3. 勉強会本番は地獄の様相
五十嵐さんの準備が終わるのを待って、まずは午前中の数学の反省会が開催された。
正解ならば問題なし、間違っていればどうしてこうなったのか、問題を解くための着眼点を素早く見つけるにはどうすればいいのか、などとわいわい話しながら進める形式。
お互いが教える役を代わりながら進めていったんだけど(もちろん解説が間違っていると容赦のない叱咤・訂正を浴びる)、さすがに我が校の学年トップを争う五十嵐さんの解説は、わかりやすさ、鋭さともに別格だった。
でも俺は、ポロシャツとハーフパンツからすらりと伸びる、色白でほっそりとした彼女の腕や脚、時折ポロシャツと髪の隙間から覗くうなじ、そして胸元が気になって、勉強に集中するどころじゃなかった。
あまりの興奮に、心音が外まで響いていないか心配になる。そういえば彼女とこんなに近くで長い時間を過ごすのは、中学の卒業式以来か……。
あの日は朝から雪がパラついて、底冷えのする一日だった。
体育館で寒さに震えながらの卒業式を済ませたあとは、校門を出た辺りで仲の良い友人ごとに人が三々五々集まって、中学生生活の最後の名残を惜しんでいた。
雪がうっすらと積もり始めて、世界がだんだんと白く染まっていく中、俺は五十嵐さんになんとか声をかけられないか、思わしげに彼女の方に足を向けてみては戻ってきたり、微妙な距離を保ってうろうろしたりと、落ち着きなくそわそわしていて……。
当時の俺を冷静に眺めている奴がいたら、いい加減にしろと呆れられるような有様だったに違いない。
結局のところ、受験は終わっていたから同じ高校に進学することはわかっていたし、高校に入学してからでも告白はできる……とその場から逃げ出してしまうような形となり、彼女はそのまま友人たちと一緒に帰っていった(その中に、古川さんもいたような気がする)。
音もなく静かに降り続ける雪の中、彼女たちの話し声と背中が遠ざかっていく風景は今でも鮮明に記憶に残っていて、俺の後悔と分かちがたく結びついている──。
「冷たっ!」
あの日の寒さを思い起こさせるような冷気を頬に感じて、俺は我に返った。
「岩崎くん、誰のために勉強会やってると思ってるの?」
氷入りの麦茶のグラスを俺の頬に押し付けた古川さんが、ふてくされたような顔で俺を責める。
「ごめん。ちょっと頭溶けてて、少しぼーっとしてた。なんか飲みたいな」
「その麦茶飲んだら、気分転換に英語やるからな。安心しろ、和気藹々と進めるから」
それ、本当なんだろうな……? と疑心暗鬼気味の俺の耳に
「でも懐かしいね、この雰囲気」
という、柔らかい声が響いた。
「打ち合わせが終わった、放課後の生徒会室みたい」
「あ、由希もそう思う? そう、あのころはいつもこんな感じだったね」
五十嵐さんの言葉を受けて、懐かしそうな顔をする古川さん。
「もちろん、宏樹くんはいないんだけど」
「悪かったな、どうせおれは信東中組じゃねえよ。それにしても……」
そう言って俺たちの顔を見比べてから、さも単純な疑問であるかのように宏樹がこぼす。
「お前らの中学時代って、こんな感じだったのか? ま、想像できるような気もするけど」
「こんな感じの勉強はしなかったけどな」
せめてもの反抗とばかりに、俺は声色に思いっきり嫌味を込める。
「だってあの頃は、岩崎くん成績良かったもの。むしろ私が教えてもらってるくらいだったのに」
やめてくれよ……。
古川さん、お姉さんだけじゃなくて俺にも容赦なさすぎだろ。
弱り切った俺がふと視線を感じて顔を上げると、五十嵐さんがふんわりとした笑みを浮かべて、俺と古川さんのやり取りを眺めていた。
「でも、本当に懐かしい。またこんな場面を見られるなんて」
そう言って五十嵐さんは俺たちから視線をはずして、少し黙り込んだ。
「あの頃に戻れたらいいのにって、思うこともあるから」
労わるような、微妙な面持ちで宏樹が五十嵐さんを眺めている。従兄妹同士で、何か話でもあるんだろうか。
さてまた勉強時間に戻ったものの、数学地獄から解放されるという触れ込みの蜘蛛の糸に、なんの疑問を抱かずにすがりついた俺がバカだった。
というか、この勉強会に関しては始まる前からここまで(そしてきっとこれからも)、とにかく予想の斜め上に行くことが多すぎる。もちろん、俺にとっての容赦のなさの面で、だけどな。
次に始まったのは、その場で配られた長文読解問題を一文ずつ代わる代わる読み上げて、その場で日本語訳するという、別の地獄だった。どうも俺とその他の参加メンバーとの間では、恐ろしいことに「和気藹々」という言葉がなにを意味するのか、共通の認識が確立されていなかったらしい。
英語の授業と違って予習なし、初見での対応を強いられるから、基本的な構文理解力と語彙力がないと話にならない。単語さえ推測できれば、俺の国語力を持ってすれば論旨を推測することなど、造作もないはずなのに(ちょっと盛っちゃったのは謝るから、許してほしい)。
二十分ほどかけてようやく問題文の日本語訳がひと通り終わったところで、「やっぱりそうじゃねえかと思ってたけど」と、宏樹が重々しく宣言する。
「岩崎、構文と単語のストックがまるで足りてねえな」
「高校の英語、特に模試とか入試はそのときまでに授業で習った単語しか出ない、公立中学の試験とは違うんだから。やっぱり、ねえ?」
古川さんもなにか言いたげに俺を見る。
「お前雑学とかどうでもいいことには滅茶苦茶詳しいから、記憶力の問題ってわけでもなさそうだしな」
「あー、岩崎くんってそういうの強いもんね」
「夏休み前のいつだったか、ターボチャージャーとスーパーチャージャーの違いについて、延々と説明されたことがあったぞ。いきなり車のエンジンの話なんてされても、わかんねえよ」
「私も『なんで空は青く見えるんだろ?』ってひとりごとに、すぐに反応されたことがあるよ。なんだっけ、なんとか散乱」
「空が青く見えるのは、レイリー散乱」
間髪入れず、五十嵐さんが補足する。流石だ。
「って、岩崎くんが中学のときに言ってた」
そうだったっけ? そんな昔の、ちょっとした会話のことまで彼女が覚えていてくれたのは本当に嬉しいんだけれど、正直そのネタはあまり引っ張って欲しくない。
「いや、あれは昔、深夜アニメでやってたやつの受け売りで……」
「受け売りでも、記憶力がいいことには変わらないよ。それに、受け売りの知識を受け売りだって素直に言えるのは、岩崎くんのいいところだろ思う」
予想もしないタイミングで五十嵐さんに褒められて、天使に導かれてそのまま昇天してしまいそうな状態の俺。
その一方で、
「自分の失敗を認めるくらいなら死ぬって勢いの大人、世の中に多いからなあ」
と、うんうんと深く頷く宏樹と古川さん。お前らまだ高校生なのに、これまでどんな人生経験積んできたんだよ。
こんな俺好みの、いい感じに弛緩した空気が続いてくれれば……という期待を無情にもピシャリと引き締めたのは、古川さんだった。
「要するに。単なるサボりというか、努力不足なんだよね、岩崎くん」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
という俺のボヤキに対して、三人がいろいろ勝手な案を出してくる。
どれが手っ取り早くて効果があるのか議論になったんだけど、その中でもっとも単純だけれども凶悪な方法を、とりあえず試してみようということになった。
「とにかく、一日に単語を百個覚える。三十日で三千個」
言い出したのは、五十嵐さんだった。
「いやそれ、かなり無茶だと思うんだけど」
「その日だけ覚えていればいいから。次の日になったら、忘れてても気にしない」
「ねえ由希、それだとあまり意味ないんじゃない?」
五十嵐さんの肩のあたりを人差し指でつつきながら、古川さんが当然の疑問を差し挟む。その通りだと頷く俺と宏樹を一瞥した五十嵐さんは、涼しげな顔で言い切った。
「次の日に全部一気に忘れることなんてできないから、大丈夫。そうやって毎日とにかく百個ずつ詰め込んで、次の日まで忘れずに残った単語を少しずつ増やしていけば、そのうち全部網羅できる」
マッチョ志向というか、スパルタ式全開とでもいうか、あまりのアイディアに俺たち三人は絶句する。これが学年トップクラスの発想なのか……。
いや、たぶん五十嵐さんはもっと別の方法で語彙力増やしてて、この方法はステータスが記憶力全振りの俺向きにアレンジしてくれてるんだとは思うんだけど。
「俺もそれやってみるかな」
「私も」
「試しにちょっとやってみようぜ、いくぞ岩崎」
その後夕食までの間、「和気藹々」とした雰囲気の中で(ただし俺を除く)俺の記憶力がギリギリまで試される戦いが続いた。脳それ自体は痛みを感じないって話を聞いたことがあるけど、脳があげる悲鳴が俺には聞こえる気がする……。
そのまま夕方六時過ぎまで特訓は続き、今日の分の百個をどうにか覚え切ったところで、ようやく俺は解放された。
「結構ツメツメでやってたつもりなんだけど、あんまり進まないね」
言い方はサラッとしてるけど、えげつないことを平気で言う古川さん。
「そうだな。二泊三日でも良かったかな」
俺を殺す気か、宏樹。
「習慣さえできれば、勉強なんて惰性でもできるんだけど」
学年三位さまは、自分を基準にするのは自重していただきたい。
「ま、そろそろメシにしようぜ。そろそろこっち来いって、メッセージ飛んできてたし」
そんな宏樹の宣言で、ここで勉強会はいったん中断ということになった。古川さんからは不穏な雰囲気を感じないわけではないけれども、俺にとっては正直「助かった」という感想しかない。
机の上を片付けてから階段を下り、靴を履き替えてみんなで母屋に向かう、その途中。昼食の時からあることが気になっていた俺は、「なあ」と宏樹に声をかける。
「なんだ?」
「お前いつもこうやって、ご飯の時だけ母屋に移動すんの?」
「バカ言え。ちゃんとメシの準備の手伝いとか、それ以外にも家のことはそれなりにやってるよ。そんなナメた生活してたら、親父に蹴り出されちまう。昨日だって由希と一緒に家の手伝いしてたんだぜ」
なんだそれ。思わず「誘ってくれれば俺だって喜んで手伝ったのに……」という欲望で頭の中がいっぱいになりそうなところで、
「良かった。だよね、ホッとしたよ」
という自分に言い聞かせるような古川さんのひとりごとで我に返った。
その口調の可愛らしさに対して噴き出すのを我慢している気配がその辺に漂って、それがまたツボにはまってしまったらしい五十嵐さんが「ふふ」と小さい声を漏らす。それが合図になったのか、みんなで笑い出してしまった。
大皿にうず高く積まれた鳥の唐揚げとポテトサラダを中心とした夕食をいただいてから後片付けを手伝って、食後の一休み。さすがに夕食後の勉強(夜の部)は計画されていないらしく、俺は胸をなでおろした。
この後の過ごし方について「汗かいたし、先にお風呂入りたいかも」「エアコンついてたじゃねえか」って問答が古川さんと俺の間であったりしたけど、「先に風呂入ってもいいけど、花火やるから意味ないだろ」という宏樹の一言が決め手となり、風呂は寝る前にということになった。
ちなみに「男子はユニットバスでシャワーでも浴びて寝ろ」(意訳)という決定は、心身ともに健康な高校生男子として、いろいろな意味で残念極まりない。
そんなこんなで始まった、予期せぬミニ花火大会。
「花火なんて考えてもいなかったよ。さっすが宏樹くん!」
花火の特盛バラエティパックの大袋を、古川さんが勢いよく何個も一気に開封しようとするそばで、
「智佳、中身バラバラになると、片付けるときに大変だから」
と必死に抑える五十嵐さん。中学の生徒会活動で目にして以来このコンビを見ているけれど、やっぱり組み合わせというか、性格のバランスがいいなあと思う。
そんなことを考えながらも、俺は暗闇の中で、窓から漏れる灯りを吸い込むように、白く浮かび上がる五十嵐さんの手足から目が離せない。そして場の雰囲気を楽しむような、柔らかい笑顔を浮かべた横顔からも。
こんなにジロジロ見ちゃダメだと無理矢理に視線を引き剥がした先には、さっそくとばかりに線香花火を楽しむ、古川さんの横顔があった。
比較的お堅いキャラだとずっと思っていたけれども、同じクラスになって長い時間を一緒に過ごしているうちに、彼女の別の一面、魅力に引き込まれつつある自分を時々感じるのも確かだ。
「おい古川、落ちるぞ!」
「えっ? あっ!」
「どうした? ボヤッとして」
でもここ最近、古川さんについてちょっと気になることがある。
なんというか、表情が消えるというか、感情をなくしたような、無機質な表情をすることが増えたような気がする。今日も勉強会の途中あたりから、そんな表情を垣間見せていた。
何か悩みごとでもあるんだろうか。
こんな俺でも、彼女の力になれればいいのに。