていないように見える。彼もこの十月で岩崎くんが転校する可能性があることは熟知しているはずだけど、岩崎くんとの関係に、特に変化があるようには見えない。
それとも私や他のクラスメイトとは違って、宏樹くんはすでに話を聞いていたりするのだろうか。
学校で彼が岩崎くんと話している姿を見たときに思いついたこの発想から、みっともないことに、私は抜け出せなくなっていた。
宏樹くんに話を聞いてみよう。
そう決心した私は、オケの練習が終わると同時に下校準備を整えて、ハンドボール部の練習が終わるのを待った。といっても、オケの練習が終わるのも似たような時間だったから、あまり待たずに済んだのは助かったのだけれど。
ちなみに、いつも途中まで一緒に帰る由希には、用があるといって先に帰ってもらった。岩崎くん絡みでごまかすような嘘を親友につくのは、胸がざわざわするような心苦しさがある。
待つこと数分。
練習を終えて体育館から部室に移動するハンドボール部員の中から宏樹くんの姿を見つけ、私は声をかけた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「古川? こんなときに珍しいな」と宏樹くんは驚いた顔をしたけど、「いいよ。すぐ終わる話?」と了解のポーズをとる。
「んー、少しだけ長くなるかも」
「わかった。電車乗り遅れたくないから、先に駅に移動しておきたいな。駅前のハンバーガーチェーン店でいいか?」
「うん。これから着替えたりするでしょ? 私、先に行って席取っておくから」
「悪い、遅くなった」
お店で席を確保して、ちびちびとアイスコーヒーを啜りながら待つこと約十五分。
宏樹くんの声に振り向くと、学校指定のシャツ代わりの白いポロシャツに制服のパンツという出で立ちの彼が、意味深な笑みを浮かべて立っていた。
と言っても、どうやって彼に話を切り出せばいいのか考えているうちにあっという間に時間が経っていたみたいで、「え? もう来たの?」というのが正直なところ。
「俺、アイスコーヒーとポテト頼むけど、古川はなにも食わなくていいのか?」
「ありがと。でもなんか食べると、うちで夜ご飯食べられなくなっちゃうし」
以前お姉ちゃんか誰かに聞いたことがあるような気がするけど、高校生男子の食欲って、本当に凄まじいよね。一日五食でもまだ足りないって話だから、きっと胃がブラックホールみたいになってて、食べ物を無限に吸い込んでいるに違いない。
「お前はもう少し、食べる量を増やしたほうがいいと思うんだがなあ」
そりゃもちろん私だって食べたい気持ちはあるけど……と思いながら、自分のお腹のあたりに目をやる。
きっちり人並み以上の脂肪はついているはずなのに、肝心な部分に蓄積しない自分の体型。毎日のお風呂上がりには、鏡を見るたびに絶望感を覚える。
「じゃあ、注文行ってくるわ」
「いってらっしゃーい」
しばらく経って、宏樹くんがトレイを持って戻ってきた。アイスコーヒーと巨大なポテト以外に、バニラアイスが乗ってるのはどういうわけだろう?
「アイスは俺の奢りな。いらないなら、俺が食うけど?」
「え。じ、じゃあ、ありがたくいただきます……」
食べないって決めてたのに、甘物の魅力には逆らえない自分が情けない。
そのまま食べるべきか、それともいっそ、コーヒーフロートにしちゃうのはどうだろう? そんな風に甘物の魅力と格闘している最中に、宏樹くんがいきなり核心をついてきた。
「で、岩崎がどうしたって?」
「ちょ、ちょっと待って。なんでそうなるの?」
「違うのか?」
「違わ、ない……」
ほら見ろ、とでも言いたげな、勝ち誇った様子に腹が立つ。
でもなんとかそこを我慢して、ここ数週間気になっていたことを彼に打ち明ける。
「岩崎くんがさ、お父さんの会社の都合で三年周期で転校してるのはもちろん知ってるよね? 今年の十月で三年目だってことも」
宏樹くんは黙って頷く。
「そろそろ、なにか聞いてない?」
「なにかって?」
「いやほら、転校決まったかどうかとか……」
「あいつ絡みでお前に嘘付くつもりはないから、正直に話すけど」
といって期待を持たせた宏樹くんだったけど、続く言葉は残念なものだった。
「実のところ、俺もまだなにも聞いてない。というか、あいつもまだなにも聞いてないみたいだ」
「でも、十月までもう一ヶ月もないよ?」
「あいつも同じことボヤいてた」
そこまで言ってから、宏樹くんは周囲を見回した後に声をひそめた。
「なんでも、最近は転勤とか異動とかは、ギリギリに告知されることが多いらしい。さすがに引っ越しが必要な家族がいる場合は、少しは配慮されるらしいけど」
「なんでまたそんな……」
つられて、私まで小声になる。
「不正行為対策、だってさ。要するにズルとか犯罪とか、出入り業者とつるんでいろいろ悪さしてたりとか。そういう連中が証拠隠滅したり、口裏合わせしたりする暇を与えない、ってことらしいよ。あいつの親、管理部門だって聞いたことあるし、なおさらその辺シビアなんだろ」
「そうなんだ……」
「ただ、俺が思うにだな」
気落ちする私を慰めるかのように、宏樹くんは身を乗り出した。
「もし転校することになったとしても、岩崎はまずお前に話すと思うけどな」
意外な言葉に驚いた私は、気色ばんで反論する。
「そんなことないってば。岩崎くんが気にしてるのは、由希……」
「知ってる」
「知ってて勉強会に呼ぶとか、いい度胸してるよね、宏樹くんも」
冗談っぽくごまかしたけど、思わずキツい言葉を使いそうになってしまった。いまものすごく醜い顔をしていたらどうしよう、と私は反省する。
夏休み中の良い思い出になった勉強会。あのとき、助っ人だって言って由希が現れた時は、いったいどんな冗談かと、腰を抜かすほどに驚いた。そして、由希が宏樹くんの従姉妹だって知ったときも。
「いや、あんときは悪かった」
苦笑いを作った宏樹くんは、両手をテーブルについて、ふざけた調子で頭を下げる。
「実は俺も、その辺の事情は全然知らなくてさ。あいつと由希が同じクラスだったってことまでは聞いてたけど、それ以上は全然」
「同じ学校に進学したんだし、由希と情報交換とかしなかったの?」
「同じ学校だからこそ、俺も由希もそんなことはしないんだよ」
当然だろ? とでもいうような口調の宏樹くん。彼のこういう潔いところを、私は本当に尊敬している。だからこそ、こういう話をさせてもらっているのだけれど。
「話を戻すと、好きな奴がいるってのは仄めかしてたんだけど、相手が誰なのか、絶対に口を割らなかったんだよ、あいつ。あの日の様子を見て、そういうことかって、ようやく見当がついたんだけどな」
「そっか……」
由希を見つめるあの日の岩崎くんを思い出して俯いてしまった私を、いたずらっぽい声で宏樹くんが茶化す。
「でも俺の見た感じじゃ、お前も結構いい線いってると思うけどな。頑張るつもりなら、応援してやるぞ」
「ちょっと! 私は岩崎くんとは、そんなんじゃないんだから!」
嘘だ。いまは確かに、そんなんじゃない。だけど、でも本当は、私は……。
「そんなんじゃ、ないんだから……」
私の声は、とぎれがちに低く、細くなっていく。
「やめてよね」




