1. 夢の中でさえも言えない言葉
「これで一年も終わりか。早えもんだな」
そう切り出したのは、これまでの俺の人生の中でもっとも「親友」という言葉に近い男、菅野宏樹。
三学期の予定をすべて終了して、明日から春休みに突入する一年六組の教室。
だらだらと残っているクラスメイトがまだいるものの、もうほとんどは部活か家に向かい始めている。
「二年になったら、どうなるんだろうな」
同意をにじませつつ、窓の外をぼーっと眺めながら俺は答える。
「俺はまた、岩崎と同じクラスだといいけどな」
受け答えとして、まったく噛み合ってない会話だ。でもそれはそれとして、そう言ってくれるのは俺的には嬉しいぞ、宏樹。
「でも俺的にはそれよりも……」
「可愛い女の子と一緒になれるといいなって話か?」
わざとらしく大袈裟にため息をついてから、呆れた口調でツッコミを入れる俺。
宏樹は俺より一回り背が高いとはいえ、別に際立って身長があるわけじゃない。
とはいえ、学生服の上からではあまり想像できない、中学からの運動部生活で鍛え上げられた細マッチョ体型。そして色気を残しつつも、品良く刈り上げたベリーショート。
顔立ちはイケメンとまではいかないものの、快活で陽気な好青年ということもあって、女子生徒からの人気はかなり高い。
「宏樹、やっぱお前、選り好みしすぎなんじゃねえの?」
それなのに、奴が女子生徒の熱い視線をすべてソデにしている理由はまったくの謎に包まれていて、実のところ俺にもよくわからない。
そうすると必然的に、入学以来親友ポジに収まってる俺との関係を邪推する連中まで現れ始めるのは世の理だ(腐ってやがる)。宏樹が悪いわけじゃないのは言うまでもないことなんだが、とばっちりは勘弁して欲しい。
「まあ、このクラスは地味な女子が多かったしな」
そんな俺の心中におかまいなく、宏樹はあちこちに敵を作りそうなことを言い出す。だからやめろってば。
俺は教室にまだ残ってる連中(当然、女子もいる)を目線で示して、「ちょっと声がでけえぞ」と小声で一言注意を入れてから、こう続けた。
「別に地味だっていいんじゃねえ?」
「おい岩崎、お前明るくてサバサバしたタイプがいいって言ってなかったか? 少しギャル要素入ってる感じの。趣味変わったのか?」
「程度問題だよ、程度問題」
いけね、フェイク入れてたの忘れてた。
俺は慌ててごまかしながら、中学以来の想い人の姿を思い浮かべる。
綺麗な髪。可愛いというよりも、美しさを感じさせる横顔。聡明さと意志の強さ、それに気配りが込められているような視線。耳に優しく溶け込むような、落ち着きのある声。
「三組の五十嵐とかどうだ? 中学同じだったんだろ?」
まさに想い人の名前そのものを出されて、一瞬むせそうになる。なんでわかったんだというか、どんな推察能力だよ。
俺に隠れて機械学習でもしてるのか。心臓が止まるかと思ったじゃねえか。
「五十嵐? うーん、ちょっと違うんだよな」
このままではボロを出しかねないと考えた俺は、反撃に出た。
「そんなことより宏樹、お前だよ、お前。どんだけ理想高いんだよ。身長高めで可愛い系で気配りができてって……」
条件並べただけで、頭がクラクラしてくる。
「この学年だと、該当者いないんじゃね?」
女子バレー部や女子バスケ部など高身長が集まりやすい部活の面々を思い浮かべながら、切り込む俺。
一般的な見地としては十分魅力的な女子が揃っていると思うんだけど、どうもこいつにはお気に召さないらしい。贅沢すぎて、そのうち絶対に天罰が下るぞ。
「まあな。隣で練習してる面々も結構可愛い娘がいるのはわかっちゃいるけど、なんか違うんだよな」
案の定というか、宏樹のノリもいまいち悪い。
ここで宏樹の態度が急に変わった。
実はここまでの話はすべてこのための前振りだったかとでもいうように、俺の顔を覗き込む。
「そんなことより岩崎、お前部活に戻らないか?」
「またその話かよ……」
もう十回は聞いてるぞ、と俺はうんざりする。
「いま戻れば来月新入生入ってきても普通に先輩として行動できるし、ラスチャンだぞ。先輩も戻ってきて欲しいって言ってる」
「そう言ってくれるのは、そりゃもちろんありがたいんだけど……」
そう言いながら、自分の身の上を振り返る。親の都合で定期的に転校を繰り返す俺にとって、この街での残り時間は、おそらくあと半年ちょっとだけ。
「前にも言っただろ。秋の新人戦まで居られるかどうかわからないんだから、かえって迷惑になるよ。残念だけど、他を当たってくれ。いい新人取れるといいな」
わかっていたけど仕方がない、という雰囲気で宏樹は肩をすくめる。
「じゃ、練習頑張ってくれ」
カバンを肩にかけながら、俺は教室の出口に向かって歩き出した。
「おう、またな!」
右手を挙げた宏樹はそのまま続ける。
「また同じクラスになれるといいな、岩崎!」
「ああ、俺もそう願ってるよ」
──宏樹とそんな話をしたせいか、その晩は久しぶりに、中学生時代の夢を見た。
「岩崎くん、授業面白くないの?」
転校してきてまだ数ヶ月くらいの、中二の頃。それまであまり口をきいたこともなかった五十嵐由希さんに急に話しかけられて、俺は焦ってしまった。
「え? なんで?」
思わず顔を覗き込んでしまい、いつも「目力があるなあ」と思っていた、意志の強そうな彼女の視線と正面からぶつかってしまった。
「いつも窓の外、見てるから」
「そうかな。そんなつもりなかったんだけど」
取り繕うように口先で誤魔化したものの、予想外の人に自分の癖が把握されていたことに、当時の俺は驚いたものだ。
エアコンで暖められた教室の空気の匂い。断熱なんて考えられていない薄っぺらのガラス窓から感じられる、少しだけひんやりとした冷気。そして、高鳴る鼓動。
夢の中特有の、普段の生活では忘れていた、細かいところまで描写される感覚。つい昨日のことであったかのように、俺はあの出来事を夢の中で追体験している。
この感覚を目が覚めてからも持ち越したい……と、夢と現実が入り混じった不思議な感覚を楽しんでいると、つながりのある記憶までが引っ張り出されてきた。
中三になって、彼女と隣の席が続くようになってしばらく経ったころ。
「岩崎くん、最近は窓の外、見ないね」
「そ、そうかな」
だいたい、今の俺の席から窓の外を見ようとしたら、五十嵐さんの横顔しか見えないじゃんか。
ただでさえ意識しちゃって横目でチラチラ見てるくらいなんだから、これ以上意識させないでくれよ……。
心の中でそんなことを呟きつつも、この前つい習慣でちょっと前に外を見ようとして、彼女の横顔に視線が吸い寄せられて大変なことになったことを思い出す。
「ふーん」
どぎまぎしている俺に構わず、彼女は隣の席でゆっくりと背伸びをしてから机にもたれかかり、うたた寝を始めた。
教室の自分の机にできた陽だまりの中、ふんわりと、気持ち良さそうに。午後の日差しを浴びて、肩に触れるか触れないかという長さの、綺麗な黒髪がキラキラと輝く。
俺は黙ったまま、軽く目を瞑った彼女の、幸せそうな横顔を見つめ続けている。でも本当は、俺はなにかを言い出したくてたまらない。
ふと気がつくと、彼女はそのままの体勢で、柔らかな微笑みを浮かべて俺の方を見ていた。
「どうしたの? 岩崎くん」
彼女の優しい、囁くような声色が、俺の耳をくすぐる。
「五十嵐さん、俺、俺はずっと……」
そこから先を伝えたいのに、なにかに縛られているかのように口が動かない。
──情けないことに、俺は夢の中でさえも、その言葉を口に出すことができないでいた。
もう残り少なくなってきた春休みのある日、俺はどうしてもあの場所に行きたくて家を出た。
福島盆地を南北に貫く一級河川、阿武隈川。初春の吹き抜けるような青空の下、その流れに沿って堤防の上に整備されているサイクリングロードを、ゆっくりと歩く。
日差しは暖かいけれども、まだ風は冷たい。春はまだ眠気混じりで、生命の息吹もまだらにしか目覚めていないようだ。
そういえば、この街に引っ越してくる前は「冬は近くに白鳥が来るんだぞ」って親に言われて、楽しみにしてたっけ。でもその白鳥も、実際に見てみると数が多すぎて、ありがたみなんてあっという間に消し飛んでしまった。
感動したのは最初の一冬だけだったなあ……などと、この街に越して来たばかりの頃を思い出しながら、枯れ草に隔てられて、ここからはかなり離れて見える川面を眺める。
どうせ秋には親の転勤に合わせて転校だ。だから、春休み中のこの風景も、きっと今日で最後。
転校なんて別に初めてでもないし慣れてるけど、改めてそう意識すると、なんとも言えない寂寥感がある。
これまでこの街で過ごした二年半のこと、そして残されたあと半年のこと。
そんなことを考えながら、サイクリングロードを行き交う自転車や人の邪魔にならないように、堤防の斜面部分に腰を下ろし、周囲を見渡す。
すぐ足元に阿武隈川と松川、視野の左手から中央にかけて遠くにそびえる奥羽山脈、右手側には間近に迫る阿武隈山地。
背後には母校でもある信東中、そして福島盆地のほぼ中央に鎮座する、この街のシンボルでもある信夫山が控える。
空いっぱいに広がる澄んだ青色と合わせて、目の前に広がるのはパノラマの絶景。
中学生の頃、俺はここからの眺めが大好きだった。
景色ももちろん気に入っていたけれど、それ以上にこの場所は、俺の初恋の思い出と強く結びついていたからだ。
──あれは中三の秋、写生大会(全校生が教室を出て、近場で絵を描くというイベントがあったのだ)のとき。
俺は当時半年の任期が終わったばかりの生徒会の面々と、この場所に座り込んでいた。
それぞれが気に入った風景を切り取って絵を描いている中、俺はそのとき熱烈に片想いしていた、そしていまも片想いしている彼女、五十嵐さんの隣に座って……。
教室でも隣の席が続いていたし、いまさら緊張なんてするわけないと思っていた。
それなのに俺の視線は彼女の横顔に吸い込まれっぱなしで、絵を描くどころではなく。
おかげで写生大会後に全員分の描いた絵が教室に張り出されたときは、かなり恥ずかしい思いをした。
あのときの緊張感、そして彼女と交わした会話は、今でも昨日のことのように思い出せる。
懐かしい記憶で心を癒した俺は、現実世界に戻ることにした。お気に入りだった場所から腰を上げ、帰路につきながら考える。
この街に居られるのも、おそらくあと半年。
俺は五十嵐さんに自分の気持ちを伝えられるのだろうか。いやそれ以前に、伝えるべきなのだろうか。中学卒業前後からの懸案をまた持ち出して、俺は心の中で弄び始めた。
彼女とは中学に転入してからの一年半同じクラスだっただけで、高校に入ってからは、ほとんど接点がない。
だから正直に言えば、告白したところで、受けてもらえる可能性なんてほとんどないことはわかりきっている。
いや、問題はそこじゃないんだ。
すぐに転校を控えている状態で自分の気持ちを伝えるってことは、受け入れられるかどうかに関わらず、ただの自己満足、無責任に過ぎないんじゃないか? という思いから、俺は逃れられない。
告白する勇気がないだけとか臆病なだけとか突っ込まれても、否定のしようがないんだけどさ。
いずれにせよ、あと半年で、俺は結論を出さなきゃならない。
──俺は本当に、結論を出せるのだろうか?